◆◇ 懺悔 ◇◆

 父の言葉に驚愕し、陛下は横たえていた体を浮かしました。

 エルヴィーラ様が夫婦の部屋を出ている事を、この父がいつ知ったのか、皆目見当のつ
かない陛下は声を漏らす事も出来ません。
 それを見て取ったパス様は、彼に思わせ振りに笑い掛けます。
「…驚いたか? ふふふ、それくらいの事も把握出来んで、王職は勤まらんわい。退いた
とはいえ、わしはまだまだ現役じゃぞ。情報の提供者くらい、乞わなんでも向こうからや
って来る」
「…じゃあ…」
「お前がここにやって来た理由はその事じゃろうに。聞いた時に言わなんだから、驚かし
てやろうと思うたが、少々効き過ぎたようじゃの」
 陛下はその言葉に恐縮し、目線を合わせる事も出来なくなってしまいました。
「エルヴィーラの体調が思わしくない事はルアから聞いておったが、その分じゃと問題は
それ以外の事なんじゃな?」
 今更隠しても無駄なので、陛下は力なく頭を垂れるだけしか出来ません。
 そんな息子の様子を見て、今まで明るかったパス様も、表情を翳らせて呟きます。
「跡継ぎの事か…。二人の年齢からすれば、まだ心配せずとも良いに…」
 そこで一旦言葉を切ると、
「まあ、エルヴィーラはお前よりも五つ年上じゃし、体調が悪い事もあって、気に病んで
しまうのかも知れぬ。じゃから、あまりお前も悩まん方が良いぞ」
と、自分を労わるような言葉を掛けてくれます。
 そんな父の言葉を聞くと、自分の非を分かっている陛下は、口を開かずにはおれません
でした。
「…いえ、違うんです! ううん、…確かに、その事が発端だった…、でも、実際彼女が
出て行った事は…、僕が…、気を迷わせて――、酷い事を…言ってしまったからなんで
す!」
 そんな悲鳴のような息子の声を聞くと、今まで同情的だったパス様の瞳に、厳しい光が
宿るのが分かりました。
 それは過去に畏れていた国王としての父の姿そのもので、陛下は自分の体が急速に縮み、
幼少に戻ったような錯覚に陥りました。
 それと同時に喉は焼けるように干上がり、遠い日の自分が今の自分に重なって、暗い声
で囁くのです。

――皆から立派だと言われる王子にならないと、父様にも母様にも、王子じゃない事が分
かってしまうよ――

 陛下は体から冷たい汗が吹き出るのを感じました。
 既に解決した事柄なのに、彼の心は未だその感覚を完全に忘れる事が出来ていません。
 それは過去に囚われていた事柄ゆえに、後は時間を掛けて心を癒す以外に解決は難しく、
その恐ろしさは彼の精神を苛みます。
 その恐ろしさから逃れようと、うやむやに言葉を濁し、話さないという選択肢が脳裏を
よぎりました。
 それは今の陛下には大変甘美な誘惑で、疲弊した彼の精神は身を任せるためにまぶたを
閉じようと試みました。
 するとその瞬間、彼の目には、この部屋に来る前と同じく、何も見えない真の闇がまざ
まざと蘇って来たのです。

 このまま父からも逃げれば、きっと最後の灯も消える――

 ようやく陛下は、何故ここへ自分がやって来たのかを悟る事が出来ました。
 それは、自分を照らしていてくれた光であるエルヴィーラ様とローランを吹き消したの
は確かに自分自身で、それは紛れもない事実ですが、自分が何故そのような行動を取った
かを、彼は未だに上手く理解出来ていませんでした。
 もともと不器用な性格の彼は、理解出来ないまま謝罪するような事が出来ず、ずっとそ
れを知るきっかけを欲していたのです。
 ですが、今までその役目を担ってくれていた二人を、自ら排除してしまった以上、国王
という特権中の特権を持つ自分に、誰がそんな指南をしてくれるでしょう。

 その唯一の条件を満たす人物こそが、この先代国王であり、父であるパス様で、本来な
らば、すぐにそこに行き着いても良い所ですが、彼は父を敬愛と畏怖の対象とみなしてい
たために、無意識に心の奥に追いやり、隠してしまっていたのです。
 その上、こんな話を持ち掛ければ、先ほどのような過去の傷が、顔を出してしまうだろ
う事を、彼の防衛本能は良く理解しています。
 ですからイルゼ様よりパス様が、過去に自分を思って彼女との婚約を承諾しなかった話
を聞き、彼はようやく考えが父へと向かったのです。
 彼はそこにわずかな希望を見出しましたが、それにはこの父に、自分の醜態を曝け出す
という、忌避したい事実が待っています。
 それは今までの彼にとって耐え難い事でしたが、ついにその事柄と、大切な人達を失う
恐怖を、秤に掛けなければならない時がやって来てしまったのです。

 彼の心の中で重なっている、幼い自分はそれを拒否し、口を開かないように懇願します。
 そして今の自分も同じく、全てを話した後に、父や母までもが自分を嫌忌し、真の孤独
に陥る恐ろしさに震えるのです。
 それでも――
 今の彼はどちらを選ばなければならないかを知っていました。
 意を決した陛下は、ゆっくりと顔を上げ、パス様の瞳を捉えます。
 そして搾り出した勇気を声に変えると、ようやく話し始めるのです。

「…う、宴の時、エルヴィーラが中座した後です。
 …僕はローランを付き添いにさせましたが、その時イルゼ姫から、ふ――、二人がとて
もお似合いに見えたって、い、言われたんです。
 …イ、イルゼ姫は、不謹慎な事をと謝られましたが、言われ…、言われて僕は――、…
ほ、本当はもっと前から同じ事を思っていた事に気付いたんです…。
 …ずっと――、ずっと僕はこんな気持ちを考えないようにして来たんだって、急に気付
いて、気が…付いたら、もう止められなくなってて…。

 …それでも、僕が部屋に戻った時、彼女がまだ元気になっていなければ――、ぼ、僕が
戻るまで、誰の…、僕以外の誰の慰めも…受け入れていなければ、僕は、それだけで満足
だった…。
 …でも――、部屋にいた彼女は、いつもと変わらないエルヴィーラで…、そ、それは、
付き添わせたローランに…、慰められたって事だって――すぐに分かって…。
 だから、ローランがいれば、へ、平気なんだって――!
 僕がいても、…いなくても――、彼女は平気なんだって、そう感じて――しまったら―
―、急にどうしようもなく腹が立って、彼女に当たってしまいたくなったんです…。

 でも、僕は浅ましい人間だから――、そのままを彼女に言う事も出来なくて、か、彼女
に接待役を任せた早計さを詫びる『振り』をした――!
 …い、今の状態の、エルヴィーラには、反対するべき…だった、なんて、り、理解のあ
る夫の仮面を繕って――!
 お、『夫』として、『国王』としても――そ、そんな事まで出して来て、許すべきじゃ、
なかったなんて…言い張って――!

 そんな…、そんな事、思ってもいないくせに!
 僕は、もう、ただ――、ただ、彼女を、ど、どこかに閉じ込めておきたかっただけなの
に――!
 誰にも――、ロ、ローランにも、触れられない所に――、ぼ、僕だけを見ていてくれる
ように、し、したかった!
 そして、き、気が付くと、エルヴィーラは泣いて――、へ、部屋を――」

 陛下は声だけでなく、体の震えが止まらなくなるのが分かりました。
 それと同時に幼い頃、よく同じように一人恐ろしさに震えていた事を思い出しました。
 それは、自分が本当は王子ではない事、両親と自分とは、全く血の繋がりがない事、そ
れらが恐ろしい魔物のように、いつも彼の後ろを追って来ていたからです。
 公の事柄に忙殺される日中はまだ平気ですが、夜、彼は寝床の中で、必死に震える体を
自らの手で抱きしめ、守る事しか出来ませんでした。
 父から目線を外し、陛下はその時と同じように、自分の体に手を回そうとしましたが、
ふと、いつから自分はこの震えに悩まされなくなったのかが気に掛かったのです。

――じゃあ今度は王子が私の部屋に遊びに来て下さい――

 すると耳のそばで、懐かしい少年の声が聞こえたような気がしました。
 陛下は思わず目を見張り、周囲を見渡しますが、やはり声の主はおらず、目の前には父
が静かにこちらを見ているばかりです。
「…それだけか?」
 重く厳しい父の声に、陛下は今の状況に引き戻され、再び目線を逸らしたい衝動に駆ら
れましたが、それを何とか跳ね除けると、ようやく首を左右に振りました。
「…ロ、…ローランにも…、僕は…、酷い事を…」
 そう言うと陛下の視界は緩やかににじみ、嗚咽が漏れます。

 彼はあまりにも今の生活に慣れすぎていたため、過去の自分にローランが何を与えてく
れたかを忘れていました。
 それはまだ陛下の側に心許せる者がいない時、彼は陛下に優しく笑い掛け、辛さや寂し
さから真っ先に救ってくれたのです。
 例え始まりの理由が自分を亡き者にするためであったとしても、彼が与えてくれたのは
紛れもない友情で、その友情に偽りがなかった事は、彼が命を賭して証明してくれました。
 エルヴィーラ様との婚姻のために、人一倍尽力してくれたのも彼ですし、実際ローラン
の後押しがなければ、エルヴィーラ様はこの国から去ってしまったいたかもしれないので
す。

「ローランを…、し、臣下なんて…、思った事ないのに――。エ、エルヴィーラの事…、
理解してるローランに、は、腹が…立って、僕は…、…分をわきまえろなんて――絶対、
言っちゃ…いけない事…を…」
 彼を恐れさせた抽象的な闇は、今、二度とこちらを振り向いてくれない、大切な二人の
後ろ姿という現実となって、陛下の心に迫って来ました。
 それを思うと、瞳からは涙がとめどなく溢れ、幼子のように泣きじゃくってしまいそう
になりました。

 ところが――
 そんな風に彼が自分の感情に流されるままに涙を流していると、突然グラグラと頭が上
下に大きく揺すられました。
 その振動に涙が飛び散るほどで、何事かと目をやると、それは紛れもなく父の温かく大
きな手が、どうやら本人は撫でているつもりで、彼の頭を擦っているのです。
 陛下は驚きのあまり、しばし泣く事も忘れ、されるがままに父に従っていました。
 するとそれに気付いたパス様も、ゆっくりと手を止め、呟くように言うのです。
「…おかしなもんじゃ。お前が倒れる所は幾度も見た事があるというに、こんなに泣く事
など、わしはほとんど見た事がなかったのう」

 そして名残り惜しそうに一回撫でると、未だ呆然としている息子の頭から手を離し、今
度はパス様が話し始めるのでした。

続く