◆◇ 婚約の儀式 妨害 ◇◆

あれから自室に戻ったものの、興奮で目が冴え、エルヴィーラ様は眠る事など出来ませ
んでした。
その上、いつもよりも早い時刻に侍女がやって来て、婚約の儀式の準備を始めるのです
から、休んでいられるはずもありません。とはいえ、早朝から儀式があるわけではなく、
侍女たちがせわしく周りで支度をするのを彼女は黙って見ているだけなのです。
彼女のやる事といえば、食事を取って、侍女に着飾られるのを待つのみ。
そんな状況では、否が応でも昨夜からの事が思い出されます。そして思い返してみれば、
それらは全て夢だったのではないかという不安が押し寄せるのです。やけに生々しい体の
感触すらも、ここ数日の苛々が作り出した不満の幻影のなのではないでしょうか?
元々が短気な彼女なので、王子の態度で夢か現かを判断したいところなのに、当たり前
ですが、儀式にはきちんと時刻が決められています。
その刻限は正午ジャスト。もちろん彼女のわがままで、時刻を変更出来る訳もありませ
ん。進まない時計の針を睨みつつ、ついにその正午を迎えたのでした。


エルヴィーラ様は、いつも以上に美しく仕上げられ、謁見の間へとやって来ました。他
の事で頭が一杯になっているせいか、不思議と緊張は感じません。上辺は取り澄ましてい
ましたが、瞳は抜け目なく周囲を見渡し、王子を探していましたが、すると、儀式という
仰々しい名前の割に、この場にいる人数が少ない事に、今さらながら気付きました。
そう言えば、初めてジャーデに来た時も、謁見の間にいたのは、国王陛下と王妃様、そ
して数人の側近の者達、そして王子を連れて来たローランと侍女達だけでした。そして今
回も、まだ来ていない陛下と王妃のお二人、そして王子を除いて、その面子に変わりがな
いようです。
儀式の予行練習の時は、心中がそれどころではなかったため、気付く余裕もなかったの
ですが、他の者達の入場などはなかったように思います。そんな事を考えているうち、彼
女はふと王弟殿下の事を思い出しました。
こういった場に、王族の方がいらっしゃらないのは不自然ではないのでしょうか。彼女
が王子の求婚を受ければ、それは次期国王陛下の婚約の成立になるのですから、国だけで
なく、王族にとっても重要な儀式になると言えるでしょう。なのに何故…?
ですがそこまで考えて、もう一度思い直すのでした。
(――そうだったわ。これ、確定じゃないんだものね)
彼女が王子の申し出を断れば、これは簡単に破棄されてしまう行事ではあるのです。そ
れでもやはり、多少の疑念は拭えませんでした。
しかし、そうこう考えているうちに王子が入場して来たため、彼女の意識は一気にそち
らに奪われます。
ちゃんとした王子の姿を見たのは、実に六日ぶりです。今日はいつものように大きく煌
びやかな上着は着ておらず、体にぴったりとした上下を着ているため、体の小ささは際立
つものの、帯刀して背筋を伸ばすその姿は、燐とした勇ましい雰囲気が漂っています。も
ちろんいつもと同じように、仮面は付けていましたが、初めてこの部屋で会った時とは違
い、自分の足でしっかりと歩き、彼女のすぐ側に並びます。
その堂々とした立ち振る舞いを見て、エルヴィーラ様は頬が熱くなるのと同時に、いよ
いよ深夜の出来事が夢のように思えて来てしまいました。自分だけが頬を赤くしているの
が、実に不公平に感じつつも、予行での執り行い通り、二人は国王陛下と王妃の入場を、
頭を下げて待つ事になりました。
ところが、ここですぐに陛下と王妃がいらっしゃるはずなのに、お二人は中々現れる様
子がありません。しばらくすると誰かが王子の側へと近付き、彼に何かを耳打ちしたのが
分かりました。横目で確認した所、その姿はローランで、そういえば王子入場の際、何時
いかなる時にでも側にいる、彼の姿がなかった事を思い出しました。
そしてローランと言えば、昨夜の庭園での事が思い出されます。その姿を見ると、王子
に信じていると言ったものの、自然と体が強張ってしまうのでした。
「…分かった。お通しして構わないと伝えてくれ」
王子が重々しい声でそう言うと、ローランはその言葉に従い出て行くのが分かりました。
そして今度は彼女に向かって声を掛けます。
「…姫、顔をお上げ下さい」
言葉に従い顔を上げれば、王子はまっすぐエルヴィーラ様を見て言うのです。
「残念ですが、婚約の儀式は取りやめです。王弟殿下が儀式の事を聞きつけられて、ここ
にいらっしゃるという事なので」
「え…?」
先ほど彼女が考えていた事が現実になってしまったようでした。
「…では、また日を改めて?」
王子の仮面姿を殿下に見せられないという事を理解している彼女は、てっきり延期にな
るだけと思って聞いたのでした。ですが王子は、それに首を振るのです。
「もう分かってらっしゃると思いますが、僕がこの仮面を付けている事は、民だけでなく、
王弟殿下にも知らせていません。それを知られてしまうと、僕は王位を継げなくなる可能
性があるからでした」
そう言うと、王子は仮面の横の右耳の辺りに手を掛けました。それは、彼女も仮面を外
そうとした時に見た、『ちょうつがい』がある箇所です。
「この仮面は…、完全なる王族でない者が王位に就く時に被るもの。だからあの時も、僕
は姫を連れて殿下の前から姿を消しました」
王子は『ちょうつがい』から紐を引っ張りました。すると今までしっかり王子の顔を覆
っていた、仮面が緩んでずれるではありませんか!
「王子!」
エルヴィーラ様は王子が何をしようとしているのかを悟り、悲鳴のような声を上げてし
まいました。
「でも本当は…、今まで言えなかったのは――、殿下に知られる事よりも…、あなたに知
られてしまうのが怖かったからかもしれません…」
未だ幼さが残る指が紐を引き抜くと、仮面は簡単に頭から滑り落ちて行くのです。
「昨日…いや、今日あの場から逃げたのは、姫にまで危害が及ぶかもしれなかったので、
やむを得ませんでした」
今まであれほど見たいと思った王子の顔が、あらわになるというその瞬間、彼女は瞳を
開けている事が出来ませんでした。何故なら、それは婚約の解消を意味するからです。
「でも…、今回は逃げません。約束しましたから…」
その声は重く、悲しく彼女の耳に届くのでした。

続く