【長い夜 その4】


「え…?」

 ローランの言葉に、マリルは一瞬何の事を言われたのか分かりま
せんでした。
 そう聞き返されて初めて、自分の言葉が足りないのに気が付いた
ように、彼は説明を補足しました。

「…あ、ああ、ごめん。この間の料理…。温かいうちに食べれなか
ったんだけど、すごく、うまいって思った…」
「……」

 彼の話したい事とはこの事だったのでしょうか。
 ローランからの言葉は嬉しいはずなのに、彼女の心には、引っか
かっているものがあって、素直に喜ぶ事が出来ません。
 それは、先程自分が置いた、その料理を包んでいた袋で、今はマ
リルの目の前にありました。
 それを見ているのが分かったのでしょう、ローランはまた少し時
間を空けると、ぽつぽつと言葉を繋げるのでした。

「…うまいって思ったのは本当だよ。…でも、俺は…、俺自身の事
が色々あって…。その…、それを整理出来ないまま君に会うと…。
何か騙しているみたいで…」

『騙す』という不穏な単語に驚いて、マリルは目を見開いてしまい
ました。
 すると当のローランも、自分の言葉には納得が行かなかったよう
で、すぐに訂正するのでした。

「いや、その、騙すとは違うか。…隠す…、うん、隠してる…から、
でも、それは…言ったら、どうなるのかって、…どんどん…、考え
ちゃって…」

『騙す』には及ばずとも、『隠す』というのも、かなり不穏には違
いありません。
 ですがそれよりも、彼の言葉は、自問自答から出てくる単語と同
じで、聞いている人間には意味が分かりません。
 困ったマリルはローランの顔を窺います。

「…だったら、会わない方が良いって考えてた……きっと…、今度
会ったら、俺は…、隠せない…と思ったし…。…でも…って、ああ、
もう、何言ってるのか分からないな…」

 ところが彼は、こちらの視線にも気が付かないほど真剣そのもの
で、それ故に、うまく説明できない事に、彼自身が焦れてしまった
ようです。
 彼は尚も説明をしようと考えているようですが、うまくまとまら
ないのか、次の言葉はなかなか出て来ませんでした。

 その様子を見ていたマリルは、自分をこの部屋に留めた時思った、
『何故』という思いが、再び湧き上がってくるのを感じました。
 マリルは彼にとって、『彼女』でも『将来を約束した女性』でも
無いのです。
 なのに『何故』、彼はこんなに必死に説明をしようとするのでし
ょう。

 マリルが知らないだけで、彼は誰にでも律儀に誤解を解く性格な
のでしょうか。
 確かに、マリルの行動から、自分に好意を寄せているのが分かり、
それで無下に出来なくなったというのがあるのかもしれません。
 ですが、こんな態度に期待しないでいられるほど、マリルの人生
経験は豊富ではないのです。

 マリルは知りたくなってしまいました。
 それが『希望』か『絶望』かは分かりません。
 でも、それのどちらでも、彼を知る事が出来るようになるには違
いないと思ったのでした。

 マリルは立ち上がりました。
 すぐにローランがそれを目で追います。
 彼女が話に見切りをつけ、出て行ってしまうと思っているらしく、
その眼差しには何ともいえない色が浮かんでいます。



(――早くこっちへいらっしゃい。大丈夫、待ってるから)



 マリルは一瞬、過去に弟妹に手を差し出した、その先にあった瞳
と、彼の瞳が重なる気がしました。

「…お茶を、入れましょう」
「…え?」
「お話…、ちゃんと聞きますから。だから全部、話して下さい」
「…でも…、俺うまく説明…」
「焦らなければ大丈夫です! それに私、弟とか妹の意味不明な話
を聞くので慣れてます! あの子たちもなかなか話したい事をうま
く伝えられないことが多いんですけど、でも、そういう時は時間を
かけて聞いてあげるんです。そして、こういう時は、温かいお茶と
かを飲みながら話すと良いんです」
「意味不明…はそうかもだけど、お、…おとうと?」
「とりあえずキッチンに行きましょう」

 そう言うと、マリルはローランを後に、キッチンへと向かいます。

 息子の次は弟。
 ローランは、自分がますます分からなくなりながらも、この年下
の姉にお茶の用意を手伝わされる事になったようです。






 テーブルの上には、お茶と、マリルが先程持って来た料理が並べ
られていました。
 そして、主食のパンと、簡単なサラダ。

「…ちょっと以外でした」
「? 何が?」

 せっかく持って来てくれたのだからと、ローランは、お茶と一緒
に彼女の料理を食べようと提案しました。
 ローランの部屋は親衛隊長の部屋に見合ったサイズで、マリルの
部屋よりもやや大きな間取りでした。
 その広さに合わせたキッチンは、彼女の部屋のものよりも、大き
くゆとりがあり、そこには数は多くないものの、調理をするのに十
分な調理器具が、きれいに並べられていたのです。

「ローランさんって、家事とか全然出来ないと思っていたんです」
「…それって…。俺ってどういうイメージ?」

 そう言うと、二人は笑い合いました。
 つい数十分前までは、言い合いに近い緊張感があったのが信じら
れない位、二人の間の雰囲気は落ち着いていました。
 半ば無理矢理にキッチンに並んだのが功を奏したようで、あれこ
れと聞きながら、一緒に支度をするうち、あっという間に二人の
ペースが戻ってしまったのです。

「…そうですねー、だから、お茶を飲みたくてもお湯の沸かし方が
分からない感じ? だから、手早くサラダを作っちゃうようには思
えませんでした」
「サラダ作りなんか家事のうちには入らないと思うんだけど…。で
も何それ? どうしてそんな風に思うんだよ? 俺、衣食住には困
らない自信あるのに!」
「だからー、イメージですよ。食事は全部外食で、部屋は天蓋付き
のベッドでー、家具は高価ですっごい飾りが付いてるの!」

 言っているマリル本人が赤くなるような、少女全開の妄想を聞い
て呆れるローランでしたが、彼女の仲間達が持つ、自分のイメージ
の一端を見た気がして、空恐ろしくなって来るのでした。

「…ありえねー…、おとぎ話のお姫様か、俺は! そんなんじゃ生
活出来ませんー」

 そう言いながら、ローランはマリルの料理を口に運びます。

 彼女が緊張してそれを見ているのがわかると、ローランは柔らか
く笑いながら、『うまい』と言って、もう一口食べました。
 それに照れながら、マリルも彼の作ったサラダを口に入れます。

 しゃきしゃき野菜に、酸味がきいてさっぱりする、ローラン特製
のドレッシングをかけたこのサラダは、この暑い国には何てマッチ
しているのでしょう。
 彼女もその美味しさに、『うんうん』と頷いて合図すると、ロー
ランは『当然』といったような涼しい顔をします。

「うーん、だからー、その生活感がローランさんには感じられなか
ったって言ってるんですー」
「ああ、マリルは生活感たっぷりだよな」
「え? ええ? そうですか? どこが?」
「初めに持って来てくれた料理も、この料理も、すごく家庭的! 
生活感に溢れてる!」
「う! そ、それは! だって私、家で覚えたのって、普通にご飯
になる料理しかないんですもん! お菓子とかは、材料が高いです
し…」
「えー、良いんだよ。これは誉めてるんだから。実践的だし。俺の
料理も実践的だとは思うけど、その家庭的な感じは絶対出せないも
ん」
「え? どうしてですか?」

 マリルがローランの顔を見上げます。
 ローランはまた一口、マリルの料理を口に入れると、ゆっくりと
飲み込んでから言いました。

「…俺は、家族と暮らした事が無いから」
「え…?」

 マリルは思い出していました。

 それはついこの間、ローランとの食事の帰り、何気なく彼に『家
族の事』を尋ねてしまったのを。
 すると、彼もそれに気が付いたのか、口を開きます。

「…あれは、俺が気を抜いて返答したから、マリルのせいじゃない
よ。それに、俺もちゃんと答えなかったし」
「…いえ、やっぱり…、ごめんなさい。そうですよね。私も、そう
いう所ちゃんと考えるべきでした」

 ですが、申し訳なさそうなマリルを尻目に、ローランはこんな軽
口を叩くのでした。

「でも、そーゆー気配りって、君らしくない気がする」
「! それはどういう意味ですか? 私だって、一応言って良い事
と悪い事の区別はつけますよ! ただ、後になってからじゃないと
気が付かないだけで…」
「ああ、そんな感じ!」

 そう言って、ローランはにっこりと笑います。
 そんな顔をされては、マリルは顔を赤らめる以外に、出来る事は
ありません。
 しかも、それは自分が落ち込むのを回避するためなのですから、
文句も言えずに頬を膨らませるだけにしました。

 そんな彼女を見て、ローランはゆっくりと笑みを解いて行きます。
 そして少しの沈黙の後――

「…別に、本当に良いんだ、それは…。俺が本当に隠したかったの
は…、その後の方だから…」

 彼の態度が変化したのが分かったマリルは、緊張が足元から這い
上がって来るような感覚に囚われました。

「…その後?」

 マリルが神妙な声音で反すうすると、ローランは再び一呼吸置き、
こう言ったのです。

「…俺は、家族と暮らした事が無いっていうか、孤児なんだよ。そ
れも、まともな育ち方をして来てない。それを誰にも知られたくな
かったんだ」

続く