◆◇ 七日前 ◇◆

あの出来事から二ヶ月が過ぎ、エルヴィーラ様がこの国に来て、ちょうど三ヶ月になろ
うという頃です。
「婚約の儀式?」
「…ええ、父がそろそろ良い時期ではないかと言うんです」
それは、いつものように――とはいえ最近はこの国に来た時に比べると、さほど頻繁で
はなくなったのですが――王子と午後のひと時を、彼女の部屋で過ごしている時でした。

「…それって――」
王子は出会った時と同じく、未だ仮面を付けています。
もちろん彼女は、今では自分が王子に惹かれているという事を認めざるをえない心情で
はあるのですが、だからといって、二人の関係が一足飛びに深くなったりはしていません
でした。
その原因は三つほど。
まず、王子の態度が以前にも増して、理想的な王子としての振る舞いになり、彼女に付
け入る隙を与えなくなった事。
更に、王子と接触する時間を設けることが、公務を担っている彼の体の負担になってい
る事を知ってしまったので、それを少なくさせた事。
最後に、これが一番のネックになっているのですが、エルヴィーラ様の方から好意を態
度で伝えるなどという事は、プライドやら色々なものがあり、なかなか彼女には上手く出
来ない事――。
ですから、傍目から見てみれば、二人の状態はほとんど進展しているようには見えない
のでした。
「…姫にはこの国に来ていただきましたが、僕の妃になっていただけるお約束はいただい
ていません。また、僕も姫に正式に結婚を申し込んではいないので、その儀式を執り行う
事になったんです」
「…え、そ、それじゃあ…」
彼女はそう聞いて、この国に来た時、自分達の意思を尊重すると言われましたが、最終
的にはこういった儀式で決められてしまうのだ、と思いました。正直な所、その方が良い
のかもしれないなどと考えている自分を感じてしまうと、多少の反発は覚えますが、でな
いとずっとこの状態な気もしてしまうのです。
(それって、どーなのって? 感じだもんね)
今の彼女の心境は、王子の妃になるのが『絶対に嫌』ではないので、『だったら仕方が
ない』という状況に追い込まれた方が、却ってすっきりするような気がしたのでした。
ところが…。
「…儀式とは言っても、お互いの気持ちの確認です。…だから、僕が姫に結婚を申し込ん
でも、あなたがそれを望まないのであれば、断わっていただいて構いません」
「ええ? こ、断れるの?」
今まさに、流されるまま妃になろうと思っていた計画が、無残にも終了となったため、
彼女はついつい聞き返してしまいました。
「…ええ、それは初めからのお約束でしたから。こちらの勝手で申し訳ないんですが、そ
ろそろこの仮面を被っている事でのリスクが大きくなって来たというのもあります。それ
に…」
まあ、王子も通常は仮面を被っている訳ではないのですから、彼女が行動の制限を受け
ていないという事は、王子側で調整してくれている訳で、それが公務と重なると大変なの
だろうと感じました。でも彼女には何となく、王子が言ったリスクの大部分は、きっとあ
の時に『今は言えない』と言った事に関係しているように思えました。
「それに?」
彼女がそうやって聞き返すと、王子は少し間を置き、ゆっくりと言葉を紡ぎます。
「…姫が、僕の妃になるという決心をつきかねているのならば、このままこの国に留め置
くのは、あなたにとっても良くないですし」
それを聞いて彼女は、王子の言った言葉に打ちのめされるのを感じました。
確かにエルヴィーラ様は実の母親にも言われたように、普通の姫君の婚期を少しばかり
過ぎてはいます。ですから次の嫁ぎ先を探すのならば、早いに越した事はないという配慮
は理解出来るのですが、だからと言って、全てを納得出来るかと言えばそうも行かないの
です。
そもそも一番納得が行かないのは、王子がこの事に対し、動揺する素振りが全くないと
いう事です。
(…断っても良いとか、その次は国に帰れって…? 王子はそれで良いの?)
この国に自分を呼んだのは王子で、そもそも王子は四年も前から自分を好きなはずでし
た。彼女が全く王子を覚えていずとも、王子はずっと思っていてくれたのではなかったの
でしょうか。
(だったら陛下に言われたからって、儀式よりも何よりも、あんたがもっとあたしにすが
るべきなんじゃないの! っていうか、儀式では断らないでくれって懇願したって良いじ
ゃないのよ!)
そう言ってしまいたいのは山々なのですが、それを言ってしまうと、何故か負けを宣言
しているみたいに思え、どうしても言い出す事が出来ません。
「…わかったわ! その日までに考えておけば良いんでしょう? いつなの?」
自分が意固地なのも分かっているのですが、腹立たしさで、ついつい強い口調になって
しまいます。
「…儀式の日取りは、今日から七日後、僕の誕生日にするという事です」
王子の誕生日が間近という話は、彼女にとって初耳でした。
確か王子と初めて会った時、『今年十三になる』と言っていたような気がします。外見
は確かに小さくて頼りない王子ですが、時折見せる子供らしさ以外は、立ち振る舞いは成
人のようで、すっかりその事を忘れてしまっていました。

 ――ああ、まだこの王子は十三にもなっていなかったんだ。

彼女は何故かしみじみとそう思いました。そして苦しいながらも、そこから一つの結論
に辿り着いたのでした。
きっと陛下が健在な今、王子がいくら何を言ったところで、王の言葉は絶対なはず。ま
してや成人にも満たないこの少年王子の言葉なんて、陛下が聞き届けてくれなかったのだ
…と。
(…それなら、まあしょうがないわよね。きっとあたしをこの国に呼ぶのだって、この王
子にしては、すんごい駄々をこねて呼んでもらったのよ! だ、だから今回は国王陛下の
お言葉に従うしかなかったのよ! そうよ! きっとそう!)
「……じゃあ、どっちにしてももうすぐ王子の素顔が見られるのね!」
彼女はそう言って、何でもない風を装い、王子の反応を見てみようとしました。そうで
もしないと、居たたまれない気分だったからです。
ですが、やはり王子の態度が大きく崩れる事はありませんでした。
「…そうですね。それと…、以前お約束していた、あの時の僕の行動についてもお話しま
す」
王子はちゃんと覚えていました。
あの時、『それを言うのが怖い』と言っていたのが何故なのかも、それできっと分かる
のでしょう。でも、それを聞くのは、この国に留まる――つまり王子の妃としてか、それ
とも自国に戻るかがはっきりした後なのです。
「…すみません。今日ももうこれで行かなければなりません」
そう言って王子が退座しようとするので、彼女は未だ納得出来ない気持ちを隠しながら、
扉まで付いて歩きました。そして彼は扉の前まで行くと、背を向けたまま、追い討ちとも
いえるこんな事を言い出したのです。
「…儀式で僕は、あなたに求婚する事になります。でも、それはただの形式で、そこに僕
の意思はありません」
「…え…?」
王子が何を言いたいのか、彼女はとっさに理解出来ませんでした。
あの事件があった時、確かに王子は自分を好いていると言ってくれたはずで、だからこ
そ、今の今まで彼女はそれを疑ってはいなかったのです。ですが、冷静にに考えれば、先
ほどの王子の話の進め方からして、真に言いたかった事は真逆だったと考えるのが普通な
ではないでしょうか。
彼女はゆっくりと息を吐きながら、考えをまとめる事にしました
つまりこの二ヶ月の間に王子の気持ちが変わり、今では自分との婚姻を望まないという
意思表示――国に招いてしまった王子の方から断る事が出来ない――という事?
その考えに至ると、胸に鈍い痛みが走り、彼女は思わず胸を押さえます。そして瞳は既
に、王子の後姿を見る事が出来なくなっていました。
いつもの自分だったなら、ここは思い切り腹を立て、そんな事を言う殿方には、こちら
から願い下げると大見得を切っているはずでした。なのに何故今自分は、必死に瞳に力を
入れ、涙を堪えているのか。
理由はとっくに分かっているはずの事を、彼女は何度も何度も考えているのでした。
「それでは失礼します」
そう言うと、今度こそ王子は部屋を去ってしまったのです。

続く