【長い夜 その7】


…俺を買ったのは、ヴィーボと言う奴だった。

 ヤツは裏社会の汚い仕事を専門に引き受けて金を稼いでる人間で、
全てが犯罪に関係しているような事ばかりで飯を食っている奴だっ
た。
 ところがたまたま引き受けた、『殺し』の仕事がボロイ儲けなの
が分かると、俄然そちらに傾倒し、それを専門にする事にしたんだ
という。

 もちろんリスクは大きいけど、依頼してくる人間も後ろ暗い訳で、
それは依頼人の身分が上がれば上がるほど報酬金が釣り上がる。
 味をしめたヤツは、どんどん高望みをするようになって、依頼人
も豪商から貴族にまで及んだらしい。

 ところがそこで問題にぶち当たった。
 それは要人になればなる程、その人物の生活する場所へ、上手く
潜り込める機会は限られるという事だった。

 実際その当時、ヤツの周りにいた人間といえば、胡散臭い匂いが
染み付いた人間ばかりで、貴族に依頼を受けても全て力押しになる
ため、自分らの手が後ろに回る確立の方が多かったらしい。
 だからヴィーボは、大きな仕事を確実に納めるべく、そういった
場所に相応しい人材を創り上げようと考えた。

 後々知る事になる、ある事がきっかけて、ヤツはそれを実行に移
すことにしたらしい。
 だからヤツは、訳ありの子供を売り買いしている場所に行き、そ
んな血を引いているのかもしれない子供…あるいはただそう見える
だけの子供を選んだ。
 そう、…ヤツには俺がそう見えて、また、そう育てる事が出来る
と踏んだらしい。

 買い叩くだけ買い叩かれて手に入れられた俺は、その時から人を
殺す道具として、ヤツに利用される事になった。

 まず、俺は五つになるまで、ヤツの事など全く知らず、美しい女
性と、大きな邸宅で、何人もの召使いに傅かれながら暮らしてた。

 今思えばその女性は、おかしな言動を取ったり、物忘れが酷い事
が多かったが、俺に対してはとても優しい人だった。
 その人は俺の母親のように振舞っていたし、周りの者達も俺をそ
のように扱った。
 だから当然、俺はその人が母親だと、普通に思って育ったんだ。


 ところが急に、それが間違っている事が分かる日がやって来た。


 ある日の朝、俺が彼女の元に行こうとすると、侍女たちがそれを
押し留め、そのまま部屋に閉じ込めた。
 こんな事は初めてで、俺は最初、ドアを叩いたり、大きな声を出
して叫んだりしていたが、誰も構ってはくれなかった。
 仕方なく俺はベッドにもぐり、ふて腐れて眠った振りをした。
 そのうち侍女か、あるいは母親が現れたら、逆にここから出ない
で困らせてやろうと思ったからだ。

 ところがいくら待っても、一向に誰も現れない。
 朝から世話を受けていず、空腹も感じたが、退屈が勝った俺は、
本当に眠りに落ちてしまった。


 そして何時間経ったのか分からないけど――、俺は物音で目を覚
ました。
 自分の方へ歩いてくる足音。
 でも、この屋敷でこんな風に騒々しく足音を立てる人間はいただ
ろうか――?

 俺はケットの中から顔を上げ、近付く人物を覗き見た。
 そしてその時、これは恐ろしい夢だと思ったのを覚えてる。
 何故なら、目の前で値踏みするように俺を見ていたのは、見慣れ
ぬヴィーボだったからだ。

 ヤツは無造作に俺の手を掴むと、力任せにベッドから引き剥がし、
部屋の外へと連れ出した。
 廊下には召使いの姿は一人も無く、叫んでも誰も出て来はしなか
った。
 ヤツに引きずられ、屋敷の玄関へと向かっているのが分かると、
俺は恐怖で泣き叫んだ。
 そして、何度も母親の名を呼ぶ。

 すると、それがおかしかったのか、単に俺の声が煩わしかったの
か、ヤツは高圧的に歪んだ顔でこう言った。

「――お母様だぁ? 笑わせるな! 親が誰かも分からない身無し
子が! お前は俺が金を出して拾ってやったんだ! ここにだって、
俺がいたから、良い身分で暮らせたんだからな! その恩はキッチリ返してもらうぞ!」

 俺はヤツが何を言っているのか分からなかった。
 廊下にヤツの声が響いても、やはり誰一人として顔を出す者は無
い。
 ただその声に中てられて、俺は体中から力が抜け、ヤツに従って
屋敷から出た。

 門に向かう途中、俺は顔だけを今まで暮らした部屋へと向けた。
 すると――、部屋のカーテンの隙間から、母親付きの侍女の顔が
覗いているのが見えた。
 俺は救われたような気になって、その侍女の名をび、その方向に
手を伸ばした。
 でも――

 それに反応したようにカーテンが引かれ、侍女は顔を隠してしま
った。
 屋敷はまた以前のように静まり返る。

 侍女は確かに俺を見た。
 でも、俺を助けようとはしなかった。

 俺はそれが信じられず、屋敷に向かって走り出そうとした。
 そんな俺に、ヴィーボは躊躇い無く拳を振るった。
 意識が飛んで、俺の目の前から屋敷は消えた。

 そして二度と、その屋敷が俺の前に現れる事は無かった。




 次に目を覚ますと、俺はヤツの家にいた。

 これが人の住む所かというような小さく汚い部屋。
 その中にひしめく、ヤツの仲間の濁った目――

 俺は屋敷に戻ると言ってぐずった。
 今まで大人は皆言う事を聞いてくれた。
 だから当然、俺はここでもそれが通ると思っていた。

 でもその返答は、二度目の『暴力』で返って来た。
 俺の体は壁に飛び、側にいたヤツの仲間に足蹴にされた。
 それから首を掴まれると、ヴィーボはゆっくりと俺を宙に吊るし
ながらこう言った。

「俺達に楯突く真似をしたら、いつでもこうなる事を良く覚えてお
け…。いつまでも夢を見てるとぶち殺すぞ!」

 暴力に慣れてない俺は、奴らを恐れ、怯え、それに従う事を約束
させられた。

 その環境で、必要最低限の事を覚えるまで、俺は外にも出しても
らえず、袋の中に閉じ込められた小動物のような生活を送り始めた。
 眠りに落ちるまで怯え、眠ってからは救いを求めるように夢を見
る。
 でも、幾度屋敷の夢を見ても、ヤツが言うように、二度と戻って
来ない現実なのが分かると、俺は夢を見る事もなくなった。

 俺は家の隅で息を潜めて暮らす事になる。
 もちろんタダ飯は貰えない。
 何も出来ない俺は、まずは部屋の雑用全般を押し付けられた。
 だが、子供の手はそんなに器用には動かず、慣れるまで俺の失敗
は続いた。
 俺を快く思わない――俺のような身分の上下を連想させる顔立ち
に、潜在的な嫌悪感を持っている――仲間連中に取って、それは必
ず鬱憤晴らしの種になった。

 もちろんそういう連中は、年齢なんかを考慮に入れてくれない。
 ただ、ヴィーボの命令で、服の外から見える場所、特に顔には怪
我をさせないように言われてて、つまりそれ以外ならお咎め無しで
殴られ、蹴られた。

 この顔のせいで買われ、この顔のせいで危害を加えられる。
 こんな理不尽な事が堂々とまかり通る場所でしか生きる選択肢の
無い俺は、自分の容姿を呪わしく思ったりもした。
 顔に醜い傷でも付けば、奴らの対応も変わるかもしれないと思っ
たが、それは即、俺の利用価値が減るのと、暴力が顔にまで及ぶだ
けだと悟って止めた。

 こんな生きてて楽しい状況とは程遠くても、その時の俺は、不思
議と死んでしまおうと思った事が無かった。
 何故なら俺は憤っていたから。

 もちろん一番の憎しみの対象はヴィーボだったが、この腐った仲
間連中や、そして自分を助けなかったあの屋敷の者達、母親だと思
っていた女、その全てを俺は憎んでいた。
 絶対狡猾に生き抜いて、そいつらが野垂れ死んだ後も生き残り、
奴らの顔に砂をかけてやったらどんなに爽快だろう。

 だから俺は、この顔を利用出来るだけ利用して、でない時は、素
早く察知するように努力した。
 人の顔を窺い、相手の気に入るような事をしてやる。
 でもそこに、心なんて一つもこもってはいなかった。


 それから数年が経ち、俺はヴィーボの本来の目的である、暗殺の
ための手ほどきも、徐々体得して行った。
 ヤツに教えを乞うのは忌々しかったが、懸命に身につける事にし
た訳は、俺は自分自身を守る必要があったのと、力をつけてこの状
況が覆るのは、俺の本望でもあったからだ。

 俺はこれから成長し、奴らは老いて行く。
 力関係が変われば、奴らへの報復や、それだけでなく、奴らを亡
き者にする事も容易くなる。
 俺は平然とそんな事を考えるような人間に成長した。

 ヴィーボの強制もあって、その頃になると、俺は既に間接的な
『人殺し』に手を染めていた。
 子供を利用する暗殺は、一般の人間達には考え難いらしく、案外
うまく行く事が多かった。

 やり方は簡単だ。
 標的の人間が立ち寄る店で待ち伏せし、つまづく振りをして食物
や飲み物に毒を入れる。
 そして俺が礼儀正しく謝って、店を出て行くだけで完了する。

 初めは言われるままに、そして意味が分かるようになっても、人
が死ぬという事に、俺は何も感じなかった。
 だって俺には大事な人間なんていなかったから。
 だから死んでいく人間や、残された人間がどんな気持ちになるか
なんて、想像もしなかったし、『罪悪感』なんていうものも、ほと
んど感じる事は無かった。

 ところが、そんな自分の憎しみに凝り固まった俺に、変化が起こ
るきっかけとなる出来事が起きた。

 俺は随分経ってから、ヴィーボに聞いてみた事があったんだ。
 ヤツがまともに話すとは思っていなかったけど、その時は何故か
すんなりと教えてくれたのを覚えてる。

 俺が聞いたのは、あの屋敷の事だった。

 あの時ヴィーボが言っていた通り、俺が母と思ってた女性は、俺
と縁もゆかりも無い人だった。
 彼女は由緒正しい貴族の息女で、親の権力闘争に巻き込まれ、精
神に大きなダメージを負っていた。
 奇行が目立てば体裁が悪い。
 彼女は家を追われ、押し込めて置くに相応しい邸宅に隠遁させら
れる。
 でも、そんな隠遁生活へ移行するにも、当時の彼女の精神状態で
は、どうしても子供が必要だった。

 彼女は自分の子供を捜して移動を拒んだが、それはどこにもいな
い。
 いるはずがない。
 何故なら、彼女自身が手に掛けたから。

 その慰めに用意されたのが俺。
 ヤツにとっては、貴族の相談にのってツテを作るのと、俺のよう
な人材を創る、ダブルチャンスに恵まれた。

「――あの日、あの女ぁ死んじまったんだよ。お前にあと数年は上
流階級のたしなみってやつを叩き込んで欲しかったのによぉ! あ
の家、末のバカ息子の婚姻が迫ってたっていうから、厄介払いには
丁度良い頃合だったんだろうなぁ…」

 そう聞いて、俺は内心愕然とした。
 あの日彼女は死んでいた。

 一旦は捨てられたと思って憎んでいた。
 ヤツの言葉で、本当の母親じゃないとは思っていた。
 けれど彼女は俺に、本当の子供に注ぐ愛情をくれた。
 それが例え、罪滅ぼしでも、狂気の仕業だとしても、俺にとって
は意味がある。

 でも驚いたのはそれだけじゃなかったんだ。
 俺の直感が、彼女を始末したのはヤツだと感じたから――

 あの時、ヤツが俺を迎えに来る段取りが早すぎたのもそうだし、
屋敷全体の様子がおかしかったのも、それを裏付けている気がした。
 多分初めからそんな契約だったんだろう。

 お互いの利害の一致。
 人の人生を、自分に利用する事しか考えてない人間達――


 俺の頭の中で、優しかった彼女の姿が、見る見る間に断末魔の形
相に変わる。
 あの時の俺のように、彼女もまた誰の助けも得られなかった。
 それどころか、彼女には、最後の時まで自分の運命が分からなか
ったかもしれない。
 優しく俺の髪を撫でた手も血に染まり、その瞳にはもう何も映さ
ない。

 そんな想像をして――、俺は初めて胸が詰まるような痛みを覚え
た。

 そして俺は考えた。
 ヴィーボは彼女のために殺そうと。

 彼女がそんな事を喜ぶかは分からない。
 でも、俺はそうしたかった。
 何故だかは良く分からなかったけど、そうしなければならない気
になったんだ。



 それ以降も心の底を覆い隠し、ヤツの手下として働いた。
 幾度か身分の高い方の元で、ヴィーボの望む、暗殺の道具として
の精度も上げた。
 そうして俺は、機会を窺った。

 そんな時、ヤツは大仕事を請け負う事になる。
 貴族じゃない、王族からの依頼が来たという事で、ヤツは皮算用
でだらしない笑顔を見せた。

 王族から依頼がヤツに来るのは、臣下や身内に害が及ばないため
で、つまり自分から体の良い、足切り道具になったのを喜ぶような
ものだ。
 でも、ヴィーボにとっては金の方が魅力なのだろう。

 その頃には俺一人でも『仕事』をこなしていたため、俺は身分を
偽って、ジャーデ王宮に潜入する事になった。
 内心の嫌悪感を隠し内容を聞けば、俺の肩書きは『第一王子の話
し相手』だという。

 身分違いも甚だしいこの肩書きに、俺は噴き出すのを堪えたが、
ヤツの元を離れ、一矢報いる計画を練るのに、絶好のチャンスだと
考えた。

続く