◆◇ 王子と姫 ◇◆

 陛下の返答を聞くと、緊張していたイルゼ様の視線が、一気に解けて行くのが分かりま
した。
 そして彼女は、陛下に向かってゆっくりと問い掛けるのです。
「…それは、やはりお二人の事をお信じになっているからですか?」
 その言葉を受け、陛下はこの数日の事が脳裏を過ぎるのを感じましたが、思い出せばな
お一層、心に力が宿るのを感じるのでした。

「――そうですね。『信じる』というより、私はあの二人になら裏切られても後悔がない
と言った方が良いのかもしれません。もしそんな事が起こるのならば、それはきっと私が
悪いんです」
 陛下の言葉を聞き、イルゼ様は一度まぶたを閉じると、今度は耐えるような表情で問い
掛けて来るのです。
「では、私が偽りを言っているとは考えませんの?」
 陛下は彼女の心が怯えているのが分かりました。
 大事に育てられた富国のイルゼ姫は、きっと今まで人に疑いを掛けられた事などなかっ
たに違いありません。
 ですが今は自分でその問いを投げ掛ける側なのです。
 それがジャーデのためと信じて――
「…確かに、私はローランやエルヴィーラほどにはあなたをよく知りません。ですからこ
の数日間のあなたのお話、そして表情や行動などを検討して判断させていただくしか出来
ないでしょう。そして思い出してみると――、あなたは確かに私達に色々な事をもたらし
て下さいました」
「……」
「…ですが――、私はそれのどれにも決定的な悪意は感じられませんでした」

 審判を受ける者が、無罪の告知を受けたように、イルゼ様の表情に安堵が広がりました。
 そして、オウム返しのように陛下の言葉を復唱します。
「悪意…」
 それを受け、陛下は言葉に力を込めて語り掛けます。
「…これでも私は、人の持つ、心底の悪意を見抜くのは結構得意なんですよ。この国はあ
なたの国以上に複雑な情勢下ですし、何と言っても私は王職に就いているので、人の心情
を掌握するのが仕事ですから」
 陛下の言葉に、彼の役職を今さらながらに気付いたようで、イルゼ様は居住まいを正し
て背筋を伸ばしました。
 そんな目の前の少女の様子は非常にほほえましく、自分に妹がいたらこのような気持ち
なのだろうと思うのです。
 そう、妹――。
 彼が妻に抱く感情には、そういう穏やかな気持ちと、激しい気持ちがいつも同居してい
るのです。
 それはどちらか一方が欠けても、決して恋愛に結びつかないもの――

「…と言っても、最近はずっと悩んでいたので見落としもありますが、あなたは妻とロー
ランには、何か疑いを思っていたように思えるのです。でも、それは私が呼ぶ悪意という
ようなものにはほど遠い…。…そう、だから『誤解』だと言ったんでしょう?」
「…! 陛下…」
 驚くように自分を見詰めるイルゼ様に首を振ると、陛下は言葉を続けます。
「…いいえ、全部分かっている訳ではありません。ただ、あなたが嘘を言ったりはしてい
ない事が分かるだけです。それに、もしあなたが信用の置けない人物ならば、エルヴィー
ラがあの性格を見せる事はないんです。彼女はそういった事を、私と違って直感で見分け
る質ですから、『敵』と見なせば…、お分かりになるでしょう?」
 そう陛下が困ったように微笑むと、それを受け、イルゼ様の表情も和らぐのが分かりま
した。
「…ええ」
「あともう一つ。あなたのお陰で、今まで確固たると思っていた二人への信頼が、実は
少々危ういものだったという事を、実感する事が出来ました」
「…私が…?」
 そう口では言いながらも、彼女には心当たりがあるようで、陛下の真意を探っているよ
うです。
「ええ。あなたは私に、ローランとエルヴィーラがお似合いだと仰った。その時はやせ我
慢で気にしていない振りをしましたが、その後夫婦喧嘩――というか、私がエルヴィーラ
に八つ当たりをしてしまいました。その上ローランにも暴言を吐くわで、本当に情けない
有様です。ですからこの数日間、それはもう倒れるほどに悩みましたが、却って自分の本
心を良く理解出来た気がするんです。だからそれは…とても感謝しているんです」
 なんのてらいもなく、自分の事を話す陛下に、イルゼ様は少々驚いている表情を見せま
した。
 そんな様子を確認し、陛下は柔らかに微笑んで先を続けました。
「それに…、もっと言えば、たぶん私はあなたが嘘をついていれば、すぐに分かると思い
ますよ。何故なら、あなたはご自身では気が付いていないかもしれませんが、私の妻同様、
思った事がすぐ顔に出てしまう。だから、あなたが真剣な表情で言えば、それは全てが真
実――つまりこの国に来たのも、先ほどあなたが言った通りだという事なんでしょう?」
「…!」
 陛下の言葉を受け、イルゼ様は恥ずかしそうに顔を両手で押さえる仕草をしました。
 彼女はそんな自分の性質を知らず、今まで成熟したの女性のように、心の内を隠して振
舞えていると信じていたようです。
 そんな様子を優しく眺める陛下に、イルゼ様は少女のように頬を赤く染めましたが、す
っかり緊張感が解れたようで、彼女も照れたように微笑み返すのです。

 ところが、そんな和んだ雰囲気を壊すように、不意にイルゼ様が口を開きました。
「あの…、陛下! 私、帰国前にどうしても陛下にお尋ねしておきたい事があるんです」
「え…?」
 陛下は直感で、何かとても恥ずかしい事を答えさせられそうな予感がしました。
 得てしてそういう直感は当たるもので、目の前の姫の目の色は『答えなければ離さな
い』と宣言しています。
 陛下は仕方なく、その質問を承諾してみる事にしました。
「…な、何でしょう…?」
 すると、やはりというかその予想は通りの返答が、彼女の口から返って来るではありま
せんか!
「…陛下、陛下がエルヴィーラ様のどこにお惹かれになったのか、是非私にお教え下さ
い!」
(やっぱりーーーーーーーーーーーー!)

 予想してはいたものの、その破壊力は絶大で、彼の顔は見る見る赤く熟れて行きました。
「…なっ、何でっ、ですかっ? それっ、何か関係あるんですか?」
 そう言えばまだエルヴィーラと夫婦になる前にも、彼女にこんなやり取りを強要された
事を思い出します。
 だとすれば、こんな醜いあがきが通用する訳ないと頭では分かりつつも、そうしてしま
うのが性というものでしょう。
 もちろんこの状態の女性が、それを聞き入れてくれるはずはないのですが――

「――あります! そこが一番大事な所なんです!」
(えええええええええーーーーーーーーー?)
 明らかに言動と表情が崩壊している陛下を目の当たりにしても、問いを投げ掛けたイル
ゼ様はさらに言葉を足し、質問から逃れさせないように罠を張ります。
「…私、宴の時にも同じような事をお聞きしましたが、エルヴィーラ様とお話しするまで
は、ずっと彼女の容姿に惹かれたんだと思っていたんです。…いえ、そう思いたかったの
かもしれません」
「…!」
 少々湧いた頭で思い出しても、確かにイルゼ様は自分と妻にそんな事を言っていたよう
な記憶があります。
「陛下は否定しようとなさっておいででしたわ。でも私が遮った。殿方はそういう事を認
めたがらないものだと考えたからです。でも…」
「…」
「…エルヴィーラ様は違うんでしょう?」

 そう言ったイルゼ様は、寂しそうに、ですがどこかすっきりしたように微笑んだのです。
「…私、確かに陛下とお会いした事もありませんでしたけど、幼い頃、父から婚約のお話
を聞いた時は、将来の夫となる方を想像して、本当に色々考えたんですのよ。もうそれは
夢物語のような事ですけれど、ソウ王子のりりしいお姿とか、二人を祝福する民衆とか
…」
 その頃の自分を見て、妻がどんな反応を示したか分かっている陛下の心情は、多少複雑
なものがありましたが、『王子』という部分に理想を抱いてしまう所は、やはり妻もイル
ゼ様も同じなのだと妙に納得するのでした。
「…それが、あっという間に美貌の姫にその夫をさらわれてしまったんですよ! しかも
年上の! それは確かに私は陛下よりも年下です! でも、その分心は一途ですわ! だ
から私、婚姻の儀ににも堂々と出席させていただきました! そうしたら、本当にエルヴ
ィーラ様は美しいし…、ソウ様は立派な方で…、でも、何故か釈然としなかったんです。
ずっと、夫を横取りされたような――、だからまだその時の気持ちが残ってしまって、自
分の婚姻に踏み出せないのです!」
 そう言うと、再びイルゼ様はまっすぐに陛下を見詰めました。
 陛下は以前自分が言った『婚姻』の言葉に、彼女が悲しそうな表情をしたのを思い出し
ました。
 彼女にとって、自分がまだ将来の夫と重なっていて、その口から他の男性との婚姻を口
に出されたとすれば、彼女の悲観も無理ありません。
 目の前の彼女の表情はどこまでも真剣で、既にイルゼ様の性格が分かっている陛下は、
心して答えねばならない境地に追い込まれるのです。
 陛下は一つ大きく息を吸うと、ゆっくりと口を開きました。

「…確かに、エルヴィーラの容貌は美しいです。それは…もちろん、す、好きですが…、
でも、私は――、そんな事よりも、彼女の何にでも体当たりっていう、そんな所が――、
一番好きなんです」
「…」
「…それは…性格もありますが、豪快で、裏表が作れない…、あなたにも共通するかもし
れませんけど…、もっと不器用な所が…年上なのに可愛くて…。それに対して、わ、私は、
王位に就く以前から、どうしても裏に裏に回りがちなんです。――というか、その方が上
手く行く事が多いし、多分楽なのもあります。その上猜疑心も強いし…、めったに心を人
に開けない。でも、そんな私の虚を突いて、彼女は私の中に入って来るんです。彼女も姫
ですから、人に心を許すという事は警戒があるはずですが、自分の直感で決めたら迷わな
い、そんな強い所が…すごく好き…なんです…」
 最後を良い終えるまでに、更に熱を上げたのではないかと思われるような真っ赤な顔を
見ると、それが伝染したのか、イルゼ様も同じく熱に浮かされたように言うのでした。
「…それではまるで、エルヴィーラ様が王子様のようではないですか…」


 ようやく二人の微熱が治まると、イルゼ様は自室に戻られると言う事になりました。
「では、日時がはっきりと決まったら教えて下さい。その前にまた宴を催しましょう」
「…いえ、出来れば目立たないように帰国したいと思うんです」
「警護の方は、今日からでも増やすよう手配しておきますが、あなたが秘密裏に動くと、
それを逆手に取ってさらに危険が及ぶのではないでしょうか? あなたがどうしたいのか、
はっきりとは分かりませんが、こちらが相手の動きを抑制するような状況下だと見せつけ
ておく方が、あなたに危害は…」
「ええ、そうなのですけれど――、それだと困る事があるのです」
 言えない事があるせいで、イルゼ様も説明が難しそうに表情を歪めます。
「…では、ローランを私の警護から外し、あなたにお付けしましょう。彼なら一人で数人
の警護に勝りますから」
「…有難うございます。でも、私よりも、陛下とエルヴィーラ様の方が心配なのです。…
私にも、分からない点がいくつもあって…、本当に、今となってはジャーデに来た事も全
て――」
 そんな心優しい姫の心配を吹き飛ばすように、陛下は力強く言い放ったのです。
「ご心配には及びません。私の事は自身で守りますし、エルヴィーラは何に代えても私が
守りますから」
 きっぱりと言い切る陛下を見たイルゼ様は、ようやく安堵したように微笑んで、先ほど
の言葉を撤回して言うのでした。

「まあ、ではやっぱり王子様は陛下でしたわね」

続く