◆◇ 思う心 ◇◆

「フリードリッヒに戻られるのですか?」

 それは、イルゼ様がジャーデに訪れ、十日ほど過ぎた穏やかな午後の事でした。
 煩わされていた心の懸念が一掃した陛下は、未だ何も言って来ない妻が全く気にならな
い訳ではないものの、その事で執務が疎かになる事はありませんでした。
 そうしてまたいつもの日常に忙殺されている間、ローランからイルゼ様が妻を見舞った
報告を受けていたのです。

 心に余裕のある状態とは頼もしいもので、仕事の傍ら、二人の対決の勝敗を想像すると、
口元がほころんで来るのだから不思議です。
 陛下は八対二の割合で妻が勝利するだろうと予想をしていました。
 もっともこれは、妻が本調子を取り戻していた場合の事で、その様子伺いも兼ね、久々
にイルゼ様との昼食を取る事にしたのです。
 そして件の姫と顔を会わせた瞬間、陛下は自分の予想が当たっていた事を確信したので
すが、その口から突然の帰国願いを聞く事になったのです。

「…それはまた…、何とも急ですね」
「…申し訳ございません。こちらにも無理に来させていただいたのに、帰国もこんな形に
なってしまいまして…」
 そう伏目がちに告げる彼女の様子は、この国に来たばかりの頃と異なり、心に憂いを抱
え、とても大人びて見えるのでした。
 そしてその変化が何故起こったかを推察すれば、前後の出来事からして、当然のように
妻の顔が浮かんで来ます。
 心当たりがあり過ぎるだけに、尋ねるのが恐ろしいのですが、それを自分が聞かない訳
には行きません。
「…イルゼ姫。もしやエルヴィーラが、何かお気に障るような事をしたのではありません
か?」

 その名前を聞くと、案の定目の前の姫はすぐに反応を示しました。
 初めは瞳を大きく見開くと、すぐに眉間に皺を寄せ、そして視線を宙に浮かせ、果ては
陛下をじっと見返し、そして肩を落としました。
 その反応はあまりにも複雑で、いかに陛下であろうとも、心情を把握する事は難しそう
でした。
 陛下が自分を見詰めているのが分かったイルゼ様は、ついこの間、この視線に頬を赤ら
めていたのにも拘らず、今は何故か疲れたようにため息をつくのです。

「…いいえ、そうではありません。…いえ、障らなかったと言えば嘘にはなりますが…。
…それでフリードリッヒに帰ると言うのでは…、まあ、その一因を確かに担っているとは
言えましょうが…」
 何とも歯切れの悪い物言いに、陛下は困惑顔で問い返します。
「…一体、何があったというのでしょう? もし妻に非礼があったのならば、私が知らな
いではいられません。姫、どうか仰っていただけませんか?」
「……」
 陛下の言葉を聞くと、何を逡巡していのか、イルゼ様は無言のまま考え込んでしまいま
した。
 ですがそれは非常に短い間で、すぐにイルゼ様はそのつぶらな瞳に力を込め、陛下の問
いに返答を返したのです。
「…私達のやりとりは、いくら陛下のお言葉とはいえ女同士の話ですから、詳しくお話し
たくはございません。ただ、一つ言えるとすれば、私はエルヴィーラ様の事を少々誤解し
ていたという事ですわ」

 妻の悪行を聞く覚悟の出来ていた陛下は、イルゼ様がそれを話さないのも以外でしたが、
さらに予想外の答えに、反射的に問い返してしまうのでした。
「…誤解、ですか?」
「ええ、誤解です。この間お話しまして、その…フリードリッヒでお聞きしていた評判と
は、かなり違っていたという事を実感いたしました。本当に百聞は一見にしかずと言う事
です。私だけの判断で断定して良いものか分かりませんが、とにかく私自身の疑いを完全
に払拭してしまうような…、あの迫力が虚実だとは思えません!」
 そう訴えるイルゼ姫の拳は固められ、わなわなと震えながら、その時を思い起こしてい
るようです。
 そんな様子を目の当たりにした陛下は、細部に不明な点はあるものの、妻がこの姫に明
らかに『やらかした』事を直感し、顔が引きつるのを感じるのでした。
 でなければ、『迫力』などという不穏な単語は出て来ないでしょうから。

「そ、そうですか…」
 何と返答して良いものか分からず、あいまいに答える陛下をよそに、何故か勢いのつい
たイルゼ様はさらに続けて良い募ります。
「…いえ、確かに聞き及んでいた評判も嘘ではありませんでしたよ! そりゃあ私よりお
美しい容貌も、清楚な物腰も――! ですが、ですが――、何ですか、あの変貌ぶりは!
 わ、私、生まれて初めて生命の危機というものを実感いたしました!」
 非常に共感を覚えるその訴えに、やはり妻が本性をあらわにしたのがはっきりすると、
納得するやら困るやらと、イルゼ様同様、感情がくるくる変化するのが分かりました。
 ですが今まで、単に友好国の姫としか思っていなかったイルゼ様を、非常に近しく感じ
られたのも本音でした。
「…それは、なんと言ったら良いか…。本当に…申し訳ありません…」
 そう恐縮しながらも、陛下の口元には笑みが浮かんでしまいます。
 するとそれを見たイルゼ様も、勢い込んだ自分の態度に気付いたのか、恥ずかしそうに
微笑んで、一つ咳払いをした後、再び真剣な面持ちで言葉を続けます。

「…いえ、とりあえずそれは良いのです。…ですが、私は急いでこの事を父に話さなけれ
ばならないのです。 …こんな断片的な話では、何が何やらお分かりにはならないでしょ
うが、この間もお話しました通り、私も一度はジャーデに嫁ぐ心構えをしていた者です。
それは実現しませんでしたが、ジャーデを思うその気持ちは変わっていないと自負してお
ります。ですから今回私がこの国にやって来た真の動機は、その気持ちに突き動かされて
の事です。それは…ジャーデの現状をお聞きしたから…という事だけは言っておきます
わ」
「!」
 やはりイルゼ姫がこの国にやって来たのは、小旅行などではない事を聞くと、陛下はに
わかに真剣な面持ちになりました。
「イルゼ姫、それはどういう事なのでしょう? 国の事が関係しているとあらば、説明し
ていただかねば――」
 陛下がそう言う事を既に分かっていたように、イルゼ様はそれを受け止め、そしてきっ
ぱりと返答するのでした。
「先ほど申しました通り、今は言えません。もしはっきりとした確証が取れた場合は、父
が陛下にご報告差し上げる事になります。これはエルヴィーラ様と、そしてあなたが一番
信頼すると言ったローランも承知している事です」
「! ローランも?」

 その言葉に、先ほどの和んだ様子から一変した、イルゼ様の厳しい視線が陛下に突き刺
さるように向けられました。
 彼女の視線に刺激され、陛下は不意に何かが頭の中で形作られたのを感じました。
 思い起こせば、イルゼ様はジャーデに来てからというもの、自分と妻、そしてローラン
の動向に非常に関心を持っていたように思われるのです。
 今まで彼女が自分達に投げ掛けた、問題を提起させるような発言も、彼女が言ったよう
に、この国を思っての事だとすると――
 陛下はその断片の骨子を整理すると、はっきりとイルゼ様に向かって言うのです。

「分かりました。ならばもう聞きません」

続く