【長い夜 その2】



(…気持ちいい)


 額にひんやりとした感触がありました。
 ジラルディーノに比べ、ジャーデは平均してかなり暖かい国なの
ですが、今日は特別暑いと思っていた矢先、誰かが寝ている自分の
頭を冷やしてくれたようです。

(――一体誰が?)

 ローランに食事に誘われたのが判明した後、仲間達の態度は一様
によそよそしくなっていました。
 だからこんな風に、優しくしてくれる人物に心当たりがありませ
ん。

 その気持ち良さに、マリルは泣き出しそうになりました。
 今この状況で、自分を気遣ってくれる人物がいる事が嬉しかった
のです。

 それ程に最近の彼女は、一人で煮詰まってしまっていました。
 それは彼との食事の後に、立て続けに起こった事柄が原因だった
のです。


 まずは『いいなずけ』の存在で、アンナに釘を刺されてしまった
事です。

 確かにその時彼女の目の前は真っ暗になりましたが、もしあの時
既に自分が彼を意識していて、『いいなずけ』の事を言わなかった
ら、後々言えなかった事で悩んだ可能性があると思いました。
 ならば、それは隠さず言ってしまった方が良かったと考え直した
ので、その事自体はポジティブに捉え、逆に良かったと思いました。


 ですがすぐその後、彼女がローランを意識するきっかけを与えた
エルヴィーラ様の言葉が、彼女の口から撤回されてしまったのです。
 しかも、最悪な事に、彼から言われたという事ではありません
か!


 マリルは再び目の前が真っ暗になる気がしました。

 しかし、撤回されたからと言っても、気持ちというものはなかな
か後戻り出来るものではありません。
 依然としてローランの事を思えば胸は温かくなりますし、彼が自
分を何とも思っていないと考えると、涙が出そうになるのです。

 そんな様子が哀れを誘ったのか、それとも自分の言葉に責任を感
じているのか分かりませんが、エルヴィーラ様は彼の言葉をそのま
ま伝えてくれました。

「マリルの事は、まだ良く分からないっていうのが本当なんですっ
て。…でも、気にはなるって言ってたわよ! 一緒に食事したら楽
しいって! 気安く話せるし! …でも、気安いのは、お互い恋愛
感情とか無いからなんじゃないかってのも言ってたわ…」

 これを聞いて、マリルは少しだけ希望を持てるような気がしまし
た。
 何故なら、彼女自身も全く同じように考えていたからです。
 でも、最後の部分だけは、彼女の方が急速に気持ちが進んでいる
ような気がしました。

 ならば、これから少しでも仲良くなれればと、マリルは食事のお
礼をする事を考えたのです。
 それがあの豪快な料理に繋がるのですが、彼女としては、自分が
もらった時に一番嬉しい物を贈ったつもりでした。

 その後ローランから、何も言って来る事は無く、確かに気になっ
ていたものの、取りあえずは自分の気持ちとして、送れた事で満足
していました。


 そんな矢先、エルヴィーラ様に呼ばれ、『いいなずけとの婚姻が
早まった』という知らせが届いたと告げられたのです。

 こんなに矢継ぎ早に事が起こっては、彼女はもう呆然とするしか
ありません。

 つい先日、実家から色々な物を送ってよこした時、手紙も添えて
あったというのに、そんな事は全く触れていませんでした。
 姉の祝言がバタバタと決まった記憶があったマリルでも、まさか
自分の身に、間を置かずそんな事が決まるとは思いません。
 その上、まだはっきり日にちは決まっていないという事ですが、
祝言が近々なのは動かし難いと言われてしまったのです。

 何故『今』なのか?
 マリルは悩みました。

 このまま行けば、ジラルディーノに戻って、顔も見た事の無い相
手と結婚しなければなりません。
 確かに今までの自分なら問題はありませんでした。
 ですが、今そんな事を聞けば、真っ先にローランの顔が浮かんで
来てしまうのです。

 これは疑いようもありません。
 マリルは『いいなずけ』よりも、恋愛感情の観点で、彼の事が好
きになっているのです。

 ですが――

 マリルはローランの部屋のテーブルの上にあった、自分の袋を思
い出し、泣き出しそうになりました。

 もうあれから随分の日にちが経っています。
 袋は折り畳めば小さくなって持ち歩けるものですから、返そうと
思えばもっと早くにマリルの手元に戻って来ていた物では無いでし
ょうか。

 ぽつんと置かれた袋の意味――、それはローランが自分に会う事
を逡巡しているという事でしょう。


 つまり、彼には『マリルの気持ちが迷惑』だという事です。


 そんな事はもっと早くに気付いても良かった事なのかもしれませ
ん。
 でも、疎い自分はここに来てやっと気が付き、その上またこんな
ものを持って現れてしまったのです。

 マリルはそれに気が付くと、もういてもたってもいられなくなり
ました。

 早く、早く自分の部屋に帰らないと。
 そしてこのまま故郷に戻って全て終わらせてしまえば良いのです。


 でもそうなると、二度と――


 マリルはとうとう我慢が出来ず、涙を流しました。




「…リル。…マリル」

 誰かが自分を呼んでいます。

(…誰?)

 マリルは薄く瞳を開けました。
 するとそこには、心配そうに彼女を覗き込む、ローランの顔があ
りました。

「…良かった。気が付いた」

 そう言って、ローランは見る見る安堵した笑顔を見せました。

 目を覚ましたばかりの頭と、涙でぼやけた視界が現実感を喪失さ
せ、マリルはそのきれいな微笑みをぼうっと眺めました。

「…驚いたよ。急に気を失って…、そしたら今度は泣き出すし…」

 ローランは本当に安堵したようで、頭を下げると、自分の膝に向
かって大きくため息を吐きました。

 そう言われ、マリルは自分の周囲を見渡します。
 自分が寝ているのはベッドのようですが、ここはやっと慣れて来
た、自分の部屋では無い事が分かりました。
 でも、マリルはこの部屋を全く知らない訳では無いのが分かり、
何故だろうと考えます。
 そしてふと、記憶にあるテーブルを見ると、そこには覚えのある
荷物が目に入りました。

 それを目にした瞬間、彼女の時間が繋がりました。

 反射で勢い良く体を起こすと、それに驚いてローランも顔を上げ
ます。
 口から悲鳴が飛び出そうとした時、頭にのせてあったタオルが彼
女の膝の上に落ちました。

「――!」

 マリルの悲鳴はそれに吸い取られるように、止まりす。
 そして、目の前で彼女を心配そうに眺めるローランを見ました。

(…これ、ローランさんだったんだ…)

 そう思うと、またマリルの目から涙がこぼれ落ちました。
 すると、ローランの顔が辛そうに歪みます。

「何で…俺を見て泣くの?」


 マリルははっとして目線を逸らしました。
 こんな事を彼に説明出来る訳がありません。

「…ご、ごめん…なさい。何でも…、何でもないんです。…本当
に」

 そう言って、彼女はゴシゴシと自分の目を擦りました。
 そして、早くこの部屋から出て行くため、気丈にローランに振舞
う決心をしたのです。
 マリルは小さく息を吸ってはっきりと言いました。

「…すみません。取り乱してしまって。私がここに来たのは、本当
にさっき言った通り、道に迷ったんです。お部屋でお休みの所、お
邪魔して本当にすみませんでした」


 さすがに目線をローランに合わす事は出来ませんでしたが、自分
でも普通に言えたと思いました。
 そして、ベッドの上に落ちたタオルに手を伸ばし、それを渡そう
とローランに向き直ったのです。
 ところが――

「あの料理は?」

 そう言ったローランの顔に、もう笑顔はありませんでした。

続く