◆◇ 灯 ◇◆
「お顔の色が優れませんわね」
そうイルゼ様に声を掛けられ、陛下ははっとして彼女の方に向き直りました。
公務の合い間を縫って、イルゼ様の接待をする事にした陛下は、今日も昼食を一緒に召
し上がっている最中でした。
エルヴィーラ様は結局あの後、部屋へ戻って来る事はありませんでした。
その後も体調の悪化を理由に、彼女が陛下と結婚するまで使っていた部屋に一時戻ると
言う知らせを受けてから数日、陛下はエルヴィーラ様とは会っていないのです。
彼女を傷付けるような別れ方をしたのは自分で、本当ならすぐにでも行って謝るべきな
事は承知しているのですが、何故か今回はそれが出来ません。
ローランとの間もあれ以来、正に職務に関係する以外の話は一切する事がなくなってし
まいました。
そしてそれもまた自分のせいなのです。
夜が来て、その日の疲れで目を閉じて、しかし深く寝る事も叶わずに次の朝がやって来
るのでは、顔色も冴えるはずがありません。
「…ああ、そうですか。実は昨日少し夜更かしをしてしまったものですから。ですからご
心配には及びませんよ」
そう言って慣れた笑顔を作りますが、それ自体が段々と難しくなって来ているのが感じ
られました。
近年、ついぞこんな状況に陥った事がなかった陛下は、一人の耐性がなくなって来てい
るのです。
ローラン、そしてエルヴィーラ様に囲まれている事が当たり前になっていた彼は、幼い
頃のように一人気を張る生活を忘れてしまっていたのです。
「…それは、もしやエルヴィーラ様のお加減が優れないからですか?」
他人の口から妻の名前が出ると、胸に鈍い痛みが走るように感じます。
ですから、殊更それを気取られないよう、話を他に持っていく事にしてみました。
「…え、あ、ええ…。まあそれもあります。ですが、本当にイルゼ姫がお気にされる事で
はないのですよ。それよりイルゼ姫、あなたこそ慣れないジャーデで何かお困りの事など
ありませんか?」
そう水を向けると、イルゼ様はまだ自分の言葉に未練を残しているようでしたが、それ
以上突き詰める事なく陛下の質問に答えて来るのでした。
「…いいえ、毎日本当に物珍しい事ばかりで、こちらへ来れて良かったと思っております
のよ。嫁いでしまうと、こんな旅行はなかなか出来ませんでしょう?」
そう言って、イルゼ様は陛下に茶目っ気たっぷりに微笑んで見せます。
ですがそんな可愛らしい微笑みも、今の陛下には何の影響も及ぼす事はありません。
もっとも、朴念仁の陛下は、普段であってもそういう反応は非常に薄いのですが…。
「ああ、そうですね…。では、近々そういったお話が出ていらっしゃるのでしょうか?」
このようなデリケートな話題には、もっと気を遣って答えねばならないのですが、今の
集中力を欠いた陛下は、ついそのままの返答を返してしまいました。
すると、見る間にイルゼ様の顔が曇って行きます。
「…いえ、そうではありません」
「あ…、申し訳ありません。どうも私はそういったお話に疎くて…。失礼な事を申し上げ
てしまいました」
自分の失言に心から謝りながら、ふと陛下は、エルヴィーラ様をこの国に呼んだ時もこ
んな感じだったかどうかが気に掛かりました。
確かに彼女は猫被りな女性でしたから、振る舞いは美しく装っていたかもしれません。
ですが、元より自分が眼中になかったせいもあり、結構強気な会話を仕掛けて来たよう
な記憶があります。
その上猫を被るのを止めてからと言えば、人を罵倒するわ、泣くわ叫ぶわ、挙句は殴る
わ…。
そう思い出すと、何故だか今の重苦しい気持ちが軽くなり、また陛下は自分の趣味のお
かしさに笑みがこぼれそうになりました。
しかし今は、イルゼ様の機嫌を損ねているのですから、口元を引き締めねばなりません。
そんな危うげな様子が、神妙な表情と映ったのか、イルゼ様もすぐに侘びを受け入れる
態度を示しました。
「あ、…いいえ、お気になさらないで下さい。私の言葉が足りなかったんですわ。私もも
う十六ですもの。いつ嫁いでもおかしくない年齢なので、そういう気になるというだけな
のです」
そして、また元通りの笑顔を見せるイルゼ様を見ると、彼女は彼女でエルヴィーラ様と
は違う可憐な自分の魅力を理解し、拗ねたり甘えたりで相手を魅了するタイプの人物のよ
うなのだと分かるのでした。
言わば小型犬のような可愛らしさで、信望者は彼女に尽くす事が幸せに感じるのではな
いでしょうか。
ですが、どちらかというと大型の犬種であるエルヴィーラ様は…。
(エルヴィーラは…、僕をからかう時以外、絶対甘えた態度なんか取らないもんな…)
ぼんやりとそんな事を考えていたせいか、イルゼ様の顔を長い間見つめていた格好にな
ってしまいました。
その視線をどう思ったのか、イルゼ様は少々頬を赤らめながら、目線を外してしまいま
す。
そして恥ずかしそうに俯くと、小さな声でこう言ったのです。
「あの…、陛下はご存じないでしょうけれど…、実は私、小さい頃から父に、お前の将来
の夫はソウ様だと言われていたんです…よ」
「――!」
そう聞いた途端、陛下の頭には、悪魔のような形相に顔を歪めるエルヴィーラ様が現れ
ました。
(――い、いやいや、違うよ! 彼女のお父上! 父親ってそういうものなんだよ! ホ
ラ、政略結婚上等だもん、王室ってのはどこでもねっ!)
頭の中に鎮座ましますエルヴィーラ様に、必死に脂汗を流しながら弁解をする陛下も陛
下ですが、恋に恋する少女のごとくスイッチの入ったイルゼ様も、何やら語り出したので
した。
よく見ると、指はのの字を書いているように、テーブルクロスを弄んでいます。
「…それは、ジャーデとフリードリッヒは友好国ですし、父と陛下のお父上も旧知の仲で
したから…、善は急げとばかりに私達がまだ小さい頃、うちの父の方から話を持ち掛けた
ようなんです…」
やはり思った通りのようですが、不思議な事に陛下自身は、父からそんな話を聞いた事
はついぞありません。
「…そんな話は今初めて聞きます」
イルゼ姫は、用心深げに陛下の顔を覗き込むと、やはりと言った表情になりました。
「…そうでしょうね。何故なら、申し出はすぐに断られてしまったと言う事でしたから」
「え…?」
いくら親交の深いフリードリッヒにしても、こう言った話を無下に断る事は、外交的に
はマイナスもいい所です。
確かに自分の事ですから、政略的に婚姻を決められたくはありませんが、経済的に貧困
だった時代から、心を砕いて交易を行うようにして来た父の意外な振る舞いに、陛下は疑
問を抱きました。
「父は何と言って断ったのでしょう? 差し支えなければ教えて頂けますか?」
「ええ、もちろんですわ。パス様はこう仰られたそうです」
――ソウの妻は、ソウが愛する人間でないとならないから、私の一存では決められない。
彼が年頃になって、イルゼ姫を妻にしたいと申せば、もちろん歓迎したいと思う。だから
それまで待ってくれないか――
在りし日の父の言葉を聞いた陛下は、じわじわと胸の奥に明かりが灯るような気持ちに
なりました。
自分が幼い時、父は厳しく接する事が多かったと感じていた陛下でしたが、自分の知ら
ない所で、そんな事を言っていてくれたなんて――
「…私の父も、そう言われては仕方がないと笑っておりました。でも父は本気だったので
しょう。私が十になる頃までは、ジャーデに相応しい姫になるよう心掛けるように言われ
ましたもの」
そう言いながら、遠い日を思い出すようにイルゼ様は目を細めて微笑まれます。
「…ですから私、他のどの国よりこのジャーデを大事に思うようになりましたのよ。でも、
私が十一にやっとなったばかりの頃に、陛下はエルヴィーラ様をジャーデにお呼びになら
れたってお聞きして――」
陛下はとっさに耳を塞ぎたい衝動に駆られました。
何故ならそれは、妄想の妻が脳内から出て来て、目の前の姫にケンカをふきかけそうな
気がしたからです。
奥手の陛下がこんな告白を耳にした場合、気のありなしに関係なく顔を赤らめそうな気
がしますが、この事実を知った妻を想像してしまうと、どうしても自分とイルゼ様の生命
の危機の方が重大で、体温は一気に下降してしまう事になるのです。
しかし、そんなグッドかバッドか分からないタイミングに、ローランが声を掛けて来た
ではありませんか。
「失礼いたします、陛下」
その声に心底驚いた陛下は、何とか飛び上がるのを堪え、彼に視線を向けますが、いく
らローランであろうとも、その気配に気付かないなど、やはり自分が動揺をしているのを
強く感じるのです。
でもそれは、イルゼ様が陛下に好意を寄せているかもしれないという事ではなく、自分
の中の妻の存在が非常に大きい事を再認識したからだったのでした。
やはり陛下は、少々他の殿方より恋愛感覚がズレているのかもしれません。
「…恐れながらそろそろ公務にお戻りになられるお時間です」
そんな彼の体温のない声を聞くと、否が応でも現実を認識せざるを得なくなり、動揺も
瞬時に治まって行くのが分かります。
それを良かったと思う自分と、逆の感情に苛まれながら、陛下は蒔いた種を刈り取ると
いう事は、簡単には行かないと感じました。
陛下が了解の意を発する前に、彼の出現に話を阻害されたためか、少々不機嫌そうな表
情のイルゼ様が口を挟みました。
「…陛下、お待ち下さい。私、お許し頂きたい事がございます」
先ほどまでの甘やかな音を失った声を聞くと、陛下も硬い表情でそれに応じます。
「…何でしょう?」
彼女は自分の存在が、ジャーデの公務より優先されるべきなのを良く理解しているよう
で、特に時間を気にする風もなく言葉を続けます。
「私、エルヴィーラ様のご容態が心配なのです。私の宴の最中に具合が悪くなって以来お
顔を拝見しておりませんもの。お会いする事が出来るのなら、是非お見舞いを致したいと
思うのです」
そのような申し出は、エルヴィーラ様がよほど具合が悪い場合意外、拒めるはずもない
事でしたが、今の状況での決断には少々考える所があります。
いつもならこんな問題が出た際、そばにローランがいれば、陛下は自然に彼に目をやる
癖が出来ておりました。
今までその目線の先には、必ずローランの優しい瞳が待っていてくれましたが、今とな
っては無理な望みというものです。
彼は言葉と同じく冷たい横顔で、陛下の指示をじっと待つ臣下の鑑のように、静かに佇
んでいるだけなのです。
陛下は視線を元に戻すと、気を張って決断を下すしかありませんでした。
「…分かりました。では彼女にそれを伝え、容態が良い時に見舞って頂けるように致しま
す。それでよろしいですか?」
「はい」
イルゼ様の返答を受け取ると、陛下はすぐにローランに向かって命令を発しました。
「ではローラン。すぐにエルヴィーラにこの事を伝え、その席にはお前も同伴するよう
に」
「了解いたしました。では後は部下にまかせ、下がらせて頂きます。イルゼ様には追って
ご連絡差し上げますのでしばしお待ち下さい」
言うが早いか、彼はすぐに背中を向け、部下に指示をすると、エルヴィーラ様の部屋の
方へと向かいました。
その様子を眺めながら、陛下は席を立ち、イルゼ様に暇を告げます。
「…有難うございます。でも、彼を同伴させて頂いてよろしいのですか? 彼は陛下の警
護をするのが仕事なのでしょう?」
背中にイルゼ様の言葉が投げ掛けられます。
陛下は振り向くと、きっぱりと彼女に向かって言い放ったのです。
「…彼が一緒なら、不測の事態でも心配がありません。私が同席出来れば一番かもしれま
せんが、それが叶わない時には彼に頼むのが一番です」
言葉を聞いた彼女が、また顔に不快さをにじませるのが分かりました。
それが少々気にはなりましたが、職務に戻らねばならない彼は、今度こそその場を去る
事にしたのです。
彼女に言った事は、陛下の偽らざる真実でした。
こんな関係になってなお、彼が一番信頼しているのは、ローラン以外にはなかったので
す。
そして不測の事態は、もちろんフリードリッヒの姫の安否もありますが、それにもまし
て彼が恐れるのは、妻の身に何かが起こる事です。
イルゼ様に対してすら、全般の信頼を置いている訳ではない彼は、出来る事なら自分が
同席し、そんな障害を全て阻止したいと考えているのです。
ですがその妻に強情を張り、会えない自分の最後の頼みにとローランを抜擢するのは、
卑怯以外の何者でもないと唾棄します。
(――何様のつもりなんだ、僕は…。ローランに…、あんな事を言っておきながら…。こ
んな時だけ…、彼を…、彼を利用しようと…)
ジャーデの昼は太陽であふれ返っているというのに、陛下は目の前すらも見えぬ、真っ
暗な迷い道を進んでいるような感覚に陥っていました。
ですがふと、恐怖を追い払うようにまぶたを閉じると、先を灯す小さな光を見たような
気がしました。
「陛下、どちらへ?」
ローランの部下達が、陛下の変調に気付き声を掛けた時には既に、彼は執務室ではな方
向に歩き出していたのです――。
続く
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