◆◇ 前夜 その三 ◇◆

「…明日じゃなく今、王子の本当の気持ちを聞かせて」
まっすぐ王子を見て言いましたが、彼の顔は逆光と、目深に被った上着のせいで、鼻梁
すらも見えません。ですが被っているものが仮面ではなく布なため、彼の表情に変化があ
れば、布が動いて教えてくれます。
そして彼女が見たものは、何度か声を出そうとしてためらう王子の姿だったのです。
彼女はあの日以上に重苦しい胸の締め付けに襲われましたが、ここで待ったは掛けられ
ないのです。
「…何を聞いても、あたしはもうさっきみたいに取り乱さないわ。だから、本当の事を…
言って、お願い…」
彼女は取り乱さないと言いながら、既に動揺している自分を恨めしく思いました。
「…姫…、僕は…」
王子の口から、最後の審判が下されようとしたその時です――
「――!」
王子の体に緊張が走るのが分かりました。
「? どうしたの? おう…」
「静かに!」
王子は彼女の体を押さえ込み、低い体勢を取らせました。そして自分の頭だけを高くし
て、周囲の様子を窺っているのが分かります。何が起きたかを理解するには情報が足りな
さ過ぎましたが、それでも肌を刺すような緊張感が、彼女の唇を閉じさせるのです。
「…間の悪い…」
王子は低くそう言いました。
そして目線はそのままで、彼女に言葉を投げ掛けます。
「…姫、ここから急いで移動しなければならなくなりました。申し訳ないですけど、話は
それからです」
そう言うと、あの時と同じように、王子は易々とエルヴィーラ様を抱え上げます。小さ
な体で、こんな事を苦もなく出来る王子に、何とも言えない頼もしさを感じ、先ほどとは
違う胸の苦しさを感じてしまいます。
そんな彼女に、王子はこんな事を言うのです。
「…目を…、つむっていてもらえますか。僕の顔が見えないように」
確かに両手は姫を抱えていますし、この間と同じような移動をするとなれば、彼が巻き
つけている上着がその役目を果たせず、素顔が露出してしまう可能性は大きいでしょう。
でも、王子が自分との破談を望んでいるならば、顔を晒して全てを終わりにしてしまえば
良いのです。
なのに顔を頑なに隠し続ける理由は、彼女の願う答えで正しいのでしょうか。それとも
彼は、やはり『しきたり』を重んじているだけなのでしょうか。
その事を問い詰めたくとも、今はそんな思案をしていられない事は、王子の様子から明
らかです。
「……」
彼女は王子の胸に顔をうずめ、きつく目を閉じました。そしてそれが合図となって、彼
はあの時と同じく彼女を抱えて身を翻しました。

いくら月で夜目が利きやすくとも、昼間と比べれば移動は難しいに違いありません。な
のに彼の歩みには、迷いといったおぼつかなさが全く感じられませんでした。この庭園の
何処に何があるかを知り尽くした、まさにそのような動き――
そんな事を考えていると、離れた所で聞き覚えのある声が彼女の耳を刺激します。
辺りが静かなためなのか、人が話している声は妙に耳に届いて来るものです。
「…ん当にこ…な時…に、王子が…のか?」
「…お静かに! あの方は…とても鋭い方です」
人の気配は他にもあるのに、喋っているのは二人のようです。
知らない者は聞き取りが難しいけれど、知っている者の声は、何故こんなにも易々と理
解出来るのでしょう? 彼女はまさかと思う心と裏腹に、妙な確信を得て、つい王子に声
を掛けてしまいました。
「…お、王子…!」
彼女の言葉に彼はすぐに反応を返します。
「…分かっています。でも、今は声を立てないで…」
やはりあの声は彼にも届いましたが、王子の移動には全く変化は見られません。
ならば王子に従うのみ。きつく目を閉じたまま、先ほどの声の主を頭から排除し、王子
の移動の支障にならぬようにするだけでした。


「…もう目を開けて大丈夫ですよ」
王子にそう言われ目を開けると、そこは既に王宮の中でした。
全ての窓が厚手のカーテンで覆われた屋内は、うっすらとした輪郭の判別しかつきませ
ん。そのぼんやりとした状態でも、密着している彼女には、王子があの時とは異なり、特
に具合が悪くなっている様子がないのが分かります。
やはり、彼の身体能力は大したものだと見て間違いないでしょう。
「…部屋に送ります。話は歩きながらで良いでしょう」
そう言うと、王子はエルヴィーラ様を抱えたまま、暗い廊下を歩き出すのでした。
王子は月がなくとも夜目が利くようで、しっかりと廊下を歩いて行きます。彼女を抱い
たままなのは、この暗さで彼女が歩くのは困難だと判断したからなのでしょうが、緊急事
態の先ほどとでは、彼女の心構えが変わって来ます。王子が一歩を出すたびに、その振動
が彼と密着している事を証明するので、心臓が飛び出しそうになるのです。
早く王子が話してくれれば、少しは気が紛れるのにと思いながらも、その腕の居心地良
さに、ずっとこのままでいたい気もしてしまうのでした。
そんな風に思っていると、優しい声が頭の上から聞こえて来ます。
「…姫に以前、仮面の話をした事があったでしょう?」
その内容は、彼女の質問とはかけ離れたものでしたが、王子が言った事を違えないのを
理解してしまったエルヴィーラ様は、何も言わず彼の言葉を待ちました。王子も彼女が聞
いてくれているのが分かると、そのまま話し続けるのです。
「…あれは、僕が作ったお話なんです」

続く