【長い夜 その1】


 本来の小さな体を更に小さくしながら、マリルはやっと頷くと、
ローランに促され部屋に入りました。

 彼がドアを閉める時、彼女は一旦ドアを振り返り、完全に閉まる
様子を見て、体に緊張を走らせたのが分かりました。
 それを見たローランは、その緊張が何から来るものなのかを考え
ましたが、良くない考えに行き着いたため、それを振り払ってテー
ブルに向かおうとしました。

 ですが、彼もふと、この部屋には数える程の人間しか、自分から
招き入れた事が無いのを思い出しました。

 その希少な人物は、彼の大事な友人兼、現在は父親代わりの称号
を持つソウ陛下、そして母親に名乗りを上げたエルヴィーラ様だけ
だったのです。

 それはそのはずで、イレギュラーな事をして来るエルヴィーラ様
を除き、身分の高い方との話であれば、失礼が無いよう、その方の
元に行きますし、その逆で、部下に話があったとしても、自分の部
屋へ通す必要はありません。

 よくよく考えてみれば、今だって、部屋へと通さずとも、そうい
った場所へ移動すれば良かったはずでした。
 それにもし、陛下とエルヴィーラ様を除く他の人間なら、例え女
性であったとしても、迷わずそうしていたに違い無いと思ってしま
うのです。

 つまり、彼がすんなりと部屋に通す判断を下してしまう、非常に
限られている人物の中に、このマリルも入ってしまっているという
事なのでした。
 そう考えると、またもマリルと他の人間との差が開きそうな予感
に、ローランはしばし困惑をしてしまいました。

 ですが、招き入れたのは自分で、今更『入るな』とは言えません。
 大体、マリルと係わってからというもの、このように予測の付か
ない事が多すぎるのです。
 テーブルに歩を進めながら、ローランは一体これからどうなるの
か、自分でも分からない不安に襲われるのでした。


 ローランがそんな事を今更ながら考えている時、マリルはテーブ
ルの上に置いてある自分の袋が目に入っていました。

 それはきれいに畳まれて、テーブルの中央に置いてあります。
 彼女はそれから目を放す事が出来ませんでした。

「…とりあえず、座って話そうか」

 そんなローランの声にはっとし、おずおずとテーブルに近付きま
す。
 ローランが目の前の椅子に着席すると、よやく椅子の背に手を掛
けましたが、それからまた動きが止まってしまいます。

「マリル?」

 不審そうにローランが声を掛けると、マリルは椅子から手を離し、
小さく声を出しました。

「…ごめんなさい。…やっぱり、…帰ります。…ごめんなさい」

 そう言い切らないうちに、既に彼女の足はドアへと向きます。
 そして、マリルの足が前に一歩を踏み出した時です。

 その小さな背中が、不意に二重にぶれたと思うと、その動きがま
るで静止画のようにローランの目にゆっくりと入り込んで来ました。
 すると彼は、この光景の既視感に突き動かされ、頭は理解不能で
呆然としているにも拘らず、彼の体はそれに即座に反応し、彼女の
手を掴みます。

「――!」

 そんなローランの動きが予測出来ないマリルは、自分が動こうと
した強さ分の反動で、手に持っていた荷物を取り落としてしまいま
した。

「あっ!」
「!」

 ですが、それも床に落ちる寸前に、彼のもう一方の手でキャッチ
されます。
 二人は同時に息を吐きました。

 ローランはそれを持ち上げながら、この見た目より重く、柔らか
で温かい物の正体が、ついこないだ触った物と似通っている事に気
が付きました。
 そして決定的な相似は、その中から漏れる美味しそうな匂い――

 するとローランは、自分の顔が見る見る赤くなるのが分かるので
す。

「…これ…、俺に――?」

 安堵の色を浮かべていたマリルは、ローランに荷物の正体が分か
ってしまったのを見ると、彼以上に顔を赤らめ、訳の分からない事
を言い出しました。

「…ち、ちちち違います! こ、これは、だから違います! じ、
じじ自分のです! たまたま、持ってただけなんです! 道に迷っ
たんです! わわわわ私方向音痴なんで、このお城広いから! っ
ていうか、私ここに来てまだ浅いから、だから、迷ったんです! 
そ、そう、迷ったんです!」

 そんな事を必死で言いながら、ローランの手から荷物を取り戻そ
うとしました。
 しかし、片手を掴まれている状態で、彼の手に持った荷物を掴も
うとしたので、二人の密着度はマックスに達してしまいました。
 外から誰かが入って来てそれを見たら、まるで二人が抱き合って
いるように見えるかもしれません。
 その位に、小さなマリルの体が、ローランの胸元に納まってしま
っていたのです。

 荷物に集中していた彼女がそれに気が付いたのは、ローランより
も一瞬遅く、ですがその驚きは彼の数倍勝っていたので、それが口
を突いて悲鳴となろうとしました。
 それに慌てたのはローランで、この状態で大きな声を出されれば、
警戒をしていた警備の部下がやって来てしまうかもしれません。

 躊躇の暇無く、ローランは彼女の頭を抱え、自分の胸に押しつけ
ました。

「…ふ!」

 さっきのがニアミスならば、今度は正真正銘に抱き合ってしまっ
ている訳ですから、マリルの驚愕は先程の比ではありません。

 ですが、幸いな事に、あまりにも驚きが大きいと声も出せないと
は本当のようで、マリルの動きはぴたりと止まりました。
 ローランはそのまましばらく落ち着くまでと、その状態を維持し
ようとしましたが、緊急事態が去ると、今の二人の状態は彼であっ
ても動揺しない訳には行きませんでした。
 それに気が付くと、すぐにマリルの体を自分から引きはがします。

「ごっ、ごめん! こ、声が外に聞こえるとあれだと…、いや、と
っさで他に思いつかなかった…」

 そう弁明しながら彼女を見ると、彼女は目を閉じ、ぐったりとう
なだれているではありませんか。

「マ、…マリル? おい、ちょっと、…マリル!」


 ゆさゆさと体を揺すりますが、その呼び掛けに反応がありません。
 どうやら先程の抱擁で、彼女の理性の限界点を超えてしまい、す
っかり気を失ってしまったようでした。

「…えええ? こんな事で? …って、本当に?」

 ローランは今まで生きてきた中で、生き死にに係る不測の事態は
慣れたものでしたが、こんな時にどうするかは全くの初心なため、
しばし、その場で彼女を支えたまま立ち尽くしてしまいました。


 やはり不安は的中してしまったようです。
 なのに何故か不思議な事に、彼の心は少し軽くなっているのです。


 ローランは一つ息を吐くと、とりあえずここが自分の部屋だった
事に感謝し、自分のベッドへ彼女を運ぶ事にしました。

 そして横たわる彼女を見ながら、さっき自分が感じた既視感の事
を考えるのでした。

続く