◆◇ 波紋 ◇◆

「エルヴィーラ様は大丈夫でしょうか?」

 イルゼ様がそう気遣わしげに陛下尋ねます。
「ええ、姫にもご心配をお掛けしてしまって申し訳ありません。まだ本調子ではなかった
のですが、姫がいらっしゃるのなら是非出席したいと言ったものですから、私も配慮が足
りませんでした」
 そう言うと陛下は、エルヴィーラ様がローランと共に退出した方向に目をやります。

 そんな姿を見たイルゼ様が、ぽつりと言葉を漏らしました。
「…本当に、陛下はエルヴィーラ様を思ってらっしゃるんですのね」
「え…?」
 陛下がイルゼ様を振り返ると、彼女の顔には先ほどまであった朗らかな表情が消えてい
ました。
 ですがそれは一瞬の事で、すぐにまた柔らかな笑みを浮かべるとこう言ったのです。
「エルヴィーラ様をお連れになった方はどなたなのですか? あの方も随分心配されてい
た様子でしたけれど…?」
「…あ、ああ、あれは警備隊長のローランと言います。私が幼い頃から仕えてくれていま
すので、エルヴィーラとも親しくしています」
「…まあ…! そうですか…」
 何に驚いたのか、そう聞くと、彼女もまた陛下と同じように二人が去った方に目をやり
ました。
「何か気になる事でも?」
 その行動を怪訝に思った陛下が尋ねると、イルゼ様は
「…いえ、あの…、…臣下の方なのだろうとは思ったのですが、外見に見合わない、随分
猛々しい役職にちょっと驚いたのです」
といった返答をしました。
 確かにローランの容貌からすれば、その感想は尤もかもしれません。
「…なるほど、そうですか。ですが、ローランは私が一番信頼を置く武の者なんですよ」
「…信頼…、そうですか…」
 そう言うと、彼女はまたも表情を暗くして黙り込んでしまったのです。
 そして今度は中々表情を戻す気配はありません。
 陛下は率直にイルゼ様に問い掛けました。
「どうかなさったのですか? 何かお気に触る事がありましたでしょうか?」
 その言葉に反応するように、彼女は顔を上げます。
 その儚げな様子は、彼にエルヴィーラという最愛の妻がいなければ、思わず手を差し伸
べたくなるように危ういものでした。
 ですから、男女の駆け引きなど出来ない陛下は、頬が赤味がさすのを隠す事が出来ませ
ん。

 それを知ってか知らずか、イルゼ様は本当に申し訳なさそうに告白するのです。
「…すみません、陛下」
「…あなたが謝る事はありませんよ。はっきり仰っていただけた方が、私も――」
「いえ、そうではないのです」
「え…?」
 そうきっぱりと否定すると、彼女は続けて言いました。
「…すみません。私…、エルヴィーラのお加減が悪いというこんな時に不謹慎な事を思っ
てしまったものですから…」
「…不謹慎とは?」
 答えづらいのか、彼女は目線を陛下から外すと、ようやく言葉にするのでした。
「…その、お二人ともとても美しくて、…連れ立って退出するさまが、絵になっていらっ
しゃると思ってしまったんです。…陛下の奥方様を、臣下の者とお似合いと思うなんて…、
本当に申し訳ございません…」
「…!」
 陛下は先ほど目で追っていた情景が脳裏をよぎるのを感じました。
 そして確かに、自分の妻と付き添うローランの姿は、絵物語のように美しいものだった
のです。
 ですがその美しさは、何故か陛下の心に疼痛を与えます。

「…陛下」
 呼びかけるイルゼ様の声で、陛下は自分が意識を飛ばしていた事に気が付きました。
 ですが次の瞬間には、彼女の顔を真っ直ぐに見返した陛下は、おどけたように微笑んで
答えていました。
「いえいえ、そのような事で謝罪などなされたら、夫の私の沽券に関わってしまいますよ。
そうですか、そう聞くと確かに少々妬けますが、二人が並んで絵になる事は、いくら国王
の私でも阻止する事は出来ません」
 そう明るく返答される陛下は、本当に何の屈託も見当たりません。
「……まあ!」
 陛下の表情に、気を緩められたのか、少し沈んでいたイルゼ様の顔にも、再び愛らしい
笑みが戻りました。
 それを確認すると、陛下は奏楽隊に指示を送り、賑やかな演舞の曲を奏させました。
 楽曲の音にあわせ、煌びやかな衣装の踊り子達が、目の前で華やかに踊り始めます。
「さあ、今宵はあなたを歓迎する宴です。そのような暗いお顔はおやめ下さい、イルゼ姫。
まずは余興をお楽しみ下さい」
 すぐに宴に参加する者皆が、目の前の舞いに夢中になります。
 イルゼ姫も例外なく、自国の演舞との違いを楽しんでいるようです。
 陛下も同じように目では舞いを追っていましたが、彼の心の中は、イルゼ様が投じた言
葉によって、小さな波紋が生じていました。
 けれどその場の誰一人として、そんな陛下の心情を見抜ける者はおりません。
 何故なら彼は幼い頃より、自分の心を隠す事に掛けては、卓越した才があったからです。
 そしてその才は、彼を助けもし、傷付けもするのです。

 宴の進行が滞りない事を感じながら、陛下の心は、喉の渇きのようなものに襲われるの
を感じました。

(…大丈夫。部屋に戻れば…、…大丈夫だ)

 彼は心の中でそう呟くと、宴に集中するのでした。

 続く