雪になりそうだった。


――だから俺は、走って家に帰ったんだ。
――その事を知らせる為に――








 何となく外を眺めていた。

 外と内の温度差で窓ガラスが白っぽくけむり、マンションの十三階からの風景は酷く
寒々しい。
 今日とあの日の気温が似ているからだろうか――?
 だからあんな事を思い出したのかもしれない。

 それとも――

 ふいに部屋の隅にある細長い本棚に目をやった。
 下から三段目、そこで目が止まる。

 もうすぐだからなんだろうか――


 そんな事を考えるともなしに考えていると、隣で寝ていた美紀が勢い良く起きた。
「瞬、今何時?」

 寝起きで声はくぐもっているが、いつも通り一方的な話し方だ。
 顔の方向だけを変え、DVDデッキに浮かぶ味気ない数字を読み取る。
 この部屋にはそれ意外に時間を示すものがないのだ。
 時刻は午後十一時を回っていた。
「ウソ、もうそんな時間? 家に帰んないと」
 美紀がバタバタと服に袖を通すのを眺めながら、自分も服を着た。
 そしていつもと同じ事を考える。


――本当は自分の家まで送って欲しいんだろうか――?

――でも、面倒臭い。


 彼女と付き合い出したのは高校に入ってすぐだった。
 もう一年半にもなる。
 付き合わないかと言われたのでそうした。
 けれど本当はどうでも良かった。

 何となく付き合っている。
 嫌ならやめればいい。
 どっちでも良い事だ――

 こんな事を俺が考えているとも知らず、美紀は一人でしゃべり続ける。
「ここのエレベーターって、ホンっト遅いよねー。一階で待ってる時とかも寒くてたまん
ないしさー…」

 玄関の外に出ると、やはり相当に気温が低い。
 冷えた空気が、整然と並んでいるドアや壁に反響する力を与えていて、静かな足音さえ
も騒がしい。
 だから、彼女の高い声は尚の事迷惑に響く。
 その頼りなげなスカートでは、寒さを守れるはずが無いのは自明の事なのに、彼女にと
っては他の物がそれを補ってくれないと不満なのだ。
 そんな事を考えている間に、言う程に怠慢でないエレベーターが音を立てて昇って来た。

「………だからさ、来週あたりにどっか行こーよ。ちさの彼とか一緒に、たまには他の子
達と外で遊ぶのも楽しいじゃん」

 美紀は一階に降りる間中、そんな事を話していた。
 俺がそう言う付き合いを嫌っているのは知っていても、彼女は努力を惜しまない。
 気の無い返事をしながら、エレベーターを降りてエントランスへ足を踏み出した。
 するとそれまで話していた美紀が、不意に言葉を切る。
 その理由は俺にもすぐに飲み込めた。
 何故なら、外部から侵入出来ないためのセキュリティである、号室のナンバーを入れる
コンソールパネルの下に、うずくまっている人影を見たからだ。

 それを見た美紀は、しがみつくように自分の腕を俺に絡ませ、一旦目線を合わせた後、
それきり口をつぐんだ。
 俺も同じように一瞬躊躇したが、腕の重みの居心地悪さから開放されるため、こちらか
らは自動で開くドアへと進んで行く事にした。
 ドアが開くと、その開閉音で、微かにその人物の頭が動いたような気がした。
 けれど結局、それだけで大きな変化もなく、俺達は外へと足を踏み出す事が出来た。

 そいつは、俺が学校から自宅であるこのマンションに帰って来た時から既にいた。
 ただし場所は多少移動していて、その時はまだマンション正面のガードレールに腰掛け、
この入り口を見ていたと思う。
 こんな寒い日に、ましてや自分の家の前にいたため、けっこうはっきりと記憶に残って
いた。
 確かに同一人物に間違いないが、その時から裕に三時間は越えているだろう。
 年齢からして、そんな風には感じなかったが、もしかしたらホームレスが今日の寒さを
凌ぐ場所を物色していたのかもしれない。

 俺の躊躇はごく一般的な不審だったが、美紀の先程の警戒は、直接的な恐怖が原因だろ
う。
 それは、彼女が部屋番号を入力している時、今まで外にいたヤツが急にマンションに入
り込んで来たからだ。
 俺が部屋からロックを解除してやると、気味が悪く思った彼女は、すぐさまエレベー
ターに乗り込んだ。
 だが、振り返って閉まるドアの隙間から見ると、そいつは絶対自分の方を見ていたと言
っていた。
 俺の部屋に着いた途端、彼女の口から飛び出したその顛末は、いつもの大げさな物言い
だと思っていた。
 だが――

 マンションの外に踏み出した途端、押さえていた感情を吐き出すように美紀は言い募っ
た。
「……なーに、あれ? 気持ち悪ぅ! 何でまだいる訳ぇ?」
 そう言って眉をそびやかし、殊更体を寄せながら、今来た方向と俺の顔を交互に眺めた。
 それに対して俺は、自分でも嫌になるくらいどうでも良い返事をする。
「…誰か待ってんだろ」
 当然の反応で、それを聞いた美紀は不服そうだ。
「そんなのってあるぅ〜? だってすっごい長いじゃん。ストーカーとかさー…」
 彼女の語尾が小さくなった。
 これ以上俺に何を言っても仕方がないと思ったのだろう。

「まあ、いいや。でもさっきの話、考えといてよね」
 それだけ言うと、足早に駅の方へ歩き出した。
 俺はそれにすぐ背を向ける。

――もしかすると、彼女は幾度か振り返ったかもしれない。

 だが、俺の足はもうマンションへ入っていた。

 エントランスに戻ると、変わらずそいつがうずくまっていた。
 いくらエントランスとはいえ、外と隔ててあるドアから三メートルと離れてはいない。
 この寒さの中、こんな場所に長時間いなければならない理由は、確かに興味をそそる事
なのかもしれない。

 ましてやそいつが、どう見ても中学生くらいの年頃の少年、あるいは少女にしか見えな
いとなれば、関心は嫌でも高くなる。
 判別がつかないのは、今日の寒さの対策か、鼻下から首元を厚く覆っているマフラーの
せいだ。

 だが、俺の興味はすぐに他に持って行かれた。
 何故なら今日はまだ郵便受けを見ていなかったから。

 そろそろ、来ているかもしれない――

 そんな気持ちが、郵便受けへと足を踏み出させた途端、目の端で何かが動いた。
 すっかり気を奪われていたため、驚いて体が固まる。
 いきなり目の前に現れたのは、先程までうずくまっていた人物で、これで襲われたりし
たら、あっけなくやられてしまっただろう。
 けれど彼(女?)が俺の方に差し出したのは、刃物でも鈍器でもなかった。


 白い封筒――?


 一瞬心臓を掴まれた気がした。
 何でこれをこいつが――?

 頭が混乱しているのが分かる。
 俺は幾度もその白い封筒と寒さで赤くなった指の持ち主を見比べた。
 だが視覚は封筒の方に集中してしまっていて、その人物の輪郭さえ捉えられなかった。
 そしてやっと気がついた。

 これは…、違う……!

 よく見ると、その手紙に書かれた宛名は親父のものだった。
 真っ白な封筒の中央に、『立野伸二 様』とだけが書かれている。
 それほど上手な字だとは思わないが、何となく女性の筆跡のような柔らかさを感じた。
――そう、筆跡が違う。
 その事に気が付くと、ようやく動揺も収まって来た。
 そして改めて、目の前に立っている人間を見定めた――

 身長は俺より頭一つ分低く、サイズの合っていない大きな黒いコートを着込んでいる。
 ひざから覗いているのは濃紺のスリムジーンズだが、見るからに良く履き込んだもので、
それがコートの野暮ったさとあいまって、少し薄汚れた印象を与えていた。
 また、靴も同様に年季が入っており、外見のデザインなどで選んだ様な物では無く、い
わば学校指定と言った感じの色合いのぼけた、質素なスポーツシューズを履いているため、
やはりどう見ても、俺の一、二歳年下――、中学生の男子にしか見えない。
 男子に判断が寄ってしまうのは、服装の色味とやや肉感が薄いせいだが、厚手の毛糸で
幾重にも巻いているマフラーから覗く目元を見ると、その優しげな瞳は女の子のようでも
ある。

 俺は少し考えて封筒を受け取った。

 それは、こんな状況で待っていた理由が、俺にも関係があった事に興味をそそられたか
らに他ならない。
 それが例え、本当は親父に付加した関係だとしてもだ。

 一旦は郵便受けに向けられた関心が、再び目の前の人物に戻って行く。
 受け取った封を裏返すと、『高岡明子』という名前が目に入った。

 高岡明子――?

 聞いた事のない名前だ。
 怪訝そうに名前に見入っている俺を、彼はじっと窺っていた。
 俺が知らないとなれば、やはり受取人である、親父本人に確認が必要と言う事になるだ
ろう。
 思わず口からため息が漏れる。
 言わなければならない事に、少々気が重くなったからだ。

「……悪いんだけど、これをうちの親父に渡しに来たんならここにはいない。正確に言う
とここにはあまり――いや、ほとんど帰って来ないから…」

 少年はそれを聞くと、少し考えるように眉を寄せた。
 こんな長い時間、ここで待った成果がこれでは、誰でも納得は出来ないだろう。
 やはり何か重要な用事なんだろうか。
 こんなに長い時間待てるのなら、とても緊急を要するには思えないが。

「俺の方で、親父の会社に送っとくけどそれじゃあダメかな?」
 実際俺に出来る事はこの位だ。
 出向と言う名目で、親父は他の都市で働いている。
 生活費を送ってくれてはいるが、もう何年も会っていない。

 また他の事を考えそうになった――
 その時、彼ははっきりと俺に向かって言った。

「ここに行くようにって言われて来たんです。母さんに――」
 そしてその声は少女の声だった――。

(つづく)