【長い夜 その5】


『まともな育ち方』
 それは自分の言った言葉のはずなのに、何故かローランは不機嫌
そうな様子でした。

 マリルは何と言って良いか分からず、頭をくるくると働かせます。
 不機嫌なのは、そう言いながらも彼が納得していないからだと分
かりました。

 では何故そんな表現を使ったのでしょう。

 それはごく一般的な家庭に生まれ、その家族に囲まれて育った自
分に説明するために違いありません。
 彼が自分に話す事を逡巡しているのも、その点なのでしょうか。

 そんな事を考えていると、諦めたように大きく息を吐き、再び
ローランの口が開きました。


「…マリルは俺の顔をどう思う?」
「は?」

 先程の話からかけ離れた、そんな質問がどこからやって来たのか
分からず、マリルは一瞬口ごもりました。
 ですがローランの表情が、穏やかになってはいるものの、軽口を
言っている雰囲気ではないのを見て取ると、少し考え、正直に答え
る事にしました。

「…それは…、きれいだと…思います」

 それを聞くとローランは、マリルといる時の柔らかい笑みとは違
った、完璧な微笑をしてみせながら言うのです。

「では、こんなしゃべり方をすれば、どこかの貴族の子息に見えま
すか?」
「え…、あ、それは…」

 それは正に近寄りがたい、高貴な表情で、貴族の子息どころか、
本人が主張すれば、『王子』でも通ってしまいそうだとマリルは思
いました。
 そう考えると、にわかに体が強張り、緊張して上手く声が出せま
せん。

「…見、見えます…」

 ですから、そう言うのが精一杯で、彼女は堪らず、視線をローラ
ンから外してしまうのでした。
 すると、次にローランから出たのは、言葉の形を取った、温度の
無い感情でした。


「俺を引き取って育てた奴も、そう思って俺に決めたって言ってた
よ」


 その冷気に驚き、マリルの瞳がローランに吸い寄せられます。
 彼の瞳はマリルの方を見ていましたが、それは彼女を透過して、
彼の過去に向いているのようでした。

 ローランが次にひも解く彼の過去――、それはマリルにとって、
衝撃を受けるものだったのです。

「…俺は、孤児だった…。…そして、捨てられたり、さらって来ら
れた子供達を売買している所に、まだ乳飲み子だった頃に売られて
たそうだ…。…何で…、そこにいたのか、その経緯は分からないし、
今となってはそれを知る事も出来ないけど…。それで…、そいつが
選んだ理由ってのが、俺の顔が、そいつの仕事に利用出来そうだっ
たからなんだとさ…」
「――!」

 そういった怪しい場所が、どこかにあるという事実は、彼女であ
っても知ってはいました。
 ですがそれは、マリルの生活にとって、物語と同じように遠い世
界で、現実感というものが湧いて来ません。

 そして、そういった暗い組織と、目の前の美しい青年との関係は、
本人から聞かなければ、想像だに出来ない事でしょう。
 しかし、繋がらないからこそ、それが知れた時の衝撃は大きいの
かもしれません。


――だから誰にも知られたくなった?


 けれどマリルは、『まともな育ち方』と言った言葉と、あの不機
嫌な態度が生まれた原因が、この事だけとは考えられませんでした。
 彼を養育するのが『利用目的』なら、その『価値』は――?

 そう考えたマリルは、ローランの口から出る言葉に神経を集中さ
せていました。
 ところが、またもや彼の口から出た言葉は、違う所から飛んで来
たのです。

「…マリルは…、いいなずけと結婚するためにジラルディーノに帰
るって、エルヴィーラ様に聞いた」

 その言葉を聞いたマリルは、頭から血の気が引いて行くような感
覚に囚われました。
 自分に婚約が早まった話を伝えて来たのはエルヴィーラ様なので、
それを親密な彼に伝えていても、おかしくないのかもしれません。
 ですがマリルは、この事に関してだけは、自分の主人を恨めしく
思ってしまう気持ちを抑えられませんでした。

 でも、何故今彼は、その事を言い出したのでしょう?
 今までの流れから言って、彼は彼なりの順を追って話しているは
ずです。
 自分の『婚約』と、彼の『生い立ち』、それは一見なんの繋がり
も無いのに。

 そんな事を考え出した彼女に、耳を疑うような言葉が飛び込んで
来ました。

「…マリルはその相手の事が好きなんだろ?」

 驚きのあまり、彼女はローランの顔を凝視します。
 するとローランは、その視線をどう取ったのか、先程の完璧な微
笑をした青年からは想像出来ない、無防備な少年のように目を逸ら
します。
 ですがそれでも、言いたい事を止められないように、苦しげに言
い募るのでした。

「…将来を誓い合ったんだから…、やっぱり、…すごく…好きなん
だろ? …だから、君は…、故郷に帰って結婚するの…、嬉しい…
んじゃないのか?」

 それを聞いたマリルは、未だローランが言いたい事の全貌は分か
らないものの、自分とエルヴィーラ様の二人が、『いいなずけ』に
関して、重要な説明を欠いていた事に気が付きました。
 こうなっては黙ってはいられません。
 マリルはローランを待たず、慌てて言葉を差し挟んで言いました。

「ちょ、ちょっと、待って下さい! 『将来を誓い合った』って所
は違います! いえ、確かにそうはなっているかもしれないんです
が、『好き』だからとか、そういうのじゃないですよ! だって私、
その相手と会った事ないですから! いいなずけは、私の親が決め
た相手なんです! 私の意志とは関係ないんです!」

 そう聞くと、ローランの顔に驚きの色が浮かびます。

「ええ? だってあの時、マリルが自分から、『いいなずけ』がい
るって自慢したじゃないか!」
「だ、だって、それは! ローランさんが私を子供扱いするから、
そういうふうに言えば、ちゃんと大人の女性だって認めてくれるだ
ろうと思ったんですよ!」

 そんな理由に驚いたのか、彼はしばし、言葉を発する事が出来な
いようでした。
 ですが、徐々に顔に赤みが差して来ると、堰を切ったように言う
のです。

「な、何だよそれ! 俺はてっきり、恋人がいるって牽制されたん
だと思ってたよ!」

 それを聞き、今度呆然としたのは彼女の方でした。
 しかしマリルもすぐに体勢を立て直し、ローランと同じく頬を紅
潮させて言い返すのでした。

「け、牽制? 何ですかそれ?」
「だから――、昼ご飯位は誘われるけど、そういった気は無いって
いう――」
「そ、そんな事! そこまで考えてませんよ! わ、私がそーゆー
事出来るように見えるんですか?」
「そ、それは――、見えないけど…」

 では、彼ずっとこのような誤解をし続けていたのでしょうか。

「じゃ、じゃあ、私があの後持って行ったお礼を受け取った時、ど
う思ったんですか? 変だって思ったんじゃ…」

 どうやらそれは的を得ていたらしく、ローランの表情は曇って行
きます。

「…だから…、嬉しかったけど…、いろいろ…考えて…、複雑な気
持ちだった…」

 そう聞くと、マリルは体から力が抜けて行くような気がしました。
 今日この場が無ければ、お互い誤解を抱いたまま、二度と会えな
くなっていたのかもしれないのですから。

 マリルはその事を考え、恐ろしさで身を竦めました。

 そんなマリルを、ローランがじっと見つめます。
 それに気が付いたマリルも、彼を見ました。
 ですが、先程とは違い、彼が目線を外す事はありません。

 そうするうちに、彼は何かを伝えたそうに口を動かすのですが、
何かが足りずに言葉に出来ないようでした。
 マリルは、彼の目線が自分の先に向いているのに改めて気付くと、
戦っている相手は、やはり彼の過去なのだと感じるのでした。
 そんな彼を見ていたマリルの口から、自然に言葉が出ていました。

「…大丈夫。大丈夫ですから…」

 それは彼に向かってなのか、それとも自分に向かってなのかは分
かりません。
 いえ、それはきっと二人に向かってなのだと思いました。

 マリルは小さく深呼吸すると、居住まいを正して言いました。

「…話してください。私に話したいと思うなら、私は全部聞きます
から。…何を聞いても、きっと…、大丈夫です。…驚いても、私の
気持ちは…、きっと……変わりません!」

 それを聞いたローランの顔に、驚いたような、呆然としたような
表情が浮かびました。

 ですが、マリルの気持ちが伝わったのか、彼は瞳に温かさを取り
戻し、柔らかに微笑むと、ついに口を開きました。

続く