◆◇ 四年前 その二 ◇◆

それを聞いて、姫が僕と王子たちのやり取りを初めから見ていたのを悟りました。
しかも、この物言いではケンカを吹っかけているのと同じです。僕は即座に背筋が寒く
なるのを感じました。彼らの矛先は、初めはジャーデに対しての憤懣でしたが、今やエル
ヴィーラ姫に対しての怒りに変わってしまっていたからです。
確かに先ほどのような売り言葉を聞いて、不愉快にならない者はいないでしょう。
普通一国の王子、王女ともなれば、その言動は国のイメージに関わり、相手が王子とも
なれば、即国際問題にも発展する危険がある訳です。よほどの大国ではない限り、そうい
った揉め事は周囲の者から厳しく諌められているはずで、ましてや姫君がそのように真っ
向から切り返すなど、とても考えられません。
ですが当のエルヴィーラ姫といえば、臆する事ない余裕の笑顔です。僕はただただ、彼
女の度胸に驚くよりありません。
僕の懸念の通り、王子達の顔に険しいものが走りました。いくら美しい姫君の言とはい
え、自分より年下、しかも彼らの基準では格下の、ジラルディーノの姫などに、辱められ
る事を容認出来る人たちではなかったからです。
姫の掛けた水のお陰で、大分頭の冷えたヴァレリオ王子が、今度は怒りのために顔を紅
潮させて口を開きました。
しかし、実際声を出す事は叶いません。何故ならエルヴィーラ姫が、僕らに背を向け他
の方々に向かって語り出したからです。
「――お騒がせして申し訳ありません。皆様…」
よく通る澄んだ声。エルヴィーラ姫は、ゆっくりと周りの方々を見回します。
「…わたくし、体調を崩し、皆様にお会いする事が出来ませんでした。…ですが、本当に
申し訳なくって…、せめて広間に来てご挨拶をしようと参りました」
誰が見ても憐憫を誘うような、完璧な仕草をする美しい姫君に、皆一瞬で気持ちを持っ
て行かれるのが分かりました。
なるほど、彼女は自分の武器をよく分かっているようです。
「でも、無理をしたせいでしょう、めまいを起こし、花瓶を倒してしまいましたの…」
その弱々しい声だけでも、手を差し伸べたくなるような、そんな雰囲気をこの姫君は瞬
時に作り出せるのです。
この時点で、先ほど水をかぶった者の事など、皆の頭から消え失せているのは明白です。
その証拠に、我も我もと彼女の側に集まり、心配そうに声を掛け出しましたが、誰一人と
してこちらを顧みる者はいません。
こうしてヴァレリオ王子は、怒り出す時機を永遠に逸してしまったのです。何と鮮やか
な報復!
その隙に、従者達もすぐさま僕を王子達から引き離してくれました。向ける矛先を完璧
に失った二人の王子は、立腹しつつも、その場を去るしかなくなったのです。
ですが彼らが踵を返したその瞬間、それを逃さず言葉の矢を放った者がいました。それ
はもちろんエルヴィーラ姫に他ありません。

「ヴァレリオ様、ギリェルモ様。本当に失礼を致しました。でも――」
急にきちんと名前を呼ばれ、驚いたように二人は彼女を振り返ります。すると彼女は、
美しいだけに何とも凄みのある微笑を貼り付け、こう言ったではありませんか。
「…わたくし、夫にする方を、国の大小で値踏みなどいたしませんわ…!」
この言葉には、お二人と言えど、顔に汗を浮かべつつ、そそくさと立ち去るしかないよ
うでした。

二人が退場すると、姫も何かを思い出したように、他国の方々に礼をし、この場を後に
するようでした。僕は慌ててエルヴィーラ姫の後を追いました。あの場で彼女が助けてく
れなければ、僕はどうなっていたか分からなかったのですから、せめて一言お礼が言いた
かったのです。
彼女はとても急いでいるようで、先ほどお体の加減が悪いと言っていた姫とは思えない
身の軽さで、見る間に広間を離れて行きます。
「…お、お待ちください! え、エルヴィーラ姫!」
彼女は僕の声に気が付くと、一瞬振り返りましたが、顔を確認するや否や、かまわず歩
を進めてしまいます。
「え?」
てっきり止まってくれると思っていた僕は、面食らいながら、尚も彼女の後を追い掛け
ます。少し間、姫の後ろを追って行くと、辺りに人気がない場所にやって来ました。そこ
でようやく彼女は立ち止まってくれたのです。
が――
「――しつっこいわね! 何よ!」
それは僕に背を向けた彼女から聞こえたのですが、先ほどのエルヴィーラ姫からは想像
出来ない言葉なため、いまいち反応が遅れてしまいました。
僕の方から何も返答が来ないのに業を煮やしたか、彼女は振り向き、今度はしっかりと
姫の口から言葉が飛び出すのを目撃する事になりました。
「何で追ってくるのよ!」
彼女は苛立ちをみなぎらせ、先ほど王子達に向けた敵意を含んだ顔をしていました。
「さっきはあんな奴らにやり込められて、何も言えなかったくせに、あたしには文句を言
いに来たってワケ?」
そうです、ずぶぬれで追って来た僕を、彼女は文句を言いにやって来たと勘違いしてい
たのです。それに気が付いた僕は、体中で否定をするように呼びかけました。
「――ち、違います! ぼ、僕っ、いえ、私は、一言あなたにお礼を――」
『お礼』という言葉に反応してか、彼女の表情に変化がありました。
それを見て取った僕は、そのままエルヴィーラ姫の側へと行くと、片膝を付き、深々と
頭を下げたのです。
「…あの、大変な所を救っていただき有難うございました。私ではどうして良いか分かり
ませんでした…」
僕は思った事をそのまま言葉にしてみましたが、その後姫から出たのは、非常にドライ
な言葉でした。
「…別にあんたのためじゃないわ。あの二人が私の事を侮辱しなければ、出てなんか行か
なかったもの」
このように明け透けな言葉で返されるとは思ってもいず、思わず僕は彼女の顔を見上げ
てしまいました。すると彼女も、こちらの顔をまっすぐ見返してくるではありませんか。
彼女の表情には、再び険しいものが戻って来ていました。そうしてその口からは、更に
辛らつな言葉が紡ぎ出されたのです。
「…あんたの国の事はよく分からないわ。でも、あんな事を言われて何も出来ないなんて、
情けなくはなくて? あんたも一国の王子でしょう!」
彼女の険しい顔は、嫌悪の顔でした。僕とジャーデを侮辱した二人の王子同様に、彼女
にとって僕は侮蔑の対象だったのです。
それを悟ると、僕は情けなさで涙があふれていました。
「ちょっ、っ! な、何泣いてんのよ!」
いつもなら、こんな事くらいで涙を流す事などありませんでした。けれど、慣れない国
での緊張が続く中、先ほどの王子達との出来事が、まだ九つだった僕の心にはかなりのダ
メージを与えていたようです。僕は一国の姫の前で涙を流している事を恥ずかしく思いな
がらも、どうしても涙を止める事が出来ませんでした。
しばらく彼女はその様子を見ていました。僕自身、自分をどうする事も出来ないのです
から、きっと彼女も僕を持て余しているのでしょう。
「もう! あたしこんな事してられないのよ!」
エルヴィーラ姫が急にそう言い出したので、てっきり僕を置いて行ってしまう合図だと
思いました。僕も恥ずかしさで、却ってその方が気が楽だと思ったものです。
ところが――
「見つかったらあんたのせいよ!」
そう言って、やにわにご自分の袖をつかむと、ごしごしと僕の顔を拭い出したのです。
姫君としては少々手荒な対処ですが、てっきり放置されると思っていた僕は、突然の事に
声も出ません。
「…まぁ、しかたないか。あんたエリクよりも小さそうだもんね。いくつ?」
そう言って顔を覗いて来るエルヴィーラ姫は、やはり大変美しく、僕は顔から火が出そ
うになりました。
「…き…九歳…です」
「…まさか…あんたも求婚しに来たわけじゃないわよね…? あたし、年下趣味はないん
だから!」
「…い、いえ、私は…」
そこでやっと、僕はまだ自分の名前を言っていない事に気が付きました。
「…もう大丈夫そうね。じゃああたし行くから。あんたももう変なのに絡まれるんじゃな
いわよ!」
元々急いでいたのを中断してしまったのですから、僕の様子が元に戻ると、彼女は足早
にその場から去ろうとしました。
「…お、お待ちください! あの…、私は――!」
彼女は僕の言葉に振り返りましたが、『今度あったときに聞くわ!』とだけ言い、二度
と止まってはくれなかったのです。

続く