◆◇ 父 ◇◆

「お前の方からここへ来るなんて珍しい」
 彼は聞き慣れた声が自分の頭上から降って来るのを、ぼんやりと認識していました。

 いつからこうしていたのか、今が何時なのか、動き出したばかりの頭では良く分かりま
せん。
 周囲が暗いので、既に夜半にさしかかっているのかとも思われましたが、どうやらそう
ではないようで、覚醒が進むと次第に明るくはっきりとして来るのが分かりました。
 そしてようやく声のした方に目線をやる事に頭が行き、ゆっくりと顔を上げれば、やは
りそこには良く見知った人物が、自分を覗き込んでいるのでした。
「…父様?」
「その呼び方もまた懐かしい」
 感慨深げにそう言うと、満面の笑みを作ったのは、紛れもなく先代ジャーデ国王のパス
様でした。

 父の顔を見てもまだ状況を掴めないでいる息子に、パス様はゆっくりと話し掛けます。
「覚えておらんのか? 突然ここにやって来て、わしの顔を見たと思ったら、バッタリ倒
れおったんじゃ」
「え…?」
 言われてみればそんな記憶が頭をかすめますが、やはりそれはすぐに掴み所なく彼を通
り過ぎてしまいます。

「…あまり年老いた父を驚かすものではない。こう大きくなられては、抱き止めるわしも
しんどいわい」
 そう言われて自分の状況を確認すると、今横になっているのは、父の部屋の大きなソフ
ァーで、子供の頃にもよく座った記憶があるものでした。
 その頃は、横になっても到底体がはみ出す事などありませんでしたが、今は頭と足が窮
屈に外に出ている状態で、それが何だか不思議な感じがするのです。
 同じような気持ちでいるのか、パス様も正面の一人掛けに座ると、その姿を楽しそうに
眺めながら言いました。

「まあわしはお前が子供の頃、幾度も倒れるのに立ち会っておるから慣れたものじゃが、
他の者達が大慌てじゃったぞ。『そこに転がしておけばじきに気付くから』と下がらせた
が、しばらくはドアの外で様子をうかがっておったわい」
 そして本当に突然のハプニングを楽しんでいるように笑います。
 陛下にも説明された場面が目に浮かび、必死に自分に呼び掛け、右往左往する臣下を思
うと、申し訳ないとは思いながら少々おかしく思えて来ます。
 ですが、父と同じく笑おうと思っても、何故か上手く笑う事が出来ないのです。
 彼のそのような様子を見ても、パス様は特に気にしていない風で、口元に笑みを湛えた
まま尋ねられました。
「して、ここに来た用件はなんじゃ?」
 そう言われ、陛下はにわかに言葉に詰まるのを感じました。

 それはどう考えても、深い考えがあって来たというのではなく、例えて言えば、暗闇の
中を歩いている時、自分の意思で明かりを消したにも拘わらず、いざ真っ暗になってみれ
ば、心細さに耐えられず、目に入った灯にすがったようなものだったからです。
 それはあまりに自分勝手な行動ではないでしょうか。
 真実を正直に吐露出来ない陛下は、しかたなくその発端になった事柄を口にしてみる事
にしました。

「…あの…、昼食の時にイルゼ姫から聞いた事が気になって…」
「ほう?」
「…フリードリッヒ王は昔、僕とイルゼ姫を婚約させようと提案した事があったって聞き
ました。その時、父上はすぐにお断りになったと言うのですが、僕は全く知らなかったも
のですから…」
「おお、その話か! 懐かしい話じゃの」
 そう言ってパス様は、その頃の情景を眺めているように目を細めました。
「…あれはお前が十にも満たない頃じゃったと記憶しておる。じゃが、今となっては断っ
ておいて正解だったじゃろう?」
 それは当然、そうしなかった事でエルヴィーラ様との婚姻がスムーズに行ったのを指し
ているのでしょうが、現在の状況があるため、その問いに少々動揺してしまう陛下でした。
「…え、ええ。それはそうなんですが、…でも、ジャーデにとっては良い話でしょう? 
なのに…」
「…確かにの。フリードリッヒとのつながりを強固に出来るのは、ジャーデにとって願っ
てもない話じゃな」
 そう口に出しながらパス様は目を閉じ、自分の言葉に頷きます。
 ですがすぐに片目を開くと、悪戯っぽい表情でこう問い掛けたのです。
「…じゃが、今もまだ不安定なこの国を、中心になって率いて行かねばならん王に、政略
婚での妻が支えになれるじゃろうか?」
「それは――」

 出した質問に質問で返され、戸惑いつつも生真面目に悩んだ末に陛下は答えました。
「…政略婚であれ、それはその後の二人の気持ちだと思います。二人がお互いに慈しみ合
う事が出来るなら、そのいきさつは問題じゃないのではないでしょうか? もし、妻を娶
る時に自分で選んだとしても、努力を放棄してしまえば――」
 そう自分で考えた答えを口にしながら、陛下は胸が重くなって行くような気持ちになり
ました。
 するとすぐにパス様から、
「何じゃ、分かっておるではないか」
という言葉が投げ掛けられたのです。

 その声に含むものがあるのが分かり、陛下は父に視線を向けます。
 ですがパス様は、それをやり過ごすと話を元に戻して言いました。
「じゃがの、そういった政略婚では、お互いが夫婦の自覚を持つのに時間が掛かるのも事
実じゃ。当然の話じゃが、少し前までは会った事もない人間に、急速に相手を慈しむ心な
ど芽生える事は珍しい。これは王も臣下も変わらぬ話じゃが、わしら王は国民の命を預か
る身で、その責務は考える以上に重い。それ故、支えがなくてはとてもやっては行けぬ。
そうじゃろう?」
 そう言われ、父も自分も同じ思いをして王職に就いていた事を、今更ながらに知る陛下
でした。
 彼が一日の仕事を終え、部屋に戻った時の安堵感は、同じように長い間、父も母の待つ
部屋へ戻った時に感じていた事だったのです。
 陛下は父の言葉に、胸が熱くなるような気持ちになりました。

「…わしはな、その大事な相手を親だからと言って、決めてしまう事はしとうなかったん
じゃよ」
 そう言った父の言葉に、再び感謝の気持ち湧いて来ます。
 しかし同時に、彼は心に掛かるものを覚えました。

 ですがそんな事すらも見通しているかのように、すぐにパス様は神妙な顔で言葉を続け
るのでした。
「…ふむ、確かにわしとルアもしまさしくその政略婚じゃ。初めは全くの見知らぬ者同士
で、父上が強引に彼女の家族に承諾させたに違いない。そのせいでルアにも大いに負担を
強いてしまう結果にもなったが、わし自身も色々思う所あって、縁談話を断ったというの
があるやもしれんな」
 その言葉に、陛下の顔色がさっと変わりました。
 臣下の前や政になれば鉄面皮の陛下なのですが、親しい間柄の者にはそのスイッチが完
璧に切り替わり、とことん顔色が駄々漏れになる傾向があるのです。
 それを十分知り尽くしているパス様は、息子をからかうためにわざと神妙な物言いをし
ていたので、気が済んだように破願すると楽しそうに言いました。
「…やはりソウは妻を娶っても、未だ男女の機微に疎いのぅ。先ほどお前が言うたではな
いか! そういった事は初めがどうとかではない。わしとルアはそんなに仲が悪いように
見えるのかの? もしそうなら、わしは未だ側室制度なぞ廃止したりせんで、お前にもエ
ルヴィーラ以外の妻を勧めておるわ!」
「――!」
 そう聞いてようやく父にからかわれたのが分かると、自分の疎さは承知しているものの、
こう正面切って言われては、顔を赤くしながらもせめて苦し紛れの否定をするしかありま
せん。
「…わ、分かってますよ! 僕だってもう十七なんですからね! ちょっと、気になった
だけです! 父様と母様の仲が良いのは、息子の僕がよーく分かってます! だ、だから
驚いたんじゃないですかっ!」
 しかしやはり焦りから、父母の呼び方が幼少期に戻っている失態をおかしてしまいまし
た。
 それに気付き、ばつの悪い顔をする陛下をホクホクと眺めながら、パス様はさっさと話
を元に戻すのでした。

「まあ、そんな事はどうでも良い。とにかく、わしは運良く自分自身で選ばずとも、ルア
のように最良のパートナーを見つける事が出来た訳じゃが、それはわしの日頃の行いが良
いせいで、お前もそうだとは限らんじゃろう? じゃから、フリードリッヒ王の申し出は
断った、というだけの話じゃ」
 冗談まじりに夫婦仲を強調した上で、そうパス様は陛下の質問の返答を締め括りました。
 少々熱くなった陛下の頭に、その言葉が染み込むのに時間が掛かりましたが、やはり父
は経験則も考えに入れ、自分の事を考えてくれていたのが理解出来ました。
 そしてそれは、イルゼ様から聞いた何倍もの威力で、陛下の沈んだ心を潤すのです。
 ところがそんな感慨に無防備になった息子に向かい、パス様は何の気負いもない声音で
重大な事を言い出したのです。

「…そして、わしとルアも長い時間を掛けてようやく夫婦然となるまでは、色々な葛藤が
あったもんじゃ。じゃから、今のお主らのように部屋を分ける事も幾度かあったわ」

続く