◆◇ 王子×2 ◇◆

「――が、逃げたぞ! 追えっー!」
 ドアの外から、何人かの怒声が聞こえます。
 彼らは玄関からかなり離れた部屋の窓が、派手に破られる音を聞くと、皆一斉にその方
向へ走り出して行きました。
 辺りがすっかり静かになるのが分かっても、彼女はそこから中々動く事が出来ません。
 頭では、早く早くと思っているのに、恐ろしさで足がすくんでしまうのです。

『あたしがおとりになるから、あんたはその隙を縫ってこの屋敷から逃げるのよ!』

 そんな彼女に、エルヴィーラ様が言った言葉が、なけなしの気力を与えます。
『危険』だと言ったのはエルヴィーラ様の方なのに、何故彼女はそんな役を買って出たの
でしょう?

『無、無理です! やっぱりここにいて助けを待った方が良いですわ! だって、見つか
ったら…』
『大丈夫、ここは王宮からそんなに離れていないから。あたしが逆方向に逃げればあんた
が脱出するくらいの隙は出来る。とにかく行ける所まで行って、危なさそうなら、隠れて
いれば良いわ。あの屋敷にあたし達が捕まっている限り、レアオの仲間が戻って来る。見
張りが少人数なのもチャンスだし。良い? この屋敷からは絶対逃げ出さないとダメ!』

 そう言うとエルヴィーラ様は、一度強くイルゼ様を抱きしめ、言ったのです。
『ソウもローランも、きっと今あたし達を捜してる。だから絶対大丈夫! 分かったわね、
イルゼ――!』

 彼女の言葉が頭から消えないうちに、イルゼ様は思い切りドアを開け放しました。
 そして必死に、頭から足に『前へ、前へ』と命令を送り続けます。
 彼女はエルヴィーラ様と違い、しとやかな王女として育てられて来たため、走った事も
少女期になってからはほとんどありません。
 エルヴィーラ様の言う、『そんなに離れていない』が彼女の脚力に適用するか分かりま
せんが、彼女はそれでも必死に走りました。
 頭に掠めるのは、やはり自分のおとりになったエルヴィーラ様の事ですが、彼女の強い
瞳を思い出し、イルゼ様は足を前へと出し続けます。
 ですがすぐに息が上がり、足はふらつき始めました。
 それもそのはず、彼女達の靴は走るようには出来ていないのですから。
 そうして何かに足を取られると、勢い良く地面に転がってしまうのでした。

(痛――っ)
 彼女は痛さにしばらく動けず、地面に耳を当てる格好のままうずくまっていました。
 するとその耳に、自分の来た方向から足音がどんどん近付いて来るのが聞こえ、彼女の
心臓は、走っている時以上に激しくなるのです。
 こちらに追っ手が向かっているという事は、既にエルヴィーラ様は捕まってしまったの
でしょうか?
 彼女は次第に混乱しながらも、転倒した痛みも忘れ、起き上がって走り出そうとしまし
た。
 ですが、体はダメージが大きいらしく、再び足がもつれて転倒してしまうのです。
 その間にも、敏感になった耳が追っ手の足音を捉え続け、その音が止まったかと思うと、
彼女へ向かって声を発しました。
「いたぞ! 姫だ!」

 その声を聞いた瞬間、イルゼ様は今にも気を失わんばかりになりました。
 あっという間に、背後へ回りこまれたのが分かると、彼女は無意識に体を守るように身
を縮め、手で頭を覆います。
「ったく、逃げられるとでも思ったのか――」
 彼女の様子に、動けないらしいと見て取った、追っ手が速度を緩めて近付くのが分かり
ます。
 人が体に触れる気配に、全身が強張るのを感じたその時、規則的に地を蹴りながら、高
速でこちらに近付いて来る、何かの足音が聞こえて来ました。
 新たな追っ手が迫って来るのかと、イルゼ様は言いようのない恐怖に駆られましたが、
ところが規則的に聞こえていたその音は、彼女達から少し離れた地点で、忽然と消えてし
まったのです。
 するとその直後、彼女のすぐ側で一旦地面が爆ぜるような音がしたと思うと、追っ手の
驚いたような声が上がります。
「なっ、なん――!」
 身を伏せて頭を抱える彼女には、何が起こっているのか知るよしもなく、とにかく震え
ているのが精一杯で、耳だけが勝手に状況を捉え続けるのでした。
 言葉を発した追っ手が、鈍い音と共に悲鳴を上げ、地面に倒れるような音が聞こえます。
 その後絶叫が響く中、先ほどとは異なる声を聞いた気がするのですが、大きく何かを振
ったような音、そして何かが地面に刺さる音、そしてすぐさま悲鳴が上がったと思うと、
再び大きく地面に振動が走ったのです。
 でもそれを最後に、辺りは静寂に包まれたので、乱闘が終ったと悟ったのでした。

 訳が分からないものの、恐怖が去った事を認識し、彼女は顔を上げようとしました。
 ですが自分の背後に、人が立ち上がる音を聞いてしまったのです。
 追って来た人数が分からない彼女にとって、敵か味方かの判断は、付けようもありませ
ん。
 自分の正面に屈むその人物に、彼女にはもう成す術もなく、きつくまぶたを閉じるのが
精一杯なのでした。
 すると――

「…大丈夫ですか? イルゼ姫」
 そう声を掛けられて、彼女は我が耳を疑いました。
「…どこかお怪我は…、ああ、これは――」
 その人物は、そう言ったかと思うと、彼女の体を易々と持ち上げたので、いよいよこれ
は自分の作り出した幻覚のような気がして来ました。
 人は恐怖に、救われる妄想を作り出すと言います。
 ですが、その誘惑に負けて目を開けると、そこにはやはり、ソウ陛下の顔があったので
す。
「陛下…? 本当に?」
「ええ、エルヴィーラと一緒だったでしょう? ペンダントの香料の香りを追って来たん
です。そのお陰で、他の者より早く見つける事が出来ました。イルゼ姫、エルヴィーラは
――?」
 その名を出されると、混乱していた彼女の頭は、それを押し退け、素早く反応を返しま
した。
「そ、そうです! 私の事は良いですから、エルヴィーラ様を! 彼女は私を逃がすため
に自分がおとりになると言って、王宮と反対方向に逃げました! お願いです! 早く、
早く助けに行って下さいまし!」
 陛下は妻の行動を聞くと、顔に驚愕の色を見せました。
 イルゼ様の只ならぬ様子を見ても、妻の救助を優先したいようでしたが、彼女をここに
置いて行く判断を付きかねているようでした。
 ところが不意に、彼は何かに気付いたようで、耳を澄ますように目を閉じました。
 そして次に目を開けた時、顔に笑みを浮かべると、彼女を優しく地面に降ろして言うの
です。
「すぐにローランがここにやって来るようです。それまで待ってあなたの安全を確保した
い所ですが、すみません、お言葉に甘えて私は行かせていただきます」

 そう言うが早いか、見る間に陛下は地を蹴って、飛ぶように王弟殿下の居城跡へと消え
て行きました。
 そしてその姿を祈るように見詰めていると、彼の言った通り、すぐにローランを筆頭に、
警護の者達が馬を駆って現れたのでした。
「イルゼ様! ご無事ですか!」
 ローランに名を呼ばれ、イルゼ様は安堵が広がるのを感じました。
 それは、自分の安全が確保されたからではありません。
 陛下の計り知れない能力を見せられ、エルヴィーラ様が言っていたように、必ず彼が無
事に妻を連れて戻るのが確信出来たからです。
「本当に…、王子が二人いるようなんですのね…」


 一方、エルヴィーラ様も自慢の足を最近使っていなかったからか、それともやはり体調
の悪さのせいでしょうか、思ったように速度が出せず、すぐに追っ手に追いつかれる形に
なってしまいました。
 イルゼ様の事を考えれば、とにかくこの追っ手だけでも自分の方に引き付けておく必要
があります。
「…くそ、…手間、を…、掛けやがって…」
 そう言って、息を上げている所を見ると、この追っ手達もそんな手練と言う訳ではない
ようです。
 地面に座り込んだエルヴィーラ様を起こそうと、無作法に手を掛けるので、彼女は殊更
大げさに悲鳴を上げて見せました。
「痛い! 乱暴はおよしになって! 痛い! いたーい!」
 すると後から追い付いたもう一人が声を掛けました。
「おい、…あんまり、乱暴…すんなよ」
 するとエルヴィーラ様に手を掛けた方は、そんな言葉をあざ笑うように、力任せに彼女
を引き起こすと、吐き捨てるように言いました。
「へっ、…何、言ってやがる。こいつら、もう、用済みなんだから、本当なら殺しちまっ
たって、構わねーんだ。…ただ、上玉なんで、もったいないって、…だけなんだから
な!」
 未だ息も整わないというのに、威勢だけは良い者の口から出たのは、思った以上に自分
達の命が軽んじられている事実でした。
 実際にそれを知ると、さすがに恐ろしくなって来ましたが、必ず救出が来るのを信じい
る彼女は、情報を引き出そうと弱々しく尋ねてみる事にしたのです。
「そ、それはどういう事です? 何故私達が殺められないとならないのですか? 金品が
欲しいのなら、私達が死んでは困るでしょう?」
 高貴な女性が自分達に恐怖するのを快く思ったのか、彼らは顔に卑しい笑みを浮かべ、
勝ち誇ったように言いました。
「別に、誘拐で金を要求するつもりはねーんだよ。オレ達もよくは知らねえけどな、本当
ならフリードリッヒの姫さんが、上手くここの王をたらし込んでれば万事オーケーだった
らしいけど、失敗しちまって依頼主の都合の悪い事を知っちまったらしい。だから予定を
変更して、姫さんには亡くなってもらうって事になって、オレ達に仕事が来たって訳さ」
 息もようやく整うと、元がお喋りのなのか、彼は思った以上に情報を漏らします。
「で、でもそんな事をして、どうなると言うんです?」
「さあな、そこまでは知った事じゃねえな。オレ達はとにかくあの姫さんと、おまけのあ
んた――ここの王妃様なんだって? を殺せって命令を受けた。でも、二人とも殺すには
惜しいほどの別嬪だろ? だから内緒で殺さねえで売っちまおうって事にしたんだよ。死
なねえで済んだんだから、オレ達に感謝してじっとしてりゃあ良いのに、手間掛けさせや
がって。こっちは替えの死体を用意すんのだって面倒なのによ」
 つまりこの者たちは、主犯の王弟殿下に繋がりのある者達から、手を汚す仕事を請け負
った者という事なのでしょう。
 やはりエルヴィーラ様も考えてたように、イルゼ姫と陛下を添わせようとしたという事
は動かし難いようですが、それは現王妃の排除に留まらない気がしました。
 何故ならこのように、都合が悪いとイルゼ姫をも消す選択を、簡単に決めるという事は、
最終的な目的は他にあるという事ではないでしょうか。
 それはやはり、王位の奪還なのかもしれません。
 王弟殿下は陛下が王家の血を受けていない事を知り、自分が王位に就く事を主張し、果
ては陛下の命を狙って失脚したのですから、その子息達もそういう考えを起こしても不思
議はありません。

「…ったく、汚い事ばっかして権威に執着するから小人物だってのよ…」
 エルヴィーラ様は低く小さい声でそう呟くと、大きくため息を吐きました。
「…おい、何て言った。お前?」
 今までか弱そうに怯えていた王妃の言葉に驚き、手を掴んでいた追っ手が声を荒げます。
 ですが、エルヴィーラ様は既にかなり頭に来ていたので、その態度を隠す事もなく、自
分を捕らえている無骨な手を思い切り叩きました。
「――っ、こいつっ!」
「痛いっつってんでしょ! とっとと放せってのよ! それに、あんたにお前やこいつ呼
ばわりされる覚えもないわよ!」
「何だ、怖くておかしくなったか?」
「おかしいのはあんた達の頭だけでたくさんだわ。それはそうと、あたし達の替え玉の死
体って、まさかもう誰かを手に掛けたんじゃないでしょうね? あんたの喋り方からする
と、ジャーデの人間じゃないみたいだけど、この国でそんな事をしてただで済むと思った
ら大間違いよ!」
「…この、優しくしてりゃあ付け上がりやがって…」
 言うが早いか、先ほどまでエルヴィーラ様の腕を掴んでいた、手を振り上げ殴り掛かっ
て来るのでした。
 それにひるむ様子もなく、エルヴィーラ様は先ほど地面に手を付いた時に握っておいた
砂を、その男の顔に叩き付けると、勢い良く駆け出すのでした。
 振り上げた手のせいで砂を防ぎ切れず、目と口に砂をまともに受けた男と、その男が邪
魔になり彼女を追うのが遅れたもう一人は、ややスタートが遅れたものの、すぐに体勢を
立て直して彼女を追って来ます。
 こんな僅差では、走り比べをするまでもなく、エルヴィーラ様に分はありません。
 特に今や完全に日は落ち、足元の視界は悪く、いつ転んでもおかしくない状況の上、多
少休息を取れたとはいえ、屋敷を脱出した時に比べれば、疲労の差は歴然です。
 ですがそれでも、彼女は走る事をやめません。
 何故ならそれは、このまま陛下と二度と会えないなんて恐ろしい事を回避するため。
 そしてもう一つ、彼女は信じて疑わない事があるからです。

――絶対、絶対にソウが助けに来てくれる――

続く