◆◇ 想い ◇◆

 宴の喧騒からは大分離れたものの、エルヴィーラ様は未だローランに手を預けたままで
廊下を歩いておりました。

 涙は既に乾いていましたが、重く暗い胸の内はどうしようもなりません。
 ところが城の正面に張り出した、バルコニーの前に差し掛かった時、彼女はそれを忘れ
るような、何とも懐かしい気持ちに襲われたのです。
 それは正に、今と全く同じようにこの廊下を歩いた記憶が、同じ行動を取った故に呼び
起こされたからに違いありません。
(…あれは、ジャーデにやって来て間もない頃、この国の民に紹介された後だったっけ
…)
 確かあの時は、おかしな仮面を被った婚約者のソウ王子に失望し、ローランとの接点を
持ちたいがため、口実を作ったりしたのです。
 それなのに――

――僕と、…結婚してください

(…ふふっ)
 鮮やかに蘇る夫のプロポーズの言葉を思い出すと、彼女の口元は無意識にほころんでい
ました。
 そんな様子に気付いたローランが声を掛けます。
「…少しは落ち着きましたか?」
 驚くほど急速に心が癒されて行くのを感じながら、彼女は返事を返します。
「…ええ、ごめんね。心配かけちゃった?」
 その言葉に、今まで心配顔だったローランの顔にも安堵が広がりました。
「…まあ、それが仕事ですからね。だから気にしないで下さい。それより何です? 思い
出し笑いですか?」
 あまりにも的確な指摘に驚き、ついエルヴィーラ様は
「ローランは背中にも目が付いてるの?」
などと問い掛けてしまいました。
 すると――
「もちろん付いてますよ」
 そうやって優しく笑うローランは、四年経っても、あの時のままのような気がします。
 そう思うと、ますます自分が選んだ夫がローランではなく、ソウ陛下なのが不思議に思
えてなりません。
 何せ彼女は昔、恐ろしいほどの面食いで、そのせいで婚期を遅らせていた剛の者だった
のですから!
 陛下は今でこそ、彼女の中で最愛で、最高で、最萌えで、最可愛いの頂点に君臨してい
るのですが、出会った当初の評価は惨憺たるものでした。
 それは正しい評価ではなかったのですが、とにかく今は、そんな夫の姿を胸に思うだけ
で、零下に落ち込んだ心が、すぐにほわほわと温かくなるのですから、『愛』というのは
無敵に違いありません。
 ですが、こんなノロケを言っても、ローランに一蹴されてしまいそうなので、ここは無
難に答えておく事にしたのです。
「…うんとね、前にもあったじゃない? こうやって手を引いてくれた事。あの時はガゼ
ボに連れてってくれたわ。それを思い出してたの」
「ああ…」
 そう言って彼も感慨深げに目を細めると、何を思い出したか、口元にいたずらっ子のよ
うな笑みを浮かべて口を開きました。
「…あの頃はエルヴィーラ様、俺に気があったでしょう?」
「ええ! やだ、何でそれを!」
 正直彼女的にはそうアピールした記憶もあるのですが、その時の彼の態度を思い返して
も、そんな素振りは見当たりません。
「そういった方が今までにもたくさんいましたからねー。…だから何となく分かってたん
ですが、恐れ多いので黙っていたんですよ」
 確かに妻帯者になった現在ですら、彼は男(!)女を問わず好意を寄せられるのですか
ら、独身の頃は推して知るべしでしょう。
「うーわー、やだ! 何かずるい!」
 そう抗議を申し立てるエルヴィーラ様でしたが、ローランは悪びれもせず、更におまけ
を付け足します。
「でも、すーぐソウの方に夢中になってましたよねー」
「うっ…」
 痛い所を突かれたのと、先ほどまで考えていた夫の名を出されたため、彼女の抗議は宙
に浮いてしまいました。
 彼女自身、まさかそんなすぐさま夫に夢中になっていたと意識した事はなかったのです
が、指摘通り四年前の思い出をひも解けば、ほぼ夫の『ソウ王子』に絡んだ思い出ばかり
が出て来ます。
 ですがそれは仕方のない事で、思い出というものは、その人の『想い』が自分に都合良
くに編集してしまう機能があるため、その人物が大切であればあるほど、その部分がク
ローズアップされるのです。
 そしてその『想い』は、今でも変わらないどころか、更に年々大きくなって来ている事
に気が付きます。
 その気持ちが大きければ大きいほど、自分が夫にしてあげたい事が多過ぎて、また出来
ない事が彼女を苛んでいるのです。
「…」
「エルヴィーラ様?」
 言葉に詰まった後、再び顔を曇らせた彼女に、ローランも心配そうに声を掛けます。
「…あたしね、昨日ソウに無理言って、イルゼ姫の接待をやるって言ったのに…、全然ダ
メだった…」
 そう言葉に出すと、彼女の脳裏には宴での情景が蘇って来ます。
 愛する夫の毅然とした態度、そして淀みのない指揮進行。
 自分もそれに従い、彼のそばで立派な王妃の勤めを果たすはずだったというのに――
 結局自分は彼に、迷惑を掛けただけだったという事実が、彼女の心に重く圧し掛かりま
す。
 退出する時に見たのは、自分の失態をフォローする優しい夫の姿でしたが、それが余計
彼女には辛くなってしまったのです。
「…あたしがいなくても、ソウは全然大丈夫なのにね。でも、何かしとかないと、あたし
のいる意味ない気がしちゃって…」
「それは…」
 彼女には分かっていました。
 夫が一番信頼を置いているローランもまた、彼と同じように優しく、こんな事を自分が
言えば必ず否定をしてくれる事を。
 それなのに今、それを承知で言ってしまった卑怯な自分がここにいるのです。
 彼女はすぐに自己嫌悪に襲われ、それを打ち消そうと、軽い口調でしゃべります。
「あー、ごめんね。そんな事言われても困っちゃうよねー…」
「…」
 それを聞くと、今まではゆっくりながらも歩を進めていたローランでしたが、完全に足
を止め、彼女に向き直ります。
 そんな彼の顔は少し怒っているようでもあり、また呆れているようでもありました。
「あのねえ、エルヴィーラ様」
 そして口から出た言葉は、今まで以上に砕けた言葉使いでしたが、彼女にはそれがとて
も心地よく感じられるのです。
 何故ならそれは、彼が自分の夫と親しく話している時の態度と、全く同じだったからで
した。
「俺は前にも言ったでしょう。ソウも大事だけど、あなたの事も大事だって」
 噛んで含めるような言い方をするローランの言葉に、彼女は子供のように頷きます。
「…うん」
「あの時は…、確かにソウに付随してあなたを大事だって言ったんだけど、その後、あな
たは俺の『母親』みたいなものだって言ってくれた。俺はそれを決して忘れません。それ
が俺にとってどのくらい意味のある事なのかは、きっとエルヴィーラ様には分からないで
しょうけど、俺は本当にものすごく嬉しかったんだから」

 ローランにとって、自分が『母親』のようなもので、ならソウは『父親』――
 確かにそれは、ローランが彼女の妻となるマリルとの事に悩んでいる時、彼女が掛けた
言葉でした。
 天涯孤独の身であるローランは、育ちも波乱万丈に富んでいたため、自分と近しい存在
だとアピールしてくれる奇特な人物など、片手で数えられるほどしか出会っていません。
 彼女が掛けたその言葉は、自分の裏切りを許し、そばに置いてくれている陛下の行動と
同じように、彼にはかけがえのないものなのです。

「だから愚痴ぐらい聞かせて当然だって思って良いんです。水臭いって言うんですよ、そ
ういうのは! はっきり言わせてもらえば、あいつにも『苦しい』とか『辛い』ってちゃ
んと言うべきなんです!」
「…だって…」
「それにあいつは、エルヴィーラ様が思うほど精神的に強いヤツじゃないですよ!」
「え…?」
 そう言われて、彼女はようやくローランの顔をまじまじと見ました。
「…あいつがもし問題なく見えているのだとしたら、それはあなたがそばにいるお陰なん
です。俺は昔からあいつを見てるから…、本当はすごく自分の心を削って周囲の信頼を勝
ち取っているのを知ってます。何も知らない人間が見れば、あいつは何事も難なくこなし
ているように見えるかもしれないけど、…あなたも知っているように、ソウにはどうして
も越えられない問題があったから…」
 そこまで言って、ローランは言葉を濁しました。
 何故ならそれは、陛下と王家、そしてジャーデのトップシークレットとも言うべき事で、
実はソウ陛下が、パス様とルア様の本当の子供ではないという事実だったからです。
 もちろんその事はエルヴィーラ様も既に承知なので、ローランはそれに触れずに話を進
めます。
「…あなたがいなければ、今のあいつはあり得ないんですよ。だから…」
 そこで一旦、ローランは言葉を途切れさせましたが、やはり言うべきと判断したようで、
ゆっくりと口を開きました。
「…跡継ぎがどうとか、そういう事じゃないんです。あなたがいなければ、あいつはダメ
なんです」
 ローランもかなり人の心を読むのが得意ですが、夫は更に上を行くのを知っている彼女
は、やはり自分の悩みは二人に悟られていたのが分かりました。
「…バレバレよね」
「…だから口に出せって言ってるんです」
「うるさいなー、言いにくいのよ、あたしからは!」
 そう駄々っ子のように拗ねるエルヴィーラ様に、既に二児の父であるローランが、追い
討ちとばかりに言葉を飛ばします。
「あいつから言う訳ないでしょう? そういうの人一倍気を使うバカなんだから!」
「ちょっと! 人の夫をバカって言うな!」
「それを言うなら、一国の元首をでしょ?」
 まるで子供の口げんかのように、非礼を棚に上げた言い合いを重ねていく内、エルヴ
ィーラ様の心はどんどんと軽くなって行きます。
 もう宴の事などは頭から消え、彼女はしみじみと呟くのです。
「…まったく、本当にローランが息子だったら、話は簡単なのにー」
「父親より年上の息子がいてたまりますか。それに、俺は一国の責任者なんて真っ平御免
です」
「なによー! その王を守る役職についてるくせに!」
「ソウが陛下じゃなければ手は貸しません! あいつは俺の命の恩人ですからね。特別で
す」
「分かってるわよ、ローランがソウを大好きなのは!」
「だからそれはもう良いです! 俺には愛する妻も子もいるんですからね! 変な言い方
しないで下さいよ!」
 そんないつもの調子に戻った二人は、お互い顔を見合わせ笑い合います。

 ですが、ローランはすぐに表情を引き締めると、エルヴィーラ様に向かって声を潜める
のでした。
「…それはそうとして…、ちょっと話したい事があるんですよ」

 続く