◆◇ 問題あれこれ ◇◆

「…といった次第で、近々ジャーデにご訪問なさりたい、と仰っておられるという事で
す」
「…そうか」

 ここはジャーデ国王陛下の執務室。
 まだ午後の日差しが明るく差し込む室内で、外交補佐官から報告を受けるソウ陛下の顔
は、少々精細を欠いていました。
 少年から青年期に差し掛かったばかりの面差しは、まだ幼さが抜け切らないものでした
が、王位継承が済んでから四年が経つ現在、臣下の誰もが彼の采配に疑念を抱く事はなく
なって来ていました。

 そんな陛下ですから、補佐官もすぐに指示を頂けるものと、その返答に耳を凝らしてい
たのです。
 ところが当の陛下はというと、握ったペンをもてあそぶように目線を落とし、何かを吟
味するように間を置くと、補佐官に向かってゆっくりと問い掛けます。
「…この返答は、もう少し後でも良いかな?」
 補佐官は耳を疑いました。
 何故ならジャーデは、砂と太陽に支配される気候ゆえ、国内生産の不足分を大きく外国
に頼っている国で、外交はこの国の命のやり取りに匹敵する事柄なのです。
 その手綱は他の事以上に、慎重に繰らなければなりません。
「…ですが、フリードリッヒ国は我が国に取って最も重要な輸入大国です。彼らの申し出
に『待った』を掛けるには、それなりの理由が必要に…」
 そう言い淀もうとする補佐官の機先を制し、今度は彼の瞳をしっかりと捉えて語り掛け
ます。
「それは私にも十分に分かってるよ。私だって、フリードリッヒの機嫌を損ねて、ジャー
デの貿易に支障を来たすつもりはない。遅くとも、一両日中には返事を出そう」
 そう力強く返答をされる、若い国王の言葉に安心したのか、ようやく補佐官の顔にも安
堵が広がります。
「…分かりました。陛下がそう仰るのでしたら、もう少し返答をお待ち頂けるように取り
計らってみます」
「…すまない」

 補佐官が出て行くと、一人きりのやけにがらんとした執務室で、彼は大きくため息を吐
きました。
 手にしていたペンを机に放り、椅子の背に深く体を預ければ、真っ直ぐな黒髪も流れる
ようにそれに従います。
 瞳を閉じ、またも口からため息を吐き出すと、それを聞き付けたようにドアをノックす
る音が部屋に響きました。
「失礼します、ソウ陛下。護衛警備隊長ローランです」
 その声を聞くと、陛下は今まで張っていた緊張が解けて行くのが分かりました。
 ですから、そのままの姿勢を崩す事なく、彼はドアに向かって優しく声を返したのです。
「入れ」


「…で? 補佐官殿は何だって?」
 ドアを閉めた途端、ローランは部屋の外とは全く違う態度で、ぶっきらぼうに言い放ち
ました。
 金の長い髪を揺らしながら、優雅に陛下の側にやって来る物腰からは想像のつかない不
遜な態度ですが、陛下は気にした風もありません。
 このローラン、一見貴族にも見紛うほどのその容姿と気品を有していますが、陛下に出
会うまで、暗殺を生業とする集団の中で生きていたなどと、一体誰が想像出来るでしょう。

「相変わらずの変わり身だね」
 そんな陛下も、先程の補佐官への態度とは明らかに打って変わった砕けた態度で応じま
す。
「お望みなら、完璧に忠実な臣下としてお話させていただきますが? いかがいたしまし
ょう、陛下?」
 そう笑いながら、陛下の前の大きな机に腰を掛けます。
「それは遠慮させてもらおうか。私もこんな話し方ばかりで少々疲れて来た所だからな」
 そう言って笑い合うこの二人を見れば、全く知らない人間なら、まさか一国の元首と臣
下などとは思えないかもしれません。
 そう、この二人の間柄は、兄と弟と言った肉親のそれに近いものなのです。

「…僕の第一妃候補の国って覚えてる?」
「ったりめーだろ! 次期国王陛下の妃選びはまず国交! そしてこの国にとって一番有
益な国と言えば、フリードリッヒの他にあるもんか。それを無視して、ジラルディーノな
んて無印国のエルヴィーラ様に求婚するワガママを言いやがって、あの時は俺も結構苦労
したんだぞ!」
「そーゆー余計な事はいいの! 何かって言うとそれを言うんだから! もう四年も前の
事だし、第一僕はエルヴィーラ以外の女性なんて考えられな――って、そーじゃなくっ
て! そのフリードリッヒの第三王女が訪問したいらしいんだよ!」
 話の腰を折られたのと、自分の色恋にまつわる話をされたため、そういった事に純情な
陛下は、顔を真っ赤にしながら反論します。
 毎回の事ながらその反応の良さに満足した、いじめっ子兄貴分のローランはニヤニヤし
がら問い掛けます。
「どこを?」
「ここを!」
「ここって、ジャーデを?」
「そうだよ!」
 そう聞くと、ようやくこの若き警備隊長が表情を引き締めるのが分かりました。

「…第三王女って、正にお前の妃候補じゃん?」
「…そうなんだよ」
「何で今頃?」
「…それが、分からないんだ。…表向きはフリードリッヒの外交視察の者達がこっちに来
る予定があるから、彼女も小旅行のようなもので付いて来たいって言ってるらしい」
「それは…、どういう事…なんだろうな…?」
「うん…、ローランの言うように、何で今頃って言うのもそうなんだけど、そもそも妃候
補なんて言ったって、それはジャーデの内々での話な訳で、その時僕が直接彼女に会って
る訳じゃないだろ? 何故その彼女がわざわざここに来るんだろうって…。本当に…ただ
の気まぐれなのかもしれないけど…」
「うーん…」
 そう言ってお互いの顔を見合わせます。

「…確かに、ちょっと気になるな…。まあ来てもらってお前に何かあっても、俺が守って
やるから心配すんなよ」
 そう言って、腕に絶対の自信があるローランが請け合います。
「…うん、まあ僕自身の身は大丈夫だと思うんだけどね…」
 それを受けた陛下もまた、外見からは想像も付かない剣の使い手であるため、自分一人
の身なら、誰に頼る必要のない事を答えます。
 そう言われてしまうと、ローランとしては少々寂しいものを感じつつ、国家の王として
は非常に頼もしいという複雑な気持ちを噛み締めながら、頭には一人の人物の名前が浮か
んだのでした。

「…ああ、エルヴィーラ様か…」
「…うん」
「最近ずっと体の調子が悪いみたいだもんなー。昨日、うちのマリルが子供達とお見舞い
に行った時は、結構元気だったらしいんだけど…」
 実は彼、まだ二十代半ばではありますが、既に妻帯者で子供が二人もいるのです。
 マリルというのは彼の妻で、二人の交際をけしかけた…もとい、恋の橋渡し役をしたの
がエルヴィーラ様でした。
 外見に反し奥手なローランに、最後は陛下も参加しての恋愛成就劇だったため、その時
のしてやられた感も手伝って、ことさら彼も陛下の婚姻の事でいじめたりもするのです。
 それはともかく…
「…なーんかねー。弱気な所を僕達には見せたくないみたいでさ。でも…元からエルヴ
ィーラはそういうの隠せない性格でしょ?」
「そーだな…。で、医者はなんて言ってんだ?」
「それが――」


「大丈夫ですわ、お義母様! 大体みんな大騒ぎしすぎなんですの、ちょっとだるいって
いうか、気分がすぐれない程度なんですから」
 そう言って、ニコニコと微笑むのは、誰あろう、ジャーデ国王のお妃様、つまりソウ陛
下の妻であるエルヴィーラ様でした。

 彼女がソウ陛下に嫁いだのは、十七になってからという、他の王女よりも少々年かさが
増していた事と、陛下よりも五つも年上だったという瑣末な事から、その他多くの問題が
あったのですが、それも今となってはスパイスの効いた思い出と言えなくもありません。
 あれから四年、その容貌は衰える事なく磨きが増し、大輪の薔薇のように艶やかで、正
に妙齢の盛りと言った風情をかもしていました。
 ですが最近、すっかり被る猫を事を何処かに置き忘れてしまっているようで、年齢の落
ち着きやたしなみからは遠いようでした。

 そんな元気一杯の彼女でしたが、体の不調を感じ出してからというもの、頻繁に義母の
元へ訪れるようになっておりました。
 義娘に優しく微笑みながら、前国王妃ルア様はたおやかに語り掛けます。

「でもあなたは、ソウにとっても、この国にとっても大事な体には違いないわ。お医者様
もうるさく言って来るでしょう」
 そう水を向けられると、エルヴィーラ様は何か苦いものでも噛み潰したかのような顔で
答えるのでした。
「ええ! 本当に! ですから私、もう全然見てもらっておりませんわ!」
「あらあら」
 全く性格の違う義母娘ではありますが、二人の実年齢が祖母と孫ほどに離れているので、
お互いを慕わしく感じるようです。
 そのせいかエルヴィーラ様も、他の人間には絶対に言えない事も、つい口をついて出て
しまいました。
「ちょっと熱があるだけで調べましょうって、もう本当にうるさくって! その上何かっ
て言うと――」
 そこまで言って、エルヴィーラ様ははっとして言葉を詰まらせました。
 その様子で、彼女の心の内を読み取ったルア様が、代わりに先を口にします。
「…何かって言うと…懐妊じゃないかって?」
「…!」
 それを聞くと、エルヴィーラ様の顔は見る見る泣き笑いのような顔になって行きました。
 そんな彼女に、ルア様はゆっくりと近付くと、まるで幼子を慈しむように抱きしめます。
 そうしてふっと息を吐くと、彼女はしみじみと言うのです。
「…私も同じよ。…同じだったわ。みんなの気持ちが分かれば分かるほど辛かった」
「…お義母様」
 抱きしめられたまま顔を義母に向けますが、すぐにその目線は落ちてしまいます。
「…だから、あなたの気持ちは良く分かるわ、エルヴィーラ」
「…」
 義母の胸に体を預けたエルヴィーラ様は、声を出さず、肯定の意を伝えるため、頭だけ
を下げました。
 ルア様の前では、強気で豪快なこのエルヴィーラ様も、まるで小さな少女のようになっ
てしまいます。
 そしてそれこそ、彼女がここへ足を向ける理由でした。

 ルア様はしばらくエルヴィーラ様を抱いていましたが、不意に口元が緩みました。
「…ふふふ。こんな話が出来るのだから、娘も良いものだわね」
 そう言って、エルヴィーラ様の頭を子供にするように撫でるのです。
 恥ずかしいような、すぐったいような、そんな気持ちに浸りながら、エルヴィーラ様は
甘えるように言いました。
「…そうでもありませんわ。こんな事、ジラルディーノの母には絶対言えませんもの! 
お義母様にだけです」
「そう? じゃあ役得だわ」

 それからルア様は、まるでまじないのようにゆっくりと、彼女に言って聞かせます。
「…エルヴィーラ、あなたはまだ若いわ。そんなに心を病まなくても大丈夫。結婚して四
年しか経っていないのだもの、その位の期間、子供が出来ない夫婦はいくらでもいます」
「…」
「…確かに今は辛いでしょうけど、あなたは約束してくれたでしょう? 私とパスの名前
を子供につけてくれるって」
 パス様とは、ソウ陛下の父上でルア様の旦那様、つまり、四年前に王位をソウ陛下に譲
られた前ジャーデ国王陛下の事です。
 以前エルヴィーラ様は、自分達に子供が出来たら、お二人の名前を子供に付けるお約束
を高らかに宣言していたのです。
 それには、ソウ陛下に関する秘密の
「それはね、間違っていない気がするのよ。私はそう感じるの。それも、そんなに遠くな
い未来にね」
「…でも…」
 そう言って、エルヴィーラ様は口ごもってしまいます。
 今日の彼女はとことん弱気で、そんな義娘に、ルア様は発破を掛ける気になったようで
した。
「もう、そんな顔はあなたらしくないわ、エルヴィーラ! そんな顔をしていたら、もし
子供が出来ていてもダメになってしまうわよ! ほら、顔をお上げなさい」
 そう促されると、ようやくエルヴィーラ様は顔を上げました。
「…大丈夫。もしどうしても子供に恵まれなかったら、私達が生まれ変わってあなた達の
子供になるわよ」
 その言葉を聞くと、エルヴィーラ様は初めて強く否定をしました。
「そ! それはダメです!」
 その反応に、ルア様も驚いて問い掛けます。
「あら、どうして?」
 きょとんとする義母の顔を見ると、エルヴィーラ様は慌てて言葉を繋ぎます。
 慕っている義母の申し出を、嬉しくない訳がないのですが、それを否定しなければなら
ないその訳とは…。
「だって…、だって子供が出来たら、お義母様にもお義父様にも抱いていただくんですも
の! お二人がいなかったら意味ありませんわ!」
 そう鼻息荒く言い切る義娘に、ルア様は破顔してしまいます。
「まあ!それならなおさら元気を出さないとじゃないの」
「…う、あ、そ、そうなん…ですけど…」
「…そうね。じゃあ…、私達ももっと頑張って長生きしますから、その間にゆっくりと子
供を作ってくれれば良いわ。それでどうかしら?」
「…わ、分かりました。…あ、でも」
「なぁに?」
「な、なら、百歳くらいまで頑張ってもらえますか?」

 そう真顔で言い募る、義娘の瞳を見て、さすがにルア様も困ってしまうのでした。

続く