◆◇ 独り言 ◇◆

ローランは彼女を伴うと、王子の自室へ向かいました。
いつもは侍女達も同伴するのですが、今回は彼女一人でと言う事だったので、二人きり
で廊下を歩く事になったのです。こんな事は、ローランと一緒にガゼボへ行ったあの日以
来の出来事ですが、今の彼女の心境は複雑でした。
王子の意識が戻った事を聞いてからというもの、安心のためか、一時は棚上げされた事
柄が頭をもたげます。王子が何故あんな行動をとったのかという事です。その理由は、
『しきたり』のルールを考えても王子に聞く以外ありません。
彼は答えてくれるでしょうか?
でもとエルヴィーラ様は思います。王弟殿下が来る前から、今日の王子はから少しおか
しかった事も思い出されます。

――…姫は、ローランが――

いつもは大人びた態度を崩さない王子が、まさかあんな事を言うなんて! そう、それ
は一般に『ヤキモチ』と言う代物で、あの小憎らしい王子の口から出させたのが自分に他
ならないと考えると、彼女にとってはまんざらでもありません。
それと言うのも、自分の事を『好きだ』と言いつつも、今まで接した王子の態度は、恋
の熱に浮かされた感が全くもってなかったからです。
(王子はまだ十三歳。つまりお子ちゃまだからよね!)
などと自分を納得させても、夫候補ナンバーワンであるソウ王子が、自分に対して醒め
た態度でいる事を容赦出来るほどエルヴィーラ様は大人ではありません。
でも本当の問題は、何故王子が今回それをあらわにしたのかです。
相変わらず王子の顔を覆っている古ぼけた仮面は、完璧に彼の表情を目視出来ないよう
にしています。ですがこの二週間で、彼女には大分王子が見えて来ていたのです。

「…ローラン、王子は今日私と会う前から、どこかお加減が悪かったのではない?」
考え出すと、ローランの事よりも王子の事が優先されるのが不思議ですが、気まずいの
も忘れ、エルヴィーラ様は彼に問い掛けているのでした。
それを聞くとローランは歩みを止め、彼女に向き直り、じっと彼女の瞳を見つめます。
彼女もその瞳を見つめ返しましたが、不思議といつもなら勝手に起きる激しい動悸が、何
故か全く起きません。
ローランはゆっくり微笑んで言いました。
「エルヴィーラ様、王子のお部屋へはこちらを通って参りましょうか」
そう言って彼は、進行方向の右にある細い廊下を指し示しました。よくよく考えてみる
と、彼女は王子の自室には行った事がないのですから、ローランに付いて行くしかないの
です。もちろん彼もそれを分かって言っているのでしょう。ローランは彼女の返事も待た
ず、また先ほどの問いに答える様子もなく、そちらに向かって黙々と廊下を進んで行きま
す。
(王子の事は、王子以外に聞けない…か)
エルヴィーラ様はこの『しきたり』に、またもやうんざりするのでした。
再び二人の間には沈黙が訪れました。
ですが夕陽が差し込み、穏やかにオレンジ色に染まる廊下を抜けているせいか、不思議
と重苦しさはありません。もしかすると、さっきのローランの微笑みが効果をもたらして
いるのかもしれませんが。
(ローランは本当に気にしてないのかも)
そう考えると何となく気持ちも軽くなり、彼女は廊下に描かれている美しい模様が夕陽
に光るのを見ながら、また王子の事を思いました。
(きっとこんな態度が王子にも伝わってんだろうなあ…。でも、ローランは断然ストライ
クなんだもの。王子に会う時には必ずローランもセットで会うし、気にしないなんて無理
だし! でも、仮面を被ってても、話す事の出来る王子もスゴイっちゃスゴイんだけどな
ー、って、こんな事言っても理解してもらえないか、普通…)
そんなとりとめのない事を考えているうちに、ふと、毎日会うのは王宮の色々な場所だ
ったのに思い至りました。それはいつも王子が決めて来て、毎回場所が違っていたのです。
彼女にはそれが、王宮内を案内する意味があるのだろうくらいにしか思っていなかったの
ですが、今回の事を考えると、それだけではないのかもしれません。
(あたしと会う時に、誰かに見られたら困る…? …からなのかな?)
それにしても、いつになったら王子の部屋に着くのでしょう。既に彼女の自室からもか
なり離れ、段々と人気のない方へと入って行くような気がします。
ちょうどそんな疑問を持ち始めた直後、唐突にローランが話し掛けて来ました。
「…エルヴィーラ様、実は私には良くない癖があるのです」
彼女は突然のこの言葉の意味が飲み込めず、聞き返してしまいました。
「よ、良くない癖?」
ローランは彼女の方を振り向きました。その顔には、先ほどよりも更に親しみのこもっ
た優しい微笑が浮かんでいます。さすがにこの攻撃には彼女も完敗で、瞬時に頬が染まる
のを感じました。
ローランは更に人懐こい笑顔で続けます。
「…ええ、私はよく独り言を言ってしまう事があるんです。だから、もしこれから私が何
か言ってしまっても、それは独り言です」
「????」
やはり彼女には、ローランが何を言っているのか、さっぱり分かりません。王子に合わ
せて、彼もおかしくなってしまったのでしょうか?
「だから私が勝手に喋るだけで、返事は出来ません。良いですか?」
「良いって、何を言っているの? それじゃあよく分からないわ」
「…たぶん、すぐにお分かるりになるでしょう。良いですか? 念を押すようですが、こ
れは私の独り言です」
顔に『?』マークが張り付いた彼女を無視し、ローランは再び彼女に背を向けると、ゆ
っくりと話し出しました。
「…今日王子は朝から少々体調がすぐれなかった」
その言葉を聞いた途端、先ほどローランが重ねて言った言葉も忘れ、彼女は即座に聞き
返してしまいました。
「…やっぱり! 今は? 意識が戻ったと言ったけれど、大丈夫なの?」
ですがそれに対する彼の返答は、聞いていない事まで含まれていたのでした。
「…王子は数年前より、高齢の国王陛下と共に国の政の席には必ず同席する事になってお
られる。いくら次期国王陛下になられるお方とはいえ、あの年齢の王子達に比べ、王子の
背負う責務は大き過ぎるのだ。…とはいえ、多少熱はあるものの、今は意識も戻られて、
特にお怪我もなかったようで、本当に良かった」
(…? 何でローランはあたしが聞いていない事まで話してるの? …っていうか、それ
は『しきたり』でローランが話しちゃダメなんじゃ…?)
エルヴィーラ様の戸惑いをよそに、彼はひとりで喋り続けます。
「でも、王子はエルヴィーラ様との会見をとても楽しみにしてらっしゃるから、私どもも
お話ならば体に障る事もないだろうと思っていた。だが、こんな事になるならば、やはり
今回の会見はお止めするべきだったのかもしれない」
(あれ? ひとりで喋るって…、これ…、これが独り言?)
そうなのです。
エルヴィーラ様の知りたい情報を、臣下の者が話す事は禁じられています。だから彼は、
それをあえて『独り言』として話してくれているのでした。
「…いや、私はただ自分の不甲斐なさを誤魔化しているだけなのだ。王子を命に代えてお
守りすると誓っていながら、あんな事態の時に躊躇してしまって…。それに比べると、エ
ルヴィーラ様は、純粋に王子のお体を心配なされていた」
彼女は話がいきなり自分に至り、慌ててしまいました。
(あ、あの時の事よね…?)
「一国の姫として、また王子の妃候補としての毅然とした態度は、本当に頭が下がる思い
だった。エルヴィーラ様も王子の事を、本当に大切に思っているのだと思い、私は嬉しく
なってしまった。やはりエルヴィーラ様は、王子の選んだ方に間違いない素晴らしいお方
だった」
彼女は、自分が胸を張って王子の事だけを考えてたと言えるか怪しいと思っているので、
ローランの持ち上げ過ぎに、少々照れてしまいました。しかも、自分が王子を大切にとは
――
その言葉だけでも、今の彼女は体温が一、二度は確実に上がってしまうのです。
「だっ! だからあれはっ! あたしが王子の上に乗っかったから心配でっ! 本当にそ
れだけ! それだけなのっ!」
顔を真っ赤にして言い募る彼女に、ローランは満面の笑みで振り向き、こう言ったので
す。
「エルヴィーラ様、ですから今のは独り言ですよ」
そう言われ、彼女は何も言い返せなくなってしまいました。
でも何故、あんなに『しきたり』を重んじていたローランが、こんな事をしてくれたの
でしょう? 彼女の顔にそんな疑問を見て取ったのか、ローランは静かに言いました。
「…私だって、『しきたり』よりも王子の方が何倍も大切なんですよ、エルヴィーラ様」
その言葉で、彼女は王子が倒れたと告げた時の、彼の表情を思い出しました。あれは臣
下が自分の主人を思うというよりは、もっと深いものがあるような…。
「あと、今回の事で、私はエルヴィーラ様の事も命を懸けてお守りしようと思いました」
「へっ?」
いきなりそんな事を言われた彼女は、とても間抜けな返事をしてしまいます。そんな事
を気にもせず、ローランはまたもや極上の笑顔を向けて言うのでした。
「では、そろそろ王子のお部屋に向かいましょうか」

続く