◆◇ 再び ◇◆

「だからあれほど気をつけろって言ってたのに、あんた本当に分かってんの?」

 あの時の凄味の効いた声ではなく、既に親しみのある声音で自分に問い掛けるその声は、
やはり少々水分が足りないようです。
「…エルヴィーラ様、喉をどうかされたんですの?」
 そう言われ、彼女はため息を吐きながら言います。
「あんたが気を失ってる間、外に聞こえないかと思って叫んでたのよ。全ッ然効果なかっ
たけどね。一体ココどこなのかしら? 全く…」
 彼女の声をまだ少し遠くに聞きながら、イルゼ姫はうっすらと思い出した事を口に出し
ました。
「…そうだわ…。レアオの手紙…」
 彼の書状には、こんな事が書いてあったのです。
『イルゼ姫、どうしてもお話したい事があります。私も騙されていたのです。イルゼ姫に
全てを知られてしまったという事で、私の命も狙われています。このような事になった真
の理由をお話したいので、どうか今少し私を信じて、この部屋のバルコニーに出て下さ
い』
 そして、彼女はやはりレオアを疑い切れず、そして部屋の外には警護の者達がいるとい
う安堵感も手伝って、書状に従ってしまったのです。
 そこまでで彼女の記憶は途切れてしまうのでした。

「それは、何を嗅がされて気を失ったからよ」
 エルヴィーラ様が、自分の記憶してない部分を補完するように口を挟みました。
「! でも、どうしてそれを…?」
 なるほど、頭がフラフラすると思ったのはそのせいだったのです。
「あたしもそこにいたんだもの! 隣の部屋から飛び移ろうとしてたら、グッドタイミン
グであんたが出て来て、声を掛ける間もなく黒ずくめの奴ら数人現れたと思ったら、あん
たを連れ去ろうとするじゃない! だからあたしはそいつら目がけてまずはペンダントを
投げつけてやったわ! それから大声で叫んだんだけど、あっという間にあたしも捕らえ
られちゃったのよ!」
「…でも、何でエルヴィーラ様がそんな所ににいらっしゃったんです?」
「だって、ローランに陛下が呼んでるっていう偽の伝言を出したの、あたしだもの!」
「なっ、何ですって!」
 ようやく頭が回りかけて来たのか、イルゼ様は彼女の告白を聞き、驚きの声を上げます。
「そっ、それは一体どういう事なのですか?」
「どーもこーも…。あんた明日にはジャーデを立つって言うのに、ローランがまだ今日の
宴にも出ちゃダメって言うから、そうするくらいしかあんたに会う事が出来なかったのよ。
あれ以来あんたもあたしの部屋に来ないし、ちょっと脅かし過ぎちゃったし、そのまま別
れるのも後味悪いから、その前にちょっと話でもしようと思ったのにー」
 そう言って頬を膨らますエルヴィーラ様は、まるで子供のようです。
 こんな状況下にあっても、彼女は自分を見失わず、普段の振る舞いのままなのが分かる
と、呆れると共に安堵感がが起こるのです。
 ですが、彼女が自分に安心を与えたなど、そんな悔しい事を表面に出すのも癪なので、
イルゼ様も避難がましく言ってみる事にしました。
「…じゃあ、エルヴィーラ様にもちょっとは責任があるじゃないですか」
「何でよ」
「私がさらわれても、その場に残って警護の者に助けを呼んだら良かったんじゃないです
か? そうしたら、少なくともあなたはさらわれる事はなかったのに…」
「あんたねー、目の前で人がさらわれて行くのを黙って見てるなんて、このあたしに出来
ると思ってんの? あたしは頭で考えるよりも先に手が出るタイプなのよ! ペンダント
を投げつける事を思い出しただけでもすごい事なんだから!」
 やはり思った通りの反応を返して来る彼女と話していると、焦る自分がバカバカしくな
り、イルゼ様も次第に落ち着いて来るのが分かりました。
「何なんですか、そのペンダントって? 訳が分かりませんわ。そんなに重要な事です
の?」
 すると目の前の王妃は、こんな不自由な体勢でも威張るように胸を張り、不適な笑みを
漏らすのです。
「ふっ、ふっ、ふっ。あのペンダントはね、秘密兵器ってヤツなのよ! ソウがくれたも
のなんだけどね、中に結構キツイ香りを出す液体が入ってるから、それが付着したら取れ
ないのよ! それに辺りにも香りを残すから、後を追うのにも役に立つっていう優れモノ
よ!」
「…じゃあ、先ほどから匂うのはそれ、という訳なんですのね」
 なるほど、この部屋に充満している香りからすると、未だその効力は続いているかもし
れません。
「でもこんなに目立つ匂いなら、それを受けた者達も気が付いて何とかしてしまうんじゃ
ありません?」
「む?」
「それに、私がどのくらい気を失っていたのか分かりませんが、まだ助けが来ないという
事は、匂いだけの捜索は手間取っていると言う事なのでしょうね」
「だから何よ?」
 イルゼ様の言いように徐々に苛立ちを見せて来たエルヴィーラ様は、口を尖らせて言い
ます。
「…だったら、やはりエルヴィーラ様だけでも助かって欲しかったって言う事です。こん
な事に巻き込んでしまったら、私、陛下に会わせる顔がありませんわ。それでなくとも、
私はジャーデに来てからというもの、皆さんに迷惑をお掛けし続けだったんですから。例
え自分ではジャーデのためだと思っていたにしろ、特にあなたと陛下の間には溝を作るよ
うな事をしたんです。だから私がこういう目に遭うのは自業自得というものでしょう。そ
れに私には、あなたと違って待っている夫もいませんから」
 そんな自嘲気味のイルゼ様の言葉を聞くと、エルヴィーラ様は少々驚いた表情を見せま
したが、すぐに鼻で笑って言うのです。
「確かにあんたには色々されたと思うけど、こんな状況になるほどの事はしてないわよ。
そんなふうに思ってるだろうと思ったから、最後に話そうって気にもなったんじゃない。
大体溝なんて出来てないわよ! これによってさらにあたしとソウの仲が深くなったって
言うだけなんだから! そんなにあたし達の仲が羨ましいなら、あんたもとっとと良い旦
那をゲットすれば良いだけでしょう! あんたはまだ十六だけど、あたしがソウと結婚し
たのは十七よ! でも、ぜーんぜん焦ってなんかなかったんだから! そうしたらどう?
 あんな素敵な夫が出来たんだから! 若いくせに変な悲観すんじゃないわよ!」
「それはあなたのような美貌があれば悲観なんかしないで済むでしょうけど…」
「何言ってんのよ! あたしは確かに美しいわよ? けど、ソウはそんな所全然点数に入
れてくれないんだから、一番のチャームポイントが全く効かない相手にあたしがどんな苦
労をしてるか知らないくせに! それに、それを言うなら逆なのよ! あたしは何として
も、あんたを無事にフリードリッヒに帰さなきゃいけないんだから!」
 論点が少々ずれているような話も入っている気がしつつも、イルゼ様は問い返します。
「…? それはどういう…」
「あたしはソウの妻よ! ジャーデの王妃として、国賓のあんたに傷一つ付ける事は許さ
ない! だからあたしはどうなっても、あんたを守る! そのためなら、声ぐらい枯らし
て叫ぶ事もやってやるって言ってんの! だからあんたも諦めた事言うんじゃないわ
よ!」
「…! エルヴィーラ様…」
 イルゼ様が言葉を詰まらせると、自分で言った事に少し照れたのか、エルヴィーラ様は
すぐにそれを打ち消して言いました。
「いや、あたしはどうもならないけどね! だってソウが絶対助けに来るから!」
 そんな空威張りを見ると、イルゼ様はもう体の力が抜けて来るのでしたが、彼女の瞳は
曇りない真実を言っているように輝いているのでした。
「…本当にそうだと良いですけど…」
 イルゼ様にとって、陛下は確かに温厚で誠実な人物には映っていましたが、エルヴィー
ラ様がそうだったように、彼女にとって彼はおとなしく、部屋の中で静かに本を読んでい
るような繊細なイメージしかありません。
 陛下が助けに来ると言う事=臣下が助けに来ると思っている彼女は、エルヴィーラ様の
自信満々な態度の理由が理解出来ませんでした。
「そうよ! だからあたし達もやれる事はしなくちゃなんないわ! さ、手を貸しなさ
い!」
「は?」
 言うか早いか、エルヴィーラ様は不自由な体を動かし、縛られているイルゼ様の手に、
自分の手を押し付けました。
「一人で解こうと思ったけど無理だったのよ。でも、これなら出来るかもしれないでしょ。
早く解いてみてちょうだい」
「で、でも、上手く手も動かせないのに…。それに、陛下が助けに来てくれるんでしょ
う? だったら…」
「あんたバカなの? そりゃあ助けには来てくれるけど、出来るだけこっちに有利になっ
てた方が良いに決まってるでしょ! こんな格好で転がっててあたし達を楯にされたらど
うすんのよ! いくらソウでも手出し出来ないかもしれないじゃない! いい? 出来る
事は何でもやっとくものよ! 戦いではいつでも相手より優位に立つのが一番大切な事な
んだから! あたしは戦闘の実践は良く分かんないけど、多分要領はどれも同じでし
ょ!」
 そう言って、有無を言わせず手を押し付け続けるエルヴィーラ様に圧倒され、イルゼ様
はぎこちなく縛られた手を動かさなくてはならなくなりました。
 それは思いの外大変な事で、固く結ばれた縄をやっとの思いで解いた時は、今までこん
な事に関わった事のない、美しく柔らかい指の皮膚は傷付き、爪も欠け、酷い有様になっ
てしまいました。
 ですが、イルゼ様の手首から縄を解き終った彼女の手を見ると、彼女も同じように傷付
いていているというのに、そんな事に全く頓着せずに足の縄を外しに掛かるエルヴィーラ
様を見て、イルゼ様はこの国が自国とは違う、過酷な状況下に日常があるのを、ぼんやり
と垣間見たのでした。

 自分がこの国に嫁いでいたらどうだったのでしょう。

 彼女のように、自分で何かをするなどと言う事を考えたのは、この国にやって来る事が
初めてだったように思います。
 それも、レアオが巧みに仕組んだ事で、自分はその機会に乗っただけ。

「…エルヴィーラ様は、ジャーデに来て、こんな事があるのに…、それを恐ろしいとか思
いませんの?」
 呟きのようなその質問に、足の自由を取り戻したエルヴィーラ様は、立ち上がり、屈伸
をして調子を見た後、未だぼんやりと自分の方を見ているイルゼ様の足元にしゃがみ込み
ます。
「…あんたねえ、あたしがいくらジラルディーノで暴れてたからって、こんな風に命のや
り取りをするような状況下にはなかったのよ。そこそこの資源があるお陰であそこは、あ
んたの国と同じくらい平和ボケした国だったんだから!」
 そう言いながら、彼女はイルゼ様の足首の縄を引っ張りました。
「イタっ! ちょっと、無理しないで下さいな!」
 先ほど手を自由にしてもらった時も乱暴でしたが、足はそれ以上に気を使わないのがあ
りありと分かり、イルゼ様は文句を言いました。
「先ほど傷一つ付けないって仰った事をお忘れですの?」
「うるさわね! そんなの言葉のあやよ! さっさと解かない自分が悪いんでしょ! そ
れに、こんな事になって、怖くない人なんかいるもんですかっての!」
 そうして無理矢理縄を解いたエルヴィーラ様の手をよく見ると、細かく震えている事が
分かりました。
 彼女も口で言う以上に、恐ろしさを必死で我慢してイルゼ様に対応していたのです。
 それは王妃の誇りもあるかもしれませんが、それよりはやはり、彼女の性格による所が
大きいように感じました。
「…エルヴィーラ様…」
「さあ、あたし達がこんな場所にいるなんて似合わないわ。とっとと脱出するわよ!」
 振り切るようにそう言うエルヴィーラ様を見て、イルゼ様も覚悟を決めると、足に力を
入れて立ち上がりました。

 二人は自然と明かりの漏れる方向に向かいます。
 そこにはドアがあり、さすがに何かで塞いであるようでしたが、囚われているのが王女
達という事と、手足を拘束した余裕からか、その塞ぎ方は簡単なもので、手を掛けただけ
で、音を立てて揺れます。
 辺りに物音がしない事を一応確かめると、エルヴィーラ様は手馴れた様子でドレスの裾
をまくり、足で勢い良くドアを蹴ります。
 そんな様子に驚いたのはイルゼ様で、王家の息女が、その上今はこの国の王妃ともあろ
う方が、そんなはしたない真似をするとは信じられないように目を見張ります。
 呆然とする彼女をよそに、一度でドアが開かないのが分かると、さらに連続で足を振り
上げるエルヴィーラ様は、三度目の蹴りでようやく手応えをつかむと、嬉しそうに彼女に
笑い掛けました。
「ふふん。開いたわよ」
 そう言って身を翻しドアを開け放つ姿は、彼女の性別が男性であったならば、さぞや勇
ましいものだったと考えると、イルゼ様は自分が陛下に言った言葉を思い出すのでした。

『…それではまるで、エルヴィーラ様が王子様のようではないですか…』

「さあ、早くこっち!」
 エルヴィーラ様に強く手を引かれる状態でイルゼ様は部屋を抜け、一つまた一つと部屋
を抜けて行き、いくつもドアの並ぶ廊下を進んで行くと、ようやく外へと続くドアに到達
しました。
 エルヴィーラ様が大声で叫んでも誰の助けが来なかったのは当然で、彼女達が拘束され
ていたのは、いくつもある部屋の奥も奥だったのでした。
 明かりはなく、日が既に傾いている状態でしたが、うっすらと見えるその屋敷――そう、
その屋敷は大変広く、そして現在は使用されていないように痛みが加わってはいるものの、
放置してある調度は彼女達が普段目にしている調度と変わらないくらいに豪奢なものでし
た。
 部屋を抜ける事に集中していたエルヴィーラ様も、その事に気付いたようで、その顔に
緊張が走るのが分かりました。

「…ここは…、王弟殿下の…」
 その呟きを耳にして、イルゼ様は一つ思い出した事がありました。
「…エルヴィーラ様。…私は確かにうかつにレオアの誘いに乗ってしまいましたが、その
書状には確かにジャーデ国の王家の印があったのです。あの印は王族の書の証なはず。レ
オアがその書状を出せたという事は――」
「…決まりね。王弟殿下は四年前に国外に追放になったけれど、まだ亡くなってはいない
わ。あるいは王弟殿下にも子息がいたはずだから、その誰かかもしれない。とにかく、レ
アオの後ろには誰かいるとは思ってたけれど、こんな人達だと、本当に命が危ないわね」
「…」
「あたしの考えでは、あんたを焚きつけて、あたしの後釜をゲット。そしてそこで美味し
い汁を吸えればラッキーぐらいな考えだろうって思ってたんだけどね…」
 そう言いながら、ドアに耳を当て、外の音を聞くと、エルヴィーラ様の表情が曇って行
くのが分かります。
「…さすがに外には見張りはいるようよ」
 未だ繋いだ手から、エルヴィーラ様の緊張が伝わりましたが、彼女の手はもう震えては
いませんでした。
 それと対象に、冷たく震え出したイルゼ様の手をきつく握ると、彼女に向かって、もう
一度言うのです。
「大丈夫よ。言ったでしょ、あんたを守るって!」

続く