◆◇ 危機到来? 好機到来? ◇◆

遠くで鳥の鳴く音がかすかに聞こえます。
それ以外に聞こえる音といえば、風が木々を揺らす音くらいなのもでした。大きな池に
は雲が映り、音もなく流れているこの風景のどこに、緊迫した雰囲気があるでしょう。
ですが、王子の体からは、未だ緊張の糸のようなものが放出されていて、彼女が少しで
も動けばそれが切れてしまいそうでした。そんな王子に彼女は成す術もなくしがみ付き、
息を潜めるしかありません。
他に音がしないせいなのか、体を密着させているためなのか、彼女に聞こえるのは王子
の鼓動だけ。
少し立つと、早鐘のように打っていた王子の鼓動が、徐々に収まっていくのが分かりま
す。それを聞くと彼女も、段々落ち着いて来るのでしたが、そう思った途端、王子はその
まま後ろに倒れてしまいました。
「きゃっーー!」
 辺りに砂ぼこりが立ち、衝撃がエルヴィーラ様にも伝わります。ですが、彼が最後まで
手を離さないでいてくれたお陰で、彼女へのダメージは大きくありませんでした。
しかしそのせいで、王子の小さな体の上へ、彼女の全体重がかかる事になってしまった
のです。
「――お、王子?」
急いで自分の体を彼の上からどけながら、声をかけても全く返事がありません。はじめ
は恐る恐る体に触れ、体をゆすったりしてみましたが、反応が返って来ないのが分かると、
次第に強く仮面を叩いたりしてみました。
「王子、王子! しっかりして!」
ですがやはり、彼からは何の返事もないのです。
そんな王子を見て、彼女は心細さと心配とで頭がおかしくなりそうになりました。いつ
もは気丈なエルヴィーラ様でも、こんなどうして良いか分からない状況では、なすすべが
ないのです。
(どうしよう。どうしよう! あたしが思いっきり乗っかっちゃって倒れたし、どこか打
ち所が悪かったら…)
目の前の風景がぼんやりと滲みます。鼻の奥が痛くなり、顔を上げているのが辛くて下
を向けば、さっきまで顔を埋めていた、王子の胸のあたりにぽつぽつと涙が吸い込まれて
行くのが見えました。
ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ。
涙はどんどん王子に落ちます。目に映る、その涙の跡を見ているうち、ふいにそこで涙
が止まりました。
何故なら、その跡がかすかに動いているのが分かったからです。
彼女は急いで王子の胸に耳を当てました。先ほどまで聞いていたと同じく、規則正しい
鼓動が聞こえます。
「…動いてる…」
それが分かると、ようやく彼女は少しだけ落ち着を取り戻す事が出来ました。ですが、
王子が倒れてしまった事実に変わりはないのです。今まで自分一人で何かを解決しなくて
はならない立場に立った事のない彼女にとって、これはまさに危機的状況。彼女は気合を
入れるため大げさに目をこすると、とにかくこの事態をどうしたらいいか考えてみる事に
しました。
まずは王宮に戻る事を考えました。
彼がした逆の事、つまり彼女が王子を抱えて戻るという事です。ですが王子がいくら彼
女より小さくても、その体重を支えて行くのは困難な事に思われます。
それでは自分ひとりで王宮へ戻り、助けを呼んで来ようと考えました。
ですがここへ逃れて来た王子の様子を思い出すと、彼一人をここに置いて勝手な行動を
取るのが良策かの判断がつきません。
考えてはみたものの結局今ひとつ決定打に欠ける案ばかりで、彼女は途方に暮れてしま
いました。困った彼女は、とにかくここにいて出来る事、つまり少しでも王子を介抱して
みようと思い付きました。本当は少しでも何かをしていないと心細くていられないからで
したが…。
まずは王子の上着を大きく開け、風通しを良くしました。それから服の襟を緩め、あと
は外気に当てた方が良いかと思い、手袋を外してみました。本当は池の水で手袋を濡らし
顔に当てようとしたのですが、仮面があるのでそれは出来ません。最後に地面にじかに倒
れているのが痛いかもと思い、自分の膝の上に王子の頭を乗せました。
しかし、たったこれだけの事を終えると、もう何も出来る事がなくなったのが分かりま
した。
彼女は仕方なく仮面を手で撫でながら、ぐったりと自分に体重を預けている王子の姿を
見ているしかありません。こうなると否が応でも心細そさが舞い戻って来てしまうのです。
なんとか涙だけは追い払おうとしていると、ふいに王子の小さな手が目に入りました。

――仮面の由来。

彼女の頭の中で、王子の声が蘇ります。
『…今のはお話です。私は人間ですよ』
そう言った王子の言葉通り、そこには小さな少年の手がありました。
(でも、仮面の下は――?)
王子が大変だというのに、こんな考えに囚われてしまう自分に、彼女は半ば呆れていま
したが、もう半分の自分が今は絶好の機会だと囁くのです。
――王子は気を失い、周りには誰もいないのですから。
仮面を撫でる手に、王子の息遣いが伝わります。彼女は自分の手に全ての神経が集まっ
ているのを感じました。
仮面のゴツゴツとした粗い手触りは、どう見ても彫刻に長けた者が作ったとは思えませ
ん。前面は人間の顔と同じく、目と鼻、そして口が彫り込まれており、背面の髪の毛と思
っていたものは、文字とも絵ともつかぬまじないの紋様のようでした。
そしてついに、彼女はそれを見つけました。
それは左右の耳がある辺りにある、『ちょうつがい』のような突起物で、それが前面と
背面を繋いでいるのです。つまりそれを外す事さえ出来れば、彼の顔が見られるはず――
『ちょうつがい』の仕組みは、前後の仮面に作られている数個の穴に皮製の太い紐を通す
というシンプルなものなので、外すのは簡単なように思われます。
彼女は膝に体温を感じながら王子の言葉を思い出していました。

…もし仮面を取った場合はエルヴィーラ様との婚約は解消するつもりです。

続く