◆◇ 妃と候補 ◇◆

「エルヴィーラ、ちょっと話があるんだけど…」
 そう陛下がエルヴィーラ様に切り出したのは、二人とも寝間着に着替え、ベッドに入る
前でした。

 昼に義母に悩みを打ち明けてはいたものの、彼女は未だ解消できないモヤモヤと、それ
を表面に出せないもどかしさに少々気持ちが苛立っておりました。
 何故こんなに苛立っているのかと言えば、目の前にいる夫は、既に自分の悩みに気付い
ていると思うからです。
 彼は奥手ゆえに苦手な恋愛事以外、人の心が読めるかと思うほどに鋭い人物なので、彼
女のように感情を隠すのが下手な者であれば、一目瞭然で見抜いているはずです。
 しかし変に律儀なこの夫は、きっと隠している自分を尊重し、見て見ない振りをしてい
てくれてしまうのです。
 そんな愛しい性格も、いつもならば彼のチャームポイントだと感じるエルヴィーラ様で
はありましたが、今はその気遣いが、無性に腹立たしくなっておりました。

 彼女のような性格であれば、明け透けに聞いてくれた方がすっきりする事もあるのです
が、この夫にそんなデリカシーのない事は望めません。
 ですから自業自得のそれを踏まえ、何でもない風を装えば、さらに体調も悪化してくる
と言うものなのです。
「なぁに?」
 表面だけはニコニコと微笑む妻に、夫は言い難そうに切り出します。
「…実はね、フリードリッヒ国第三王女のイルゼ姫が、ジャーデを訪問したいって話が出
てるんだ」
「…イルゼ?」

 その名前を聞くと、彼女は記憶の隅にある、婚姻前に夫とローランから漏れなく聞き出
した膨大な妃候補のリストが浮かんで来ました。
 しかもその王女の名前は、リストのトップにあったのですから、忘ようとしても忘れる
はずがありません。
 そして、同リストの端も端で自分の名前を見つけた事を思い出し、一気に血の気が沸騰
するのが分かりました。

 そんな気持ちを覚ってか、陛下は心からすまなそうに言うのです。
「…ごめんね。本当は君の体調が良くないから断りたいんだけど…、相手がフリードリッ
ヒなだけに、ジャーデとしても断り辛いん――」
 夫の言葉を仕舞いまで待たず、体の外に赤黒いオーラを発散させた、美貌の妻が遮りま
す。
「断る必要なんかないわ!」
「え…?」
 異常な迫力ある返答に、陛下は驚き彼女を見つめます。
「あたしならヘーキよ! 是非来てもらいましょう! そうね、イルゼ様にはこの王・妃
の私が接待役を買って出るわ!」
「え、エルヴィーラ?」
 王妃の発音の部分に、やけに力が入っていたのが気掛かりな陛下は、慌てて声を掛けま
した。
「…い、いやいや、あのね、何も君自らそんな大変な事をしなくても良いんだよ。ほら、
ただでさえこう言った事は神経を使うものだし、だからとりあえず、場面場面で顔を出し
てくれれば大丈…」
 そんな弱腰の夫の言葉は、彼女の耳が完全にシャットアウトしているようで、再び言葉
を重ねて来ます。
「…ねえソウ。――時にイルゼ様は、おいくつ…だったかしら?」
 その凄味のこもった声音の恐ろしさに、陛下は思わずかしこまって答えてしまいました。
「あ、確か、僕より一つ下だった気がします。はい」
「…じゃあ、今年十…六なのね。うふふ。あたしの六つ下なのね。うふふふふふふ。それ
で――、まだ『ご・結・婚』は、されていないのかしら?」
(また何か微妙な所に力入ってる――)
 と、心の中で突っ込んではみたものの、その極上の微笑で寿命が縮みそうになった陛下
は、またも即座に返答してしまいました。
「いえ、あの、ま、まだのようです…」
「うふふふふふふふふ。そんな妙齢のお姫様が、何でジャーデにやって来るのかしらね―
―?」
「さ、さあ…。それは…、よく分からないんだけどね…」
「うふふふふふふふふふふふふふふ。あらあたし、何となく分かる気がしてきたわぁー
…」
(わぁー…って、わぁー…っ!)
 完全に瞳に殺気が宿る妻を前に、『ああ、きっとお義父さんもこんな気持ちになった事
が何度もあるんだろうなあ』などと、陛下は以前ジラルディーノへ行った時に見た、彼女
に良く似た、彼女以上に威圧感のある美しい義母と、優しくそれを支える(?)義父の姿
が浮かびました。
 しかし、そんな事に思いを馳せている場合ではありません。
 暴走が国家間の火種になる前に、国王として、また夫として、きちんと釘を刺しておか
ねばならないからです。

「え、エルヴィーラ、変な気を回さないでよね! それは思い込み! 邪推ってもんだ
よ! 第一、僕には君という妻がいるんだ――」
「その通りよ! だからあたしがそんな気にならないほどに完璧な王妃像を見せ付けてや
るって言ってんでしょうー! そこらの姫が束になっても、ソウは渡さないって教えてあ
げるって言ってんのようっ!」
 最近弱っているかと思えば、こういった事柄にはすぐに火が付く己の妻を見て、陛下は
ほっとするやら弱るやらと、複雑な心境になりました。
 ですがこの妻が弱っているくらいなら、こんな風に戦闘態勢を取っていてくれる方が好
ましいのは、動かし難い事実のようです。

 それを実感すると、陛下は諦めるように呟きます。
「…つくづく僕って変な趣味…」
「――何か言った?」
 超地獄耳な彼の妻は、未だ顔に氷の微笑を張り付かせたまま、殺人鬼の目でこちらを睨
みます。
 そんな妻をしみじみと眺めても、自分の気持ちを再認識してしまうだけのようで、頬を
赤く染めた陛下は、彼女から視線を逸らしながら言いました。
「…いやだから、やっぱり僕は…、君が一番だって…」
「は…? え…?」

 まさか、不意打ちでそんな萌え攻撃に出られるとは思ってないエルヴィーラ様は、瞬時
にどこかの変なスイッチが入ってしまい、腰が砕けてしまいそうになりました。

 正に天然恐るべし!

 確かに四年前、エルヴィーラ様を妃にとジャーデに招いたのはソウ陛下ですが、日に日
に美青年に成長を遂げる(ように彼女には見えている)夫に、今やメロメロの彼女にとっ
て、この効果は絶大です。
「う! な、なに急に言い出すのよ! そ、そそそんな事言っても、ダメよ! べべべ別
にあたしは仕事でも何でも他の女がそばに寄るのが許せないとか、そんな心の狭い事を言
ってるんじゃないわよ! 疑わしいものは可能性があるもの全てを消すって言ってんの
よ! って、あ、違う! こ、これは、ジャーデの王妃として…」
 完全に舞い上がったエルヴィーラ様は、心を内を暴露してしまい、慌てて否定を試みま
すが、そんな往生際の悪い彼女も、彼にとっては全てが愛しい様子です。
「うん、分かった」
 そんな風に満点の笑顔で微笑まれれば、恋愛至上主義の妻は、これから来るイルゼだか
イルスだかという癪な姫よりも、目の前の萌え夫にターゲットロックオンしてしまい、全
てを忘れておねだりをかます事に夢中になってしまいました。
「う、ううう、ソ、ソウ」
 何やら先程とは様子が違う事を察した陛下は、彼女を素早く観察します。
 すると、妻の目が、『殺る』目から、『食う』目に変化しているのが分かったのです。
「な、なに…かな?」
 そう、あどおどと返事をすれば、さらに妻の目が輝きます。
「さ、さっきの…」
「え?」
「あ、あたしが一番って、も、もう一回言いなさいよ…!」
「え…(ええーー?)」
 普段は意地っ張りで弱みは見せないくせに、何故こういう事はストレートに要求出来る
のかと、陛下は不思議でなりません。
 それはもちろん、言うのは嫌でも言わせるのは大好きだからに決まっているというの
に!
 頬を真っ赤に染め、瞳を潤ませた妻がじりじりと間合いを詰めて来ます。
 自分の顔も相当赤いだろうと思いながら、夫は唾を嚥下し、この要求を拒否するのが到
底無理な事を覚ります。
 国の重責よりもこの方がよほど体力を消耗すると思いながらも、やはり陛下は、律儀に
先程の言葉を、一言も違えず搾り出しました。

 そして、夫婦の夜は更けて行くのでありました…。

続く