【夜の訪問者】


「…またお茶会ですか?」

 仕事中、急にエルヴィーラ様の部屋へと呼ばれたローランの声は、
初回のお茶会を陛下から聞いた時よりも苦い響きを含んでいました。

「うん、でもね、今回はちょっと特別なの」

 そう言うエルヴィーラ様の顔は、こういった提案をするに似つか
わしくない陰りを持っています。
 そしてその表情から出るにふさわしい、神妙な言葉を紡いだので
す。

「…あのね、実は…、マリルがジラルディーノに戻る事になったの
よ」

 その言葉の響きからは、安易な『里帰り』などという状況では無
いというのが分かります。

――『特別』な『帰郷』――

 幾通りかの予想のうち、彼は真っ先に思い付いた事がありました。

「…それは、おめでたい事ですか?」

 ローランの一言に、驚いたのはエルヴィーラ様の方でした。

「え…、あ、うん。…………分かった?」
「…ええ、まあ」

 エルヴィーラ様はローランの表情を窺います。
 ですが、眉や瞳、そして声色の、どれを取っても普段の彼との違
いが見つけられないようでした。
 それにいささか拍子抜けしつつも、話し始めたのは自分なので、
彼女は話を続けて行きます。

「…ええ、そうなの。例のいいなずけの相手がね、父親の跡を継ぐ
らしくって…。で、どうせなら結婚した方が都合が良いって事にな
ったようなのよ」

 女性の意思を無視した『都合』というものに、エルヴィーラ様は
憤懣やるかたないようでありしたが、世間一般で、それは極めて普
通の考えでした。
 大人の社会では、成人したとはいえ、妻を娶っていない者は、ま
だ半人前の扱いを受けるのです。
 それは陛下の王位継承にも言えた事なので、感情では反発してい
ても、エルヴィーラ様もその理解は出来ているのでしょう。

「…まあ、確かにおめでたい事なのよね。…でも、あたしがあんな
事言っちゃったから、二人にはイヤな思いさせちゃったなあって…。
つくづく今度の事は反省したわ。本当にゴメンね、ローラン」
「…いいえ、俺は別に」
「…そう? そう言ってもらえると、気が軽いわ」

 そう言いながらも、まだ彼女の顔には陰りが拭いきれません。

「…でね、最初の話に戻るんだけど、お茶会というか、お別れ会み
たいなのを開こうと思ってるの。だから、一応ローランにも声を掛
けるけど、今度は無理に誘わないわ。でも、どうかしら? これが
最後かもしれないし…」

 エルヴィーラ様の態度はあくまでも真摯でした。
 そんな態度を見たローランは、目線を下げ、少し考えてから答え
るのでした。

「…いえ、やっぱり遠慮させて頂きます。申し訳ありませんが、エ
ルヴィーラ様からよろしく言って下さい」




 エルヴィーラ様の部屋から退出した後、ローランは再び陛下の元
に戻っていました。
 相変わらずソツのない仕事振りで体を動かしていると、あっとい
う間に仕事納めの時刻がやって来ます。
 部下に終了報告や明日の日程の説明を終え、全員を見送った後、
彼も執務室を退室しようとした時です。

「あ、ローラン」

 ドアに向かったローランを、陛下が不意に呼び止めました。

「なんでしょう?」

 振り返った彼を、陛下の穏やかな、でも何故か心配そうな瞳が覗
き込みます。

「…いや、ちょっと、顔色が悪いかなあって」
「…え?」

 ローランはその言葉に心臓を掴まれた気がしました。
 もちろんそれを表情に出す彼ではありませんが、相手は何と言っ
ても人の心の機微を見抜くのに長けた陛下です。
 ローランとは言え、心を見透かされてないとは限りません。

 ですが、言った本人は、表情を見て納得したのか、安心した顔で
言いました。

「…うん、気のせいだったみたいだ。今日もお疲れ様。ゆっくり休
んでよ」
「……はい。では、失礼します」

 そんなやり取りの後、執務室から出たローランは、緊張の糸が解
け、口から大きく息を吐き出しました。
 そして何かに追われるように、自室へと急ぐのでした。



 執務室から自室に戻ると、ローランは靴も脱がずにそのままベッ
ドに倒れ込みました。
 マットに顔を突っ伏し、固く目を閉じると、今日一日の疲労感が
襲って来ます。
 それが仕事の疲労でない事は、本人が一番良く分かっていました。

 そしてやはり、頭に浮かぶのはマリルの事です。

 確かに今も、彼女にそういう好意を持っているのか、自分では確
信が持てません。
 ですが、極力人に深く係わらないよう生きて来たローランにとっ
て、こんなに親しく話した相手は、陛下とエルヴィーラ様を除いて、
マリルしかいなかった事は、動かし難い事実でもありました。

 こうなっては仕方ありません。
 ローランは思考を進めるためという大義名分をつけ、『自分はマ
リルを恋愛対象として見ている』という大前提を受け入れる事にし
ました。

 だとしても、だったらどうしたら良かったのでしょう。

 その少女の口から『いいなずけ』という言葉が出た時は、少々驚
いたものの、現実感を伴うものではありませんでした。
 それよりもその話を聞いた時は、マリルと自分の生い立ちの違い
を再認識し、その事に気を取られてしまっていたからです。

 そもそもマリルの外見からは、どうしても『結婚』の二文字は想
像し難いものでした。
 ですから今考えなくても、時間が解決するかもしれないと高を括
ってしまったのです。
 そしてそれは、自分の劣等感からの逃げでもありました。


 だからまさか、こんなに早く現実となって耳に入るとは!


 ローランは今までの自分の行動にのっとり、エルヴィーラ様には
本心を見せませんでした。
 本心と言っても、自分でも良く分かってはいないのですが、とに
かく動揺を外に漏らす事だけは避けたのです。
 この時ばかりは、幼少時の訓練を有り難く思いましたが、よくよ
く考えてみれば、それが本当に良かったのか判別がつかなくなって
来ました。

 あの時素直に心を吐露していれば、エルヴィーラ様の事なので、
お節介分がたっぷり加味されてはいるものの、きっと熱心に相談に
のってくれたでしょう。
 それとも、陛下が声を掛けた時にでも、その事を相談してみるべ
きだったのかもしれません。

 ですが、そのどれもを彼自身が選択しなかったのです。


 ローランは首を横に巡らせると、テーブルの上に置いた、粗い布
地の袋を見ました。
 それはマリルを避けていたために返しそびれていた、あの日料理
が入っていた袋です。

 それをじっと見つめると、まだ湯気を立てていた豪快な料理が、
まざまざと蘇ります。


(――じゃあその相手は、あんな料理が、きっと暖かなまま口に入
るんだな…)

 素直にそれを食べる、顔の分からぬ相手に、彼は幾ばくかの嫉妬
心が起こっていました。
 ですが、その咎は誰にあるのでしょう。

 ですからローランは、行き場の無い考えを追い出すように、再び
まぶたを閉じるしかありませんでした。
 その時――

「――!」

 ローランは音もなく起き上がると、ドアの向こうへと耳を澄まし
ました。
 訓練された彼の鋭い耳は、常人よりも多くの音を拾います。
 他の臣下を差し置き、彼の自室が陛下の寝室の手前に配置されて
いるのは、卓越したこのような身体能力があるのを見込まれての事
でした。
 その耳が今正に、忍びつつこちらに向かって来る、足音を察知し
たのです。

 ローランは、にわかに緊張をみなぎらせると、手に剣を携え、素
早くドアへと移動しました。
 音の出ないようにノブを回し、いつでも開け放てるようにしなが
ら、様子を窺います。

 やって来る人数は一人、その歩みはどことなくおぼつかないよう
で、進んでは止まり、そしてまた進むといった状態で、なかなか側
までは辿りつきません。
 それに焦れながらも、ローランは息を殺し、足音で人物の分析を
してみます。
 足音の重さ、そして歩く時のパターン、果たして知っている人物
かどうか――

 すると彼は、この足音に覚えがあるのに気が付きました。
 さすがにローランでも、全ての知人の足音までが頭に入っている
訳ではありません。
 それはよほど親しいか、でなければ、彼が意識している人間に限
られて来るのです。

 ローランは既に確信を得ていました。

 足音は彼の部屋の少し前で、また逡巡するように止まりました。
 ローランがドアを開けたのは、それとほぼ同じ瞬間であったため、
そこにいた人物は正にその場に釘付けになってしまいました。

「…やっぱり」

 ローランがそう声に出しても、相手はまだ驚きのために声を出せ
ないようです。

「…こんな時間に何でこんな所に?」
「…!……、…っ」
「この先は陛下とエルヴィーラ様のご寝室だ。許可の無い者は進め
ない事くらい、君でも知っているだろう?」

 そう言って、ローランは彼の部屋から少し先に立っている、衛兵
に目線を動かします。
 彼らもこちらの物音に気が付いたようで、警戒をしているようで
す。
 ですが、その訪問者は、手に持った荷物を抱えたまま、声を失っ
たようにうつむくばかりでした。
 それを見てローランは、小さく息を吐くと言いました。

「…とりあえず、入って話そうか。マリル」

続く