◆◇ 嘘と安堵 ◇◆

「お呼びでしょうか、陛下」

 ローランが陛下の部屋を訪れたのは、パス様の部屋から自室に戻られて、一時間ほどが
経過した頃でした。
 倒れたとはいえ、仕事に戻ろうとした陛下でしたが、医師の強い勧めもあり、結局その
日は執務を取り止め、部屋で休む事になりました。
 確かに様々な事があり、疲弊していた陛下ですが、気に掛かる事を済まさないのでは、
ゆっくり休む事も出来ないのが身に染みていたため、それを先に解決する事にしたのです。
 気に掛かる事――それはパス様が最後に教えてくれたローランの態度の訳でした。

「…横になられていなくて大丈夫なのですか?」
 既に陛下が倒れた事は知っているらしく、ソファに座る彼に声を掛け、側へとやって来
るのですが、ただその態度は、あの時以来の臣下のローランなのです。
 そんな様子を目の当たりにすると、にわかに父の言葉が疑わしく思えてしまう陛下でし
たが、それでもやらねばならない事は変わりないのです。
 彼は大きく息を吸い、真っ直ぐにローランを見詰めて立ち上がりました。
 さすがに鉄面皮のローランも、その陛下の行動には、疑問の表情をちらりと覗かせるの
が分かります。
 そして陛下が次に取った行動は、彼をさらに驚かせる事になったのです。

「ローラン! この前は本当にごめんなさいっ!」

 そう言って深々と頭を下げる陛下に、ローランはその大きな瞳を一杯に見張りました。
「…この間は僕、エルヴィーラとローランがお似合いに見えちゃって、頭に血が上って
ローランに酷い事を言いました! 許して欲しいなんて、とても言えないけど、とにかく
謝りたかったんだ! …謝るのだって、遅くって、何だって思われるかもしれないけど…。
今日父上に言われて、やっと自分の気持ちも分かったし、それで、やっぱり僕が悪いって
…、思ったから…。――本当にごめんっ!」
 陛下は一気にまくし立てると、頭を下げた姿勢でローランの言葉を待ちました。


――ローランは多分拗ねておるだけじゃ。
――あやつもお前を一番の親友と思っているんじゃから、そんな風に言われれば多少傷も
付く。
――お前の頭が冷えるまでは、言うように臣下として接してやって、それがどんなに居心
地が悪いか実感させようという魂胆じゃろう。


 父はそう断言したのです。
 実際そのローランの態度に、彼は心底後悔の念に駆られる事になったのですが、『拗ね
ているだけ』という言葉の信憑性は、いささか疑わしい気もします。
 でも彼は、そんな父の言葉の後押しを支えに、ようやくこの行動を取る事が出来たので
す。
 ところが――

「…陛下。お顔をお上げ下さい」
 静かに響いてきたのは、やはり臣下としての態度を崩さない、ローランの硬く冷たい言
葉でした。
 陛下は、自分の足元が揺らぐのを感じつつ、何とか声に従い顔を上げます。

「…この間も申しましたように、全ての非は私にあります。ですから陛下が謝罪されるよ
うな事は何もございません。私のような者に、頭などお下げにならないで下さい」
 何の感情も読み取れない表情から、流れるように出て来る言葉に、陛下は打ちのめされ
るのを感じました。
 ですがそれでも、今の彼は既に元の自分に戻っているのを感じるのです。

「…ううん。過ちを犯したと自分で感じたのなら、臣下にだって、誰にだって、きちんと
謝るべきだと思うんだ。…上に立つ者なら、自分で自分を厳しく律しないとならないって、
僕は父上から習って来たのにね。そんな事もすっかり頭から消えていたんだから、僕はよ
っぽどおかしくなっていたんだ。だから、やっぱりごめん…」
「…」
「…僕は、ローランを臣下だなんて思った事は一度もないよ。今までも、これからも、そ
れはきっと変わらない。でも、ローランが僕をどう思うかはローランの自由だから…。だ
から、もし許しても良いって思えたら、また前のように話して欲しい」
「――」
 陛下の言葉に、待ってもローランは返事を返しませんでした。
 臣下としてなら必ず了解の言葉になるはずのローランが、返事を迷うという事――、つ
まり彼は自身の言葉で返そうとしているのではないでしょうか。
 その確証はありませんが、そう感じただけで陛下の心は満たされ、父に感謝しつつ言葉
を足します。
「…それだけは、言っておきたかったんだ。だから、返事は無理に言わないで良いんだ
よ」
 そう言うと、ローランは目線を落として陛下に問い掛けます。
「……私を呼ばれたのはそのお話だけでしょうか?」
 言葉は丁寧ですが、彼の態度は拒絶としか受け取れないもので、今感じた気持ちも萎え
てしまいそうになります。
 ですが陛下は、焦らずその寂しさを飲み込んで、もう一つの話題に移る事にしたのです。

「…ううん、もう一つ。昼に言っていた、イルゼ姫がエルヴィーラを見舞うって話はどう
なったかと思って」
 話題がそれた事で、ようやく目線を上げたローランが口を開きます。
「はい、あの後、エルヴィーラ様にお伺いいたしました所、ここ数日体調が思わしくない
との事で、一旦三日後に延ばして欲しいと言う事をイルゼ様にお伝えしました」
「…体調が…? そんなに良くないの?」
 そう聞くと、陛下は自分のした事も併せ、にわかに妻の容態が気になり、このまますぐ
に部屋を訪ねようかと腰を浮かせたのです。
 すると、先ほどまで無反応だったローランの態度に変化が起こりました。

「…お待ち下さい、陛下!」
「え…?」
 あまりに間髪のない制止に、陛下は無意識にローランの顔を見上げました。
 ですがその時には、既にローランの体勢は元に戻り、そつなく返答をして来たのです。
「…エルヴィーラ様は少々お風邪を召しておられまして、イルゼ様にうつしてしまわない
よう、そう仰られたのです。病状が重いという事ではございませんが、今のエルヴィーラ
様はそういった事にとても気を配っておられる様子なのです」
「…」
 そう言われてしまえば、確かに無理に見舞う事は出来ません。
 ですが長年彼を見ている陛下には、それが嘘だと分かってしまいました。
 同時に自分の内心も、ローランに筒抜けたのが分かります。
 ローランの意図か、それともエルヴィーラ様の気持ちかは分かりませんが、とにかく自
分と妻が会う事を阻止したいようなのは理解しました。
 でも何故――?

 陛下は少々考えましたが、静かにこう返事をする事にしたのでした。
「…分かった。じゃあ、エルヴィーラに伝えて。僕はエルヴィーラに話さなきゃならない
事があるから、訪ねて行っても良くなったら、僕を呼んでって」
 あっさりと承諾した陛下を見て、ローランは瞳に不審な色を滲ませました。
 ですがそれを言及する事もなく、
「…かしこまりました。他に何かございますか?」
と返答をして来るのです。
 ローランの一貫した態度が分かると、何故か却ってすっきりとした気持ちになり、暇を
許す気になるのでした。

「…では失礼致します」
 陛下は礼をして去って行くローランを見送りながら、ここ数日の不安の日々からは想像
もつかないほどに落ち着いている自分を感じました。
 そして再び、父が最後に言った言葉が蘇るのです。


――もしそんな事くらいでお前を見限るようなら、あやつはお前が幼い頃、既にお前の命
を奪っておったはずじゃ。


「…ローランがしてくれる事は、全部僕のため…だもんね」
 そう独り言のように呟いた陛下は、一体どんな事が起こっているのかを考えながらベッ
ドに向かいます。
 その口元には、笑みが浮かんでいて、ようやく彼はぐっすりと眠る事が出来そうな気が
して来るのです。
 そしてまぶたを閉じると、そんな自分を見て、頭の中の妻が怒ったように物申すのです。

――ちょっとソウ! ローランばっかり構ってるとあたしぐれるわよ! あたしとローラ
ンの割合は6:4、いえ、7:3じゃないと、みんなの前であたしに愛の言葉を囁かせる
んだから!――

 そんな元気なまぶたの妻を見ると、陛下の心は何とも言えない気持ちになってしまいま
す。
『…愛の言葉でもなんでも囁くから、早く会いに来いって言ってよね…』
 そう心で思うと、妻が満面の笑みで消えていくのが分かり、陛下は少々後悔を残しつつ
も、安らかなまどろみに落ちて行くのでした。


 陛下の部屋を退出したローランは、ドアの前を守る自分の部下に、静かに警護の念を押
しました。
 恭しく敬礼を返す部下を後に、廊下を進み、彼らから自分が見えない位置まで来ると、
そこで不意に立ち止まりました。
 そして――

「くそっ…」
 そう一人ごちると、また何もなかったようにその場を後にしたのでした。

続く