◆◇ 隠者 ◇◆

「…それはきっと、お前が幼い頃、泣きたくてもずっと我慢をしとったという事なんじゃ
ろうな」

 いつの間にか勢いをなくした、窓から差し込む日差しを眺めながら、パス様はしみじみ
と呟きました。
 そろそろ夕刻が近付き、空一面が燃えるような赤に染まる、ジャーデでも一番過ごしや
すく穏やかな時間帯。
 そんな緩やか光に包まれる部屋で、父と息子の二人は相対していました。
 父は再び息子に視線を向けると、優しい声で語り掛けます。

「…というか、わしがそうさせてしまったんじゃな。年端も行かぬお前に、誰が見ても無
謀と思える事を課し、それを実行させて来たんじゃから。…お前が反抗もせず、放棄もせ
ず、言い付けを守っていたのは、真実を知っての事だと分かった時、わしは少なからず後
悔をしたもんじゃ。じゃがな、もしそれを知っていたとしたらどうかと考えても、やはり
同じ事をしとったろうと思うんじゃよ。お前には…、本当にすまないと思っておるが、わ
しはそうせねばいられんかった。そうせねば――、お前を失うと思い、恐ろしかったから
じゃ。でも、それは親のわしのわがままに他ならん。そんな事を強いたために、お前は
『欲する』という事を上手く表現出来なくなったのかもしれんのじゃから――」
「――!」

 その『欲する』という単語を聞き、陛下は不思議な感覚に囚われるのが分かりました。
 心がざわつき落ち着かないような、そんなやましい気持ち――。
 すると変化を見て取ってか、パス様は陛下にこう問うのでした。
「…幼いお前は、きつい日課から開放されたいと、当然思ったに違いない。
 じゃがそうすれば、わしが失望し、本当の息子でない事を嘆く――そう思ったのではな
いか?」
「――」
 多少誤差はあるにしても、的を得ている指摘を受け、陛下はつい先ほどまでの葛藤が蘇
り、胸の奥がうずくのを感じました。
 息子のその様子に、パス様は悲しく瞳を翳らせます。

「…じゃから、お前は『欲する』事を『悪』と考えるようになったんじゃな。全ての感情
を押し殺し、体が悲鳴を上げて倒れても、不平も言えずに耐えるしかなかったはずじゃ。
そんな枷をずっと与え、お前の心を殺しておいて、息子を失うのが怖いとは、全く父親の
傲慢も甚だしい。その上皆からも隔離して、お前を守ったつもりじゃったが、それも孤独
を助長しとっただけなんじゃから、節穴ぶりも良い所じゃ」
 そう言って自嘲気味に笑む父の姿を見ると、陛下は否定せずにはいられません。
「いいえ…っ! 父様は僕の事を…、ずっと守って下さっていました! お忙しい仕事の
合い間を縫って、毎日僕のために時間を割いて下さってたのを、僕は…、ちゃんと知って
います!」
 再び過去の呼び方に戻ってしまっているのは、幼い陛下も否定しているからに違いあり
ません。
 そんな優しい息子を見ると、パス様は少し照れたように微笑まれ、さらに言葉を続けま
す。
「…じゃがな、わしがそれらに気付かされたのは、ローランがわしに意見して来たからじ
ゃ」
「! …ローランが?」
 初めて聞く事実に、陛下は驚きローランの名前を反すうします。
「…そうじゃ、わしはそれまでお前がそんな事に怯えているなんて考えもつかんかった。
わし達へのぎこちない態度も、物分りの良さも、全てお前の性格で…、ただ気弱なせいじ
ゃと思っとった…。赤子の時から見守って来たわしより、あやつは数年でお前の核に触れ
るほどに親密になっておったんじゃ。しかも、お前の事となれば、国王にもの申す事すら
何とも思わんらしい…。…全く、憎らしい奴じゃ」
「…!」
 言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうな父の顔を見て、陛下の頬に新たな涙が伝います。
 そんな息子の様子を目を細めて眺めながら、感慨深く言葉を紡ぎました。
「…お前が――、始めてわしに頼み事をしたのも、やっぱりあやつの事じゃったな…」
 まるで魔法の呪文のように、その言葉が陛下を過去の回想に連れ去るのが分かりました。
 薄暗く湿った石の廊下――、鍵を掛けられたいくつもの牢――。
 低い目線のその奥に、手足を拘束されたローランの姿が、はっきりと浮かび上がってい
るのです。

 彼は泣いていました。
 口では強がりの悪態をついていますが、その涙は自分への謝罪なのが、はっきり胸に伝
わります。
 口に出して謝らないのは、許しを請う事を卑怯に感じているから――。
 そうと分かると、既に足は父へと向かいます。
 あんなに畏れていた父の許へ行くというのに、不思議と恐ろしさは感じません。
 ただ一刻も早く――、そうしなければ彼の命は消えてしまうのです。
 恐ろしいのはその事だけで、周囲の静止も聞かず、父に直接訴えます。


――父様、ローランを殺さないで下さい!
――彼は僕の始めての友人なんです!
――彼は――、彼は僕を殺そうとなんて、絶対していません!
――お願いです! 父様! ローランを殺さないで――!


「…その時もまだ、お前をわしは、優しいだけの愚かな息子じゃと思っておった」
 父の言葉で現実に返ると、動悸が激しくなっているのが分かりました。
 あの時父は、何度頼んでも、訴えを聞き入れてくれようとはしなかったのを思い出した
からです。
 同じように回想しているのか、パス様の眉根は険しく皺が寄っています。
「…わしにとっては、あやつがいくら年端のいかぬ少年とはいえ、お前を亡き者にしよう
とした憎い敵に変わりない。いや、お前の信頼を得て貶めた分、首謀者などより、憎悪の
対象であったかもしれん。そんな者を助けるなど、どうして許す事が出来よう? いくら
幼い身とはいえ、甘過ぎる対応を要求して来るお前に、軽い失望すらしたもんじゃ。とこ
ろが――」


――では、これなら良いでしょう!
――僕には真剣を、彼には刃を潰した剣で戦わせて下さい!
――僕に勝ったら自由の身にしてやると約束すれば、彼の本心が分かるはずです!
――彼がもし、命惜しさに僕とやり合うような人間ならば、その時は僕の手で彼の命を奪
います!


 パス様は大きく息を吐かれると、目線を下げ、独り言のように呟きます。
「…わしはな、あやつはきっとまたお前を裏切ると思ったんじゃ…」
「……」
「…友情など、あやつの見せた錯覚じゃと…、それを知るのも勉強になると、そう思って
許したんじゃ。何故ならお前は、わしとの約束を違えた事など、一度たりとてなかったか
らじゃ。…そう言うたという事は、それだけの覚悟――、救って欲しいと請うた友であっ
ても、手に掛ける覚悟が出来たと理解したんじゃ。…ならば、と思って許した…」
 そう言い、息子に目線を戻した時、先ほどまでの険しい表情は掻き消え、穏やかに微笑
まれているのが分かりました。
「なのに結果は…、全くお前の言う通りじゃった…。ローランは自分の命を捨てても構わ
ぬくらい、お前を大切に思っておった。…全く、学んだのはわしの方じゃったわい…」
「父上――」
 そんな父の独白を聞き、ますます自責の念で心が締め付けられるように痛みます。
 止まっていた涙は再び溢れ出し、顔を上げていられないと思うほどです。
 そんな陛下に、パス様の声が注がれます。
「…話を元に戻そうかの。お前は倒れるほどに悩んでここへやって来た。…エルヴィーラ
に酷い事を言って傷付け、ローランにも分を知れと言ってしまった、そうじゃな?」
 自分の罪状を確認させられる咎人よろしく、陛下は神妙に頷きます。
 すると、今までの態度とは打って変わり、パス様は砕けたような顔になって、ことさら
大きなため息を吐きました。
「…良いか、ソウ。もっと早くにきちんと話しておけばこんな事にはならんかったし、そ
う言った教育もしておくべきじゃったと思うが…。うむ…、しかし、こういう事は話すタ
イミングが難しくてのー…。まあ、悪かったとしか言いようがないんじゃが…」
 何とも歯切れの悪い父の物言いに、陛下もパス様の顔を見詰めます。
「…つまりお前がした事は、単なる『嫉妬』じゃ。さっきお前が言った通り、エルヴィー
ラを独占したかったが、それを親友のローランにさらわれたような気がして、余計腹が立
ち、あやつに酷い事を言ったんじゃ」
「え…?」
「まあイルゼ姫の発言も良いサポートをしたお陰で、いつもなら起こらないお前の感情が
暴走したのもあるが、さっきわしに言った事をそのままエルヴィーラに言うとったら、出
て行くどころか逆に抱きついて来たくらいな事じゃ。それにローランだとて、お前がヤキ
モチを焼いてる事くらい、すぐに分かったはずじゃ」
「えっ? えええーっ?」
 なんとも奥手な息子を哀れむように、パス様は再び陛下の頭に手を伸ばし、ポンポンと
撫でて言うのです。
「先ほども言った通り、お前はわしのせいで、『欲する』事は『悪』じゃという呪縛にと
り付かれてしもうておったが、『欲する』というのは『そうしたいと願う事』にも通づる。
つまり『願望』じゃ。願望のない人間なんている訳がない。ならばそれが『悪』なはずは
ないじゃろう?」
「う…。そ、れは…、そう、ですが…」
「人でも物でも好きになれば欲しくなる。…が、とりわけそれが人間相手じゃと、お前の
したように『独占』したいと願う気持ちが強うなる。そして邪魔が入れば『嫉妬』が起こ
る」
「…! そ、それは…、…誰でも…、そうなの…ですか?」
「もちろん程度の差はあれど、誰にでもある事じゃ。嫉妬というのは醜くドロドロとした
感情じゃが、そんな感情を持ってしまうのは、それほど相手を思っているという証拠なん
じゃ。…本来、そういう事も同じ年頃の者達と触れ合う中で経験するものじゃが、わしは
危険回避優先で、その機会を奪ってしまった。その上大きくなってからは、お前は聞き分
け良過ぎて、わしもその屈託を見抜けんかった。感情を抑えるのが上手いのも考えものじ
ゃ」
 そう言われ、自分の幼少期を振り返る陛下でしたが、確かにそばにいたのは皆成人した
臣下ばかりで、その中で唯一歳の近いローランですらも、七つの差があるのです。
 分別のある大人に囲まれた陛下は、実際不満があっても、それを外に出している見本を
知らなかったのでした。
「…じゃが、やはり我慢にも限界がある。その初めの限界が、ローランを失う事じゃっ
た」
「!」
「…そして次は妃選びの時じゃな。一応お前に意見を聞いたが、まさか意中の女子がいる
とは思わなんだ。あの時お前に異存がなければ、わしは本当にイルゼ姫を妃に迎えようと
思っとったんじゃ。まさかノーマークの国の姫を迎えると言い出して、その上大臣達の進
言も口八丁で退けるなんて! ほんにビックリじゃったわい」
「そっ、そうなんですか? そんな事は…、全然…」
「そりゃあ言うてしもうたら、お前の事じゃから、変に気を遣うじゃろう? いくらわし
でも、そのくらいは息子を理解しとるつもりじゃぞ。…で、今回で三度目じゃが、全くお
前は欲がなさ過ぎなんじゃ! もう少し、反抗とかもされてみたい気がするに…」
 未だ頭に手を乗せたまま、面白そうに自分を見返して来る父に、恥ずかしいような悔し
いような気持ちが湧き上がりました。
 しかも後の方は、良く分からない父親の意見なのです。
 そんな父に何か言ってやりたいと、頭を巡らせようと思った所へ、意見も許さない一言
が彼を襲います。
「しかしさすがのローランも、エルヴィーラには勝てんらしいのうー」
「っ…!」

 やはり父には敵わないと感じたまま、頭の温度をぐんぐん上げるだけの陛下でしたが、
どこまでも落ちて行くだけだった気持ちが、いつしか浮上しているのを感じるのです。
 ところがそんな時、一つ心に掛かる事に気付いた彼は、すぐに顔を曇らせてしまうので
した。
「…でも」
 陛下の表情が変わったのを見ると、パス様はその手を頭から頬へと移動させます。
 しばらくそのまま、父の手のぬくもりに気力を分けてもらうように俯いていた陛下は、
小さな声でこう呟くのです。
「…なら何故、ローランは……、…ずっと、僕の言った通りの態度を取り続けるんでしょ
うか…?」
 父の言い分では、自分が取った行動というのは、誰にでもすぐに分かるような事だった
というのです。
 なのにローランは、それ以降、臣下としての態度を崩そうとしません。
「…例え、僕の態度が嫉妬から出たとしても、ローランは僕に…、失望して…、もう…」
 息子の震える声を聞くと、パス様は部屋の奥へと目をやりました。
 それから目を伏せて微笑むと、息子の頬を指で引っ張り、顔を上げさせます。
「…それはな」




「こんな所で良いかの?」
 陛下が退出すると、パス様は部屋の奥に向かって声を掛けます。
 姿を見せた人物を見て、パス様は楽しそうに笑い掛けながら言いました。
「何じゃ、怒っておるのか? わしが言った事があまりにも的を得ておって?」
「…」
 そう問い掛けられ、バツが悪いような表情の相手を見ると、パス様は満足気に微笑まれ
ます。
「…まあ良いじゃろう。わしもたまには父親らしく、息子に甘くしてみたかったんじゃよ。
…多少の罪滅ぼしにはなったかもしれぬな」
 そう言って、目を細める先代国王陛下に反論出来る訳もなく、相手は諦めたように話を
変えて問い掛けます。
「…で、いかが思われますか?」
「…ふむ」
 そう振られると、パス様は少し間を置き、表情を引き締めて言うのです。
「…フリードリッヒは豊かな国じゃ。気候も良く、ジャーデとは反対に国も安定しておる。
あの王は人柄も良く、わしにとって大切な友人じゃが、少々人をう疑う事を知らぬという
迂闊さもある。イルゼ姫も同様な人物だとすれば、謀るのはそう難しい事ではないかも知
れぬな」
「では…」
「ソウは自分で身を守る事が出来るゆえ、心配はない。やはり一番危険なのはエルヴィー
ラじゃろう」
「…は」
 しばらくは流れる神妙な空気に浸っていた二人でしたが、パス様は緊張を緩めるように
口を開きます。
「…しかし、ソウがあんなに激しい感情をわしに出すとは…、随分と変わったもんじゃ。
…ふふ、やはりこれは妃の影響かの?」
「…そうかと思います」
「…ふむ、良い傾向じゃな」
「…は。では、私はこれで下がらせていただきます」
 そう言葉を残して部屋を出て行こうとする相手に、パス様は念を押すように仰います。
「…今回の件、ソウは未だ動揺しておる。エルヴィーラに危険が迫っても、回避が遅れる
やも知れん。じゃから…」
「…心しております。エルヴィーラ様の無事は私の命に代えましても…」
 すると、最後まで言い切るのを許さず、すぐにパス様は否定するのです。
「それはいかん」
 何を否定されたのか理解出来ない相手の顔を見ると、パス様はおかしそうに笑って言い
ました。
「お前の命と引き換えじゃと、わしがソウに責められる。妃も無事、お前も命を落とさぬ
ようにじゃ」
 そう言われ、ようやく相手の顔にも笑みが浮かびました。
「…はい。仰せのままに致します」

続く