◆◇ 前夜 その一 ◇◆

「…月って結構明るいものね…」
手元に持参して来た頼りないランプを眺めながら、彼女はそうひとりごちていました。
そんな物を使わずとも、足元の土やまばらな草など、夜とは思えないほど良く見えるの
です。

彼女が自室を抜け出してから、そろそろ一時間は経つでしょうか。
深夜ともなれば、警護の者達も、要所要所にしか見受けられず、そこを避けて通れば王
宮を抜け出すのも訳のない事です。特にエルヴィーラ様の場合、普通に廊下を歩いたりは
せずに、部屋のバルコニーから隣へ移り歩くという、淑女にあるまじきお転婆ぶりで脱出
したのです。
(ジラルディーノで鍛えた足腰のお陰よね〜)
最初は明日に控えた『婚約の儀式』の、むしゃくしゃした気持ちを発散させるため、ち
ょっとひとりで散歩をしてやろうくらいに考えていたのですが、今はいっそ、儀式をすっ
ぽかして、皆を驚かせてやろうかとまで思い至っていました。
さすがにそんな事をすればこの国にはもういられないと思いましたが、今の彼女には、
既にどうでも良く思えて来るのです。それというのも、幾度か儀式の予行などが行われて
も、あれ以来王子は一度も同席せず、また彼女に会いに来る事もなかったからです。
こうなると、やはり王子は自分に愛想をつかしたと考えるしかないと思えます。
こんな夢のような月の下、美しい庭園を散策しているというのに、彼女の心は暗く深い
悩みの淵へ沈んで行きます。エルヴィーラ様は空に浮かんだ大きな月を見上げ、目を一杯
に開きました。そうでもしないと、今にも何かがこぼれてしまいそうだったからです。

この数日間というもの、心の内をを見せまいと、いつもよりも更に気を張り続けました。
暗く重い心を押し隠し、普段のままの自分を演じ続けるのは神経が疲れる事で、まして
やそれが、ただ自分の見栄のためだけなのですから、馬鹿馬鹿しいにもほどがあります。
でも彼女には、そんな事でもしていないと、もう既に、自分を保つ事が出来なくなってい
たのです。それも皆がいればまだましで、一人になるとその反動が彼女を襲い、彼女の瞳
にはすぐに熱いものがこみ上げて来てしまいます。
この国にやって来るまで、胸を一杯に満たしていた彼女の自信は、今やどこにあるのか
すら分からない程にしぼんでいました。思えばその自信とは、自分の優れた面だけを相手
に見せ、高評価を得ていた砂上の楼閣だったように思えるのです。
今まで彼女は、自己評価では気に入っている自分の性格も、男性にとっては好ましくな
い事を良く理解し、だったらそんな弱味などあえて見せる必要はないと考えていました。
恋愛は駆け引きなのですから、目ぼしい男性が現れたなら、ダメな部分は押し隠してでも
ゲットすれば勝ちと考えていたくらいだったのですから。
実際今まで求婚を申し込んで来た相手に対しては、全てそうして来ましたが、彼女を妃
にと言って来た者達も、やはり彼女の外見に惹かれいる、同じ穴のムジナです。そんな者
に対して罪悪感など起こるはずもありません。
ですがどうやら王子は、被っていた猫の自分は眼中になく、最初から真の性格の自分を
妃に迎えようとしてくれていたのです。これが口の悪いジラルディーノの母ならば、きっ
と彼を『物好き』と称するに違いありません。
王子との出会いは、はっきり言えば『最悪』の部類に属するもので、反対の立場で考え
れば、とても彼のような気持ちにはならないでしょう。だから彼の心変わりは、極めて普
通の事なのかもしれませんが、彼女には耐え難い事になっていました。
(…四年前と変わってないって、そこが好きって言ってくれたじゃない…)
今更ながらに、王子の好意の真価が分かっても、それは悲しみを倍増する以外の何でも
ありません。
足の向くままに歩いていくと、そこは王子が自分のために作ってくれたという、花が咲き
誇るカゼボの前でした。彼女は花々に誘われるようにそこへ向かいます。
いつしか頬は涙で濡れ、彼女はしゃくり上げていましたが、ここには誰もいないので、
構わず歩を進めて行けるのでした。

ところがそんなままでガゼボに足を踏み入れて、力なくベンチに腰を下した途端、後ろ
から聞こえた物音に驚き、彼女は大きく声を上げてしまうのでした。
「キャッ!」
まさかこんな時間、そしてこんな場所に、人がいるはずが――
「…だ、誰か、いるの?!」
彼女は恐ろしさで、頭を低くしながら問いかけます。これが凶悪な人物や、獰猛な動物
だったならば、大変な事になりそうなのですが、今の彼女にそんな頭は回りません。
少し待っても背後からの返答はなく、先ほど歩いて来た庭園とは違い、ガゼボには日よ
けの屋根があるため、その内側は影になっています。そんな見通しのきかない暗闇が、彼
女の恐怖に火をつけます。
「…い、いないわよね? フ、フクロウかなんかよね!」
この国にジラルディーノと同じ動物がいるかなどは分かりませんが、ともかく確認の声
を上げる事で恐ろしさから逃れようと試みました。恐怖で体が固まり、音のした方向には
向く勇気が湧きません。
更に間が空き、やはり何かの動物が動いた音で、もうここにはいないと、彼女が安堵し
かけたその時――
「……何で…」
彼女は人間の声がするとは思わなかったため、危うく気を失い掛ける所でした。ところ
が聞こえた声に、彼女は心当たりがあるような気がしたのです。
「…? その…声…」
エルヴィーラ様の問い掛けに、不承不承と言った返答が、背後から聞こえて来るではあ
りませんか。
「…何でこんな所に来るんですか…」
「…あ!」
良く聞けば、やはりそれは彼女の良く知る声でした。ですが、何故かいつもと違和感が
あるのです。
流れるままにしていた涙でにじむ目を慌ててこすり、彼女は後ろを振り向こうとします。
「待って! こっちを向かないで下さい!」
その制止の声を聞き、ようやく合点が行くのを感じました。
「…王子…! 仮面…、被ってないの?」
いつもならば筒の中から響くような、効果音が一緒になって聞こえている声が、いきな
りクリアな声音で聞こえたために、違った感じを受けたのです。
「…まさか、こんな時間に、こんな場所で姫と会うとは思いませんでしたから…」
それはそうでしょう。ですが彼女はこんな状況で会ったにも関わらず、何故か段々と心
が弾んで来るのを感じました。すると同時に、恐ろしさのために一時棚上げされていた涙
が、再びあふれて来てしまうのです。
「…? 姫?」
抑えようとしても漏れてしまう嗚咽で、彼女の異変に王子も気付いたようです。
「…ここにいて下さい! すぐ、人を呼んで――」
王子が駆け出そうとする様子が分かると、彼女はほとんど悲鳴のような声でそれを制し
ました。
「だ、めぇっっ! いかないで!」
その勢いに驚き、王子の足が止まります。
「…!」
「…いったら…、…だめ! そ…したら、あたし、…もうおうじのきゅうこ…ん、う、う
けないからぁ――!」

続く