◆◇ 劣等感と後悔の淵 ◇◆

 陛下が自室への帰途に着いたのは、夜の帳がすっかり辺りを覆い尽くした頃でした。

 宴を中座した妻を心配しつつも、部屋へと戻る彼の足取りは、心なし重いものになって
います。
 それは宴の最中、不意に投げ掛けられた言葉の小石が原因で、それが心の奥底に到達す
ると、本人が思いもよらなかった鬱屈を巻き上げたからでした。
 またそれを助長するように、妻に同伴したローランが彼の元へ戻ったのは、宴も終盤に
差し掛かった時刻だったのです。
 イルゼ様の言葉を鵜呑みにする気持ちは到底ありませんが、今の彼には些細な事でも心
の底がざわつく感覚に陥ります。
 こんな気分は、彼にとって最近久しい事でした。
 そう、こんな事は確か――

 ふと、思い出の中に入り込んでしまいそうになり、彼は現実の足を止めます。
 そんな様子を不審に思ったのか、彼に従い後ろを守っていたローランが心配げに声を掛
けて来ます。
「どうかなされましたか?」
 ですがこんな事を、しかも彼に、何と言ったら良いのか分かりません。

 陛下は振り返らず、そっとローランを窺います。
 確かにそこにいるのは、誰にも替え難い友人のローランに間違いはないのです。
 ですが心情というのは複雑なもので、今日の彼にとって、そこにいるのが幼い頃から慕
っているローランだからこそ、それが酷く苛立たしく感じられたのでした。

 陛下が幼い頃、ローランは王族とも血縁がある、さる貴族の子息という肩書きで彼の話
相手になりました。
 彼が現れると、その美しい容貌、気品のある振る舞い、そして豊富な知識と、どれをと
っても非の打ち所がなく、誰もがその素性を疑う事はありませんでした。
 もちろん自分の出生を負い目に思っていた陛下も、彼の堂々とした振る舞いを見るに付
け、自分が真に王家の血筋であるならば、きっとこのように振舞えたのではないかと幾度
も考えておりました。
 ところがその後、彼の誠の生い立ちが、高貴とはかけ離れた場所にあった事が暴かれた
のです。

 それを知った陛下の驚きは、彼が自分を暗殺に来たと同等の衝撃で襲って来ました。
 何故ならそれは、陛下と同じ、あるいはそれ以上に厳しい出生を背負ってなお、彼は誰
もを納得させる資質を有していたのが分かったからです。
 それは陛下にとって、素養は血筋によるものではないという希望を与えましたが、同時
に自分が同じ立場であったなら、そんな虚言は成立しない事実を突きつける出来事になり
ました。
 その『希望』はローランへの憧れのまま彼の心に根付きましたが、もう一つの『事実』
もまた、劣等感という黒い名前を冠されて、彼の心の奥深くにひっそり埋没する事になっ
たのです。
 それは普段の理性的な陛下であるならば、表に現れる事も稀な感情でしたが、だからこ
そ現れてしまえば、彼にはそれを上手く抑制する事が困難になります。
 そして今まで、それが最も顕著に出た時と言えば、エルヴィーラ様を自国に呼び寄せて
間もなく、彼女がローランに思いを寄せているのに気付いた時だったのです。
 恋愛感情というものは、よほどそういった感情を刺激するのが巧みなのかもしれません。

「…いや、何でもない」
 それだけを言うと、陛下は再び自室への廊下を進み始めました。

 程なく自室のドアの前に到着すると、その両脇を固めている警備の者達が、手に持った
武器を高く掲げ、敬礼の体勢を取りました。
 そして室内に届くように陛下の帰還を知らせると、中からドアが開き、エルヴィーラ様
の侍女達が姿を現し、深々と礼をします。
 そんな見慣れた光景に焦れながら、陛下は妻の姿を探します。
(――!)
 すると彼はすぐに、侍女の後ろでいつもと何ら変わりない様子で自分を出迎えている、
妻の姿に目を見張ってしまいました。
 宴の様子から察すれば、イルゼ様の接待役を買って出た手前、彼女はさぞや落ち込んで
いるだろうと想像していたからです。
 その答えは考えるまでもなく、ローランがすでに彼女の心を解き解した後だからに違い
ありません。
 自分と妻の事を思ってくれている彼だからこそ、今までに幾度となくこんな前例はあり
ました。
 ですが――






「――何?」
 その顔には、はっきりと苦悩の後が読み取れます。
 そして目の下には隈が出来ており、彼も日中の仕事の疲れがあるにも拘らず、眠れない
ままでいたのをありありと語っていました。
 そろそろ空も白み始めるというのに、そしてまた、今日も忙しい責務に追われる事にな
るというのに――

「…もっと早くに来るつもりだったんだけどな、エルヴィーラ様が泣き止まなくって、な
かなか離してもらえなかった」
「…」
 その言葉に、陛下はぴくりと眉を上げるのが分かりました。
 ローランは盛大にため息を吐くと、
「…言っとくけど、彼女が抱き付いてたのはマリルだからな。俺は代わりに起きちまった
セウとエルダの寝かしつけだ」
彼の杞憂を諌めるように言いました。
 セウとエルダとは、ローランとマリル夫妻の子供達の事で、二人の名前はもちろん、陛
下とエルヴィーラ様から頂いたものでした。
「…そう」
 そんな気のない対応に、ローランの眉根も上がります。
「あのなあ…、エルヴィーラ様が今どんな状態なのか、お前が一番分かってるはずだ
ろ?」
「…」
「宴から連れ出した時、単刀直入に聞いたら、エルヴィーラ様、やっぱり世継ぎの問題で
苦しんでたの認めたよ」
 そう彼が口にすると、今までと打って変わり、陛下が食い入るようにローランを見つめ
ます。
 自分の言葉に反応を示したのがわかると、ローランは諭すように言葉を続けます。
「…他の事でお前の役に立ちたかったんだって言ってたぞ。だから、俺はそんな事を気に
する必要はないって言ったんだ。それでやっと落ち着いたみたいだったのに…」
「…やっぱり…」
「そうだよ。お前だって分かってイルゼ様の接待を任せた――」
「違う!」

 陛下の突然の大声に、ローランは言葉を飲み込みます。
 そして彼は、大きな瞳を真っ直ぐにローランへ向けて言うのです。
「…分かってるさ! エルヴィーラが僕との子供の事で焦っている事も、しかも体調が悪
いせいで、どんどん不安定な気持ちになっているのも! そうだよ、そんな事は僕が一番
良く分かってる!」
 陛下の勢いに飲まれ、ローランは言葉を発する事が出来ないようでした。
 そんな彼に、陛下は畳み掛けるように言葉の槍を繰り出します。
「でも、それはエルヴィーラと僕の問題だ! 彼女の不安を取り除くのは、夫である僕の
役目だろ! 夫婦間の問題にまで首を突っ込むなんて、越権行為も良い所じゃないか! 
お節介もいい加減にしてくれよ!」
「――!」

 陛下の荒い息が部屋の中に響きます。
 睨んだままの彼の目には、ローランの瞳が悲しく翳るのが見て取れました。
(だめだ! これ以上――言っちゃ駄目なのに――!)
 しかし彼は操られるように、呪詛の言葉を紡ぐのを止める事が出来ません。

「君に――、君にそんな権限まで与えた覚えはない! 臣としての分をわきまえたらどう
なんだよ!」

 言い切った陛下は、知らずに目を閉じてしまっていました。
 自分の言葉で起こる変化を受け留めるのが恐ろしく、無意識にそれから逃げてしまった
のです。
 そんな卑怯な自分を罵りながら、彼はしばらく自分の荒い息だけを聞いていました。
 部屋の中には確かにローランもいるはずなのに、彼の吐息すら聞こえず、不安が増大し
て行くのが分かります。

 そして、不安の中の狂おしいほどの時間経過に、自分が叫び出すのではないかと思った
刹那、陛下の耳に届いたのは確かにローランの声だったのです。
「…申し訳ありませんでした」
 声に誘われるように、おずおずとまぶたを上げると、頭を下げたローランの姿が目に映
ります。
 目を見張る彼をよそに、彼はそのままの姿勢で、静かに言葉を続けるのでした。

「…私なりに陛下とエルヴィーラ様を気遣ったつもりでしたが、確かに分不相応な差し出
がましい行為でした。陛下がお怒りになるのはごもっともです。本当に申し訳ありませ
ん」
 陛下の放った言葉の槍で彼は絶命してしまったのでしょうか。
 ローランの言葉は、およそ生命の温度を感じられないほどに冷えているのです。
 陛下は動悸が激しくなるのを感じながら、そのまま顔を上げたローランの双眸を見る事
になりました。
 ところがその瞳から発する、冷たく硬い光を見てしまうと、何か恐ろしいものに飲み込
まれそうになり、陛下は思わず目を背けてしまいます。
 そんな様子に頓着する風もなく、ローランは主の言い付けを確認するように言葉を続け
ます。
「エルヴィーラ様にもお伺い致しまして、こちらにお戻りになるようでしたらお連れ致し
ます。それで宜しいでしょうか?」
「…あ、ああ」
 自分の招いた結果であるのは分かっているのに、陛下は居心地の悪さをどうする事も出
来ません。
 ですが、ローランは粛々と陛下の要望通りの態度を貫くのです。
 そう、『主』と『従』をわきまえるとは、こういった事を指しているのですから。

「了解致しました。何もなければ失礼して戻らせて頂きますが」
 陛下の言葉を待つように、ローランは見つめ返しましたが、彼が何も言わないでいると、
頭を下げ、ドアへ向かって歩きだしました。
「では」

 その声を背中に聞きながら、陛下はゆっくりとまぶたを閉じると、恐ろしいものの正体
が目の前に現れてくるのを感じました。
 それは『後悔』というどこまで続くのか分からない深い深い淵だったのでした――

続く