【長い夜 その6】


「…ありがとう」

 ですが、やっと取り戻した温もりも、そう言ううちに抜け落ちて、
すぐに表情が雲ってしまいます。

「…情けないよな…。そこまで言ってもらっても、俺はまだ話すの
が怖い」
「…ローランさん…」

 マリルはそんな表情に心掻き乱され、徐々に自分が無理強いをし
ているような気持ちになって来ました。
 自分に話そうというローランの気持ちが嬉しくて、話を聞く気に
なっていましたが、彼にとって、それは苦しい決断に違いありませ
ん。
 ならば今日でなくともと、考え出した途端、それを読み取った
ローランが、慌てて言うのです。

「いや、話す! …話したいんだ、本当は…、…きっと。……もち
ろん…、マリルが迷惑じゃなければなんだけど…。…その、気持ち
とか、時間とか…」
「…いいえ、私は良いんです。…でも、ローランさんが…」

 そうお互いを気遣い合い、二人は目線を交わします。
 ですが二人は、目に映る相手の表情が暗いため、何も声を掛け合
えず、ただ見詰め合うだけしか出来ません。
 ところが――

「……」

 二人の間にある緊張は、何故か逆の方に向いて行き、おかしなツ
ボに入ってしまったようです。
 そう、こんな状況だというのに、一瞬表情が緩んだと思った途端、
二人は同時に噴き出してしまうのでした。

「ぷ――――っ」

 さすがに夜も更けて来たので、二人は大きな声で笑うのを躊躇い、
お互い口に手をあてて堪えます。
 ですが、それがまたおかしくて、なかなか笑いを納める事が出来
ません。

「ぷ、ははは! な、なんで笑うんだよ!」
「ふふっ、ふふふ! や、だって、ローランさんが…!」

 そういうのがやっとで、二人はなるべくお互いを見ないように笑
いを鎮めます。
 そうしてひとしきり笑った後、先程の柔らかな笑みとは全く違う、
清々しい笑顔でローランはマリルに笑い掛けながら言いました。

「…なんか、悩んでんのもバカらしく思えて来たよ。やっぱマリル
はすげーなー」
「…それって、ほめてるんですか?」

 とは言うものの、彼の表情が明るくなったので、マリルもつられ
て笑いました。
 そして、さらりと言われた次の言葉を、思わず聞き逃しそうにな
るのでした。

「…だから俺はマリルの事が好きなんだろーな…」

(え――?)

 その言葉の意味が理解出来ず、マリルの思考は停止します。
 彼が言った『好き』がどんな意味の『好き』かなんていう問題で
は無く、今彼女の頭の辞書から、『好き』という箇所が丸々抜けて
しまった感覚。
 彼女はそれを探すべく、ものすごい速さで検索を掛け出しました。
 ところが言った当のローランは、告白したという自覚が無いよう
で、口元の笑みを小さくすると、悩む彼女に向かい、全く違う話題
を提供するのです。

「…さっき俺、マリルに婚約者の事を聞いただろ?」
「…え?」

 残念ながら、マリルの頭はそんなに器用ではないので、先程の言
葉と格闘している最中では、振られた言葉に対応し切れません。
 ですがローランは、お構い無しに話を進めてしまうため、彼女の
検索機能はそこでストップが掛かってしまいました。

「あれは、君が故郷に帰って、そいつと結婚する気があるなら…、
やっぱり話さない方が良いかと思って聞いたんだ」
「…えええ?」

 彼女がローランの顔を見ると、彼は落ち着いた笑みを浮かべ、静
かに言葉を続けます。

「君がここからいなくなるつもりだったら、わざわざ嫌われる必要
無いとも思ったし…。君だって嫌な思いをしなくて済むとか――、
まあ、平たく言うと逃げてたんだよな…」

 マリルは言葉を失いました。
 ですが、その前に自分がこの部屋を出て行こうとした時の、ロー
ランの必死さを思い出すと、その行動が、後に逃げるためとはとて
も考えられないと思いました。

「…でも、話そうとしてくれたから…、私をここに…、引き止めた
んでしょう?」

 その言葉にローランは、先程マリルが倒れていた時に考えていた
事を思い出しました。
 マリルが部屋を出て行こうとした時、彼は確かに、彼女の後姿に
既視感を感じていたのです。
 そしてその既視感の原因は、彼女の背中に重なった、ある人物の
幻影にありました。

「…そこまで考えてなかったよ。だって、…あれは…」

 その後姿は、彼女よりも更に一回り以上小さな少年――
 ローランはそれを思い出すと、じわじわと胸に痛みが走るのを感
じます。

「…君の姿が…、ソウと重なったから――」

 ローランの口にした名前は、それに聞き覚えがあるものの、マリ
ルには誰なのかが思い出せないといった風でした。
 それは当り前なのかもしれません。
 自分の主人、しかも国の元首を呼び捨てに出来る人間など、そう
そういるものでは無いのですから。

 彼もその事に気が付いたようで、『あー…、つまり、ソウっての
は、国王陛下の事で…』という説明を付け足しました。

 ですが、陛下の名前が出て来た事で、更に混乱してしまい、マリ
ルは顔をしかめてしまいます。
 それを見たローランは、今全てを話すのは、混迷を深めるだけだ
と感じ、取り合えず話した内容に関しての説明をする事にしたので
す。

「えーと、…あいつとも以前に、絶望的な仲違いをしそうになった
事があったんだよ…。…でも、俺はその時、言わなくちゃならない
言葉をあいつに言わなかった…。…でも、あいつはものすごく鋭い
から、言わなくても俺の気持ちを察してくれてて、そのお陰で今の
俺があるんだけど…、俺はそれをずっと気にしてたみたいなんだな
…」
「…言わなくちゃいけない…言葉?」
「うん…。…俺は…、初めから、あいつを裏切ってた…。…だから
…、それを謝る事――」
「……」
「でも俺は…、意地を張って、何も言わなかった…。…謝って…、
済む事じゃないけど、謝らなくちゃいけなかったんだ…」

 悲しみを湛えた彼の目線は、いつしか自分の手元に落ちていまし
た。
 口元の笑みも消え失せ、痛みに耐えるようなその表情に、マリル
は胸が詰まるのを感じました。
 ですが彼女には、どうしても聞かなくてはならない疑問があった
ので、気後れしながらも問い掛けてみます。

「…どうして…その事と…、…私とが重なるんですか…?」

 耳に届いたマリルの声で、過去から現実に引き戻されたように、
ローランは顔を上げて彼女を見ました。
 そして、その余韻が抜け切らないためか、ぼんやりと自分を検証
しながら答えるのです。

「…よく分からない、…けど、俺の中では同じように感じたんだと
思う。…だから、勝手に体が動いてた。マリルが…、俺から去って
行って…、二度と会えない…。そんな風に、取り返しがつかない気
がしたんだ…と思う」
「…!」

 それを聞いたマリルは、瞬時に頭が沸騰したようで、頬だけでな
く、耳まで真っ赤に染まります。
 そして、そんな様子を目の当たりにしたローランも、さすがに自
分の言った事の恥ずかしさに気付いたようで、頬を染めて頭を掻き
ました。

「え、えと…、あー! だ、だから! あの時はとっさにああ言っ
たけど、ととと、取り合えず引き止めたかっただけで――」
「あ、あああ、そそそそう、そうですか!」

 二人はお互いに、頭から盛大に湯気を出しながら、相槌を打ち合
い、生暖かい雰囲気に浸ってしまうのでした。
 しかしそこは順応力の高い女子のマリルが先に復帰します。

「え、あ、あれ…? でも…?」
「あ…、ああ、うん…。『だけ』だったはずなんだけど…、やっは
りマリルと話してたら、何か…、話し出してた…」

 そう言うと、ローランは先程までテーブルの真ん中に置いてあっ
た、マリルの袋を見ました。

「だから、あの料理をもらった後、君の事を避けてたんだ…。今度
会ったら、俺は君に俺自身の事を隠していられなくなる気がして…。
えと、…迷惑とか…、そんな事は…、全然思ってなかったよ…。け
ど…」
「…?」
「まだ…全部話してないけど、…聞けば君は、きっと俺を嫌う…、
と、思った…」
「そんな…!」

 そう否定しようとしてくれるマリルを、ローランは優しく制止し
ました。

「…うん、本当に…そうだと…嬉しい。でも、俺はそう思えないん
だ。…だから怖い。…だから会えなかったんだ…。…もちろん婚約
者の事も誤解してたけど…」

 そして、一息ついて、ローランはゆっくりと言いました。

「…でももう…、マリルがさっき言ってくれた言葉だけで…、俺は
…、話せる…」

 今更のようにマリルは、自分の言った事の責任の重大さに気が付
きました。
 もちろん先程彼に言った気持ちに、偽りはありません。
 ですが、今までの話ですらマリルの想像外で、それ以上に彼が恐
れる過去では、彼女には予想もつかないのです。
 万が一、彼の事情を聞き、自分の態度が彼にダメージを与えてし
まったら――?

 彼女のそんな逡巡が分かったようで、ローランは優しく笑ってマ
リルを見ると、気分をほぐすように明るく言います。

「…大丈夫だよ。なんか吹っ切れたし。本当に、マリルに隠してお
くのが嫌なだけなんだから、聞いてくれるだけで良いんだよ」
「…え、…ええ」

 マリルはそう言われ、苦しい思いをしている彼に、却って気を遣
わせている自分が情けなくなって来ました。

「あ、…ただ、マリル。ひとつだけ…」

 しゅんとしたマリルに、ローランは思い出したように付け加えま
す。

「…これから話す事を聞いて、俺の事をどう思っても…、それを、
俺に隠さないって約束して」
「…え?」

 マリルはローランの意図を量りかねるように、彼の顔を窺います。
 するとローランは、その視線を受け止め、ゆっくりと自分の気持
ちを吐露して行くのです。

「…マリルがさっき、俺に言ってくれた言葉は本当に嬉しかったし、
確かに俺もそれで言う勇気が湧いて来たんだと思う。…けど、俺の
過去を聞いて、俺への気持ちが変わったとしても、それに囚われて、
その時の本当の気持ちに嘘をつかないで欲しい…」
「…!」
「そんな事したら、俺を傷付けるとか、自分を許せないとか、そん
な事は考えないで、思った気持ちのままで俺に接して欲しいんだ。
…確かにそれは俺も…、辛いかもしれないけど…、それよりも君が
…、表面だけで…、何でもないように振舞う方が…、俺には何倍も
…苦しいと、思うから…」

 一気にそう言うと、ローランは悲しそうに微笑みました。
 それは正にマリルの懸念で、陛下が鋭いという事を教えてくた
ローランですが、彼の鋭さも大変なものなのではないでしょうか。

 でもそれは多分に、自分の方に落ち度があるとマリルは感じてい
ました。
 ならばきっと、自分が頑として『気持ちは変わらない』と、主張
したいのも分かっているに違いないと思い、マリルはぐっと堪えて
返事をします。

「…分かりました、約束します。でも…」
「…?」
「…私の考えてる事なんか、全部顔に出ますから! …それは、
ローランさんも分かってるくせに!」

 それを聞くとローランは、噴き出すように笑い出しました。

「ははははは! …そうだな! 確かに! マリルはすごく分かり
やすい!」
「う〜〜!」

 こんな時は怒りたいマリルでしたが、やはり楽しそうに笑うロー
ランを見るのが嬉しくて、口元が緩んでしまいます。
 それも彼に透けていたらしく、彼は豪快な笑いを納めると、彼女
に人を蕩かすような笑みを送って来ました。
 そんなサービスに心を奪われるマリルに、彼は優しい笑顔のまま
語り始めたのです。

「…じゃあ、聞いて」

続く