部屋を空けていたのは十分にも満たなかったというのに、戻ると確実に室温は下がって
いた。

 ダイニングにエアコンがある事をずっと忘れていた。
 スイッチを入れると、放っておかれた不満を吐き出すように、埃っぽい臭いと生暖かい
風を送って来た。

 まあ良い。
 とにかく温まってくれれば。

 テーブルの椅子を引き、適当に座るように言ってキッチンに立つ。
 湯沸しから熱湯をヤカンに注ぎ、二人分に足りる分量を入れ、沸騰させるためにコンロ
に掛ける。
 ガスの炎で少しは室温も上がるだろうが、換気扇を回せばチャラかもしれない。
 焦っているのか、下らない事が気になると自分でも思う。
 そんな回らない頭で食器カゴを見まわし、来客用などあるはずもないので、美紀が勝手
に持って来たカップで代用させてもらう。

 湯から沸かしているので、ヤカンはすぐに蒸気を吐き出し始めた。
 インスタントのコーヒー粉末を二人分のカップに入れ、熱湯と注ぎながら逡巡する。

 何故部屋に上げたんだろう――。

 一般的に考えれば、こんな時刻まで待たせてしまった上に――しかも今日の寒さだ――
門前払いは出来ないという事が言えるだろう。
 だが、そんな理由ではない事は、自分が一番分かっていた。


 あのままにしておく事が俺にとって我慢ならなかったのだ。


「名前は?」
 俺はコンロを見ながら尋ねた。

「…なつめ、…高岡なつめ、…です」
 室温は上がりつつあるのに、その声は未だ震えている様だった。
 所在なげな様子が息遣いで伝わってくる。

 気を鎮める様にコーヒーのカップを自分と目の前にいる――、声を聞いて、少女という
判断を下した――彼女の前に置いた。

「…俺は……瞬、立野瞬…」
 ようやくそれだけ言うと、少女は目線を上げて俺を見た。
 俺はそれをかわしながら話した。

「…さっきの話なんだけど、何でここに来る様に言われたのか教えてくれないか?」
「……」
 彼女…、なつめは俺に渡した封筒を見つめた。
「…多分それの中に書いてあると思うんですが……」

 事情があるのは簡単に予想がついた。
 言われるままに俺は、親父宛ての手紙の封を切り中を見る。
 すると――

――暫くの間この子を預かってください。よろしくお願いします。

 中身はそれだけだった。
 拍子抜けするくらいに短い文章に言葉が出ない。
 俺の様子を窺っていた少女の顔も、その様子で不安に曇る。
 俺は手紙をなつめに差し出した。
 そしてそれを見た彼女も、その簡素な内容に驚いている様だった。

 嫌な気分になった。
…胃がムカムカする。
 俺は徐々に苛立ちが強くなるのを感じた。

 すっかり押し黙ったった俺の態度を見て、何とか状況を説明と思ったのだろう。
 寒さで赤くなっていた手を揉む動作をしながら、ためらいがちになつめが口を開いた。
 既に部屋の中はずいぶんと暖かくなっているというのに、彼女の体には伝わってない様
だ。

「…私も良く分からなくって…。どうなってるのか…」
 そう前置きすると、目線をどこかにさ迷わせる様にしながら話し出す。
「……今日学校から家に帰ったとき――うちは夜お店をやってるんで、いつもならその時
間に起きてるって事はめったにないんだけど――、旅行用のバッグを持った母さんが出て
来たんです…。すごく慌ててる感じで、この手紙を渡すと、ここの住所と行き方を教えて
くれて…。…暫くそこに居させてもらえって、家には帰って来たらダメだって…。それだ
け言うと、外に停めてあった車に乗って――」

 ガタンッ!

 俺は立ち上がっていた。
 あまりに勢い良く立ち上がったので、座っていた椅子が足元に倒れる。
 そんな事はお構い無しに部屋に戻ると、携帯のメモリーから親父の携帯のナンバーを探
し電話をかける。

 声なんか聞きたくない。
 自分からかけた事も数回しかない。

 でも、今回だけは出て欲しいと思った。

 だが、そんな願いなど、相手には届くはずが無かった。
「…ただいまお客様はお電話に出られない状態か、電波の――」
 切り替わった途端に通話を切断し、ベッドに投げ捨てる。
 馬鹿らしい。

 一体何を期待してたんだ?


 のろのろとダイニングに戻ると、怯えた少女の姿が目に入った。
 足元に転がっている椅子を元に戻し、ゆっくりと座り直す。

 それから暫く俺は押し黙ったままだった。
 何に苛立っているのか分かるはずの無い彼女は、自分がここに来た事に腹を立てている
と思ったに違いない。
 確かに突然、見ず知らずの人間が訳の分からない用件でやって来ている事に気分が良い
はずは無い。
 けれどこの苛立ちは、そんな所から噴き出したものじゃなかった。

「…ごめん。びっくりさせて…」
 やっとそれだけ言うと顔を上げ、なつめの様子を窺った。
 それを聞いたなつめは、まだ怯えた表情を含んだまま、ややうつむき加減で首を振った。
 そんな彼女に対して、自分の苛立ちを言葉に挟まないようにしながら、ゆっくりと言葉
を選んで口を開く。

「…親父には今連絡がつかなかった。やっぱり明日、会社に連絡を入れるのが一番手っ取
り早いと思う。…だから、」
 その後の言葉が出てこなかった。


――だから、どうするか君が決めろ。


 いつもなら簡単に言える事だった。
 こんな状態の彼女に選択の余地なんか、ありはしないのに。


「…変な事頼んじゃってすみません」
 椅子を引く音がした。
 顔を上げると、彼女は来た時に巻いていたマフラーを手に持って頭を下げた。
「ごちそうさまでした。…やっぱり家に戻ってみます」

 はっきりとそう言った。
 俺はその言葉をただ聞いているしかない。
「母さんも、もしかしたら帰ってるかもしれないし…」
 そんな事はないと、分かっている様な顔だった。
 あと数分で日付も変わる。
 こんな時刻、しかもこんな状況で、一人家に帰る事を諦めている様に見えた。

「……電車、まだ大丈夫なのか?」
 ようやくそれだけが口から出た。
 なつめは少し間を置いて、玄関の方に顔を向けながら言った。

「…そんなに遠くないですから。…お邪魔しました」


 ドアを開けると外の空気が入り込んできた。
 気温は更に下がっている様だ。
 廊下に出ると、なつめは再び小さく頭を下げ、そして背中を向けて去って行く。
 そんな姿を見ていたくなくて、俺は急いでドアを閉める。
 薄情な俺を責めるかの様に、やけに大きく音が響いた。
 それが治まり、遠ざかる彼女の足音が聞こえ始めると、ドアに頭をつけて息を吐く。
 そのままじっと耳を凝らしていると、その音がやがて止まり、少し経った後にエレベー
ターの昇降音が聞こえて来た。
 エレベータードアの開閉音を聞いても、俺はその場を動けずにいた。

「置いて行かれたんだ……」

 口に出すと酷く空々しかった。



――何で一緒に連れて行ってはくれなかったんだろう…。
――邪魔だったんだろうか…?

――俺は、邪魔だったんだろうか――?



 気付くと靴を突っかけて、俺は玄関を飛び出していた。
 家の廊下前から斜めに下を覗けば、エントランス正面から出た道路が見える。
 数時間前までなつめが座っていた、ガードレールがやけに小さい。
 だが見下ろして暫く待ってみても、彼女の姿は現れなかった。
 俺はそのままエレベーターに向かうと、降下ボタンを苛立たしく叩いた。

 やっと来たエレベーターに乗り込むと、美紀が言っていた事が実感される。
 のろのろと降下する箱に悪態を吐きながら、俺は必死に呼び止める言葉を探していた。
 そして一階に到着すると、エントランスを抜け、マンション正面に出る。
 外気は肌に刺さる様な寒さだ。
 白く靄がかかっている頼りない街頭の下で周りを見まわし、少女の姿を探す。

 この時間、住宅街であるこの辺りは、もう人の影も無い。
 明かりは灯っているものの、あまりの静寂さに、周囲の家々には誰も存在しないのでは
と思う事が良くある。
 今日もまたそんな感覚に陥りながら、マンションから左右に延びている道へ頭を巡らせ
た。
 道は比較的真っ直ぐで見通しが利くが、すぐにそのどちらにも少女の姿が無い事が分か
った。
 なつめが何処からやって来たのかが分からなかったが、ただ見知った人間でないという
だけで、何となく駅に向かったと考えた。
 それならこの時間だから、走って行ったのかもしれない。
 顔をそちらに巡らしながら、ふと、赤の他人のために何故こんな事をしているんだろう
と考えた。


 こんな事をしても、何も変わらないのに。


 ……カツン。

 ……カツッ…。

 そんな時、背後から規則的に聞こえる音が近付くのが分かった。
 これは非常階段を降りる音だ。
 振り返ると、やはりそこから誰かが降りてくるのが階段の格子越しに見える。
 一段一段、深夜での音に気遣ってか、ゆっくりと下りて来る様子が分かる。
 しかしそれも、一階の部分に到達する直前に、マンションの壁に遮られて見えなくなっ
た。
 だがまだ音は続き――、やがて途絶えた。
 足音の主が非常階段から地面に到着したに違いない。
 このマンションの住民で、非常階段から降りる人間など、そこに繋がる駐車場に出る目
的の人間で、かつ階数が浅い住民しかいない。
 ましてや深夜など、暗い階段を選ぶ方が少ないだろう。
 俺は確信にも似た感覚を覚え、目を離す事が出来なくなった。

 ついに駐車場からのドアが開き、顔を出したのは…、やはりなつめだった。

「…あ」
 驚いているのは俺も同じだ。
「どうして…?」
 俺の発した問いの答えを考えているのか、彼女はゆっくり俺の側に寄る。

「…こんな高い所ってあんまり登った事なかったから、途中から非常階段で降りて来たん
です」
 暗くなければもっと良かった、そう言って笑った時に白い息が漏れた。

 今度は俺が口を開く番だった。
 でも俺から出たのは、この言葉だけだった。

「…待っても帰って来ないかもしれない。…だから、待たないほうが…良いと、俺は思う
…」
 誤魔化した主語は、なつめと俺の共通項だったが、何も話していない彼女には分かるは
ずが無い。

 なつめは暫く俺の顔を見ていたが、その間俺は、足元に視線を落としてしまった。
 俺は所在無く彼女の足と俺の足が立っている位置を見比べる。
 どちらも酷く不安定で、暗く冷たい氷上に立っている。
 そんな感覚に囚われていると、ふっと白い息がまた漏れるのが分かった。

「そうかもしれない…」
 その声に顔を上げると、目の前にあったのは、年齢に似つかわしくない達観した顔だっ
た。
「…母さん、いろんな所からお金を借りてたから…」

…白い息が。

「…もしかすると、本当にもう帰らない可能性はあるって…思ってたけど…」

…途切れ途切れに吐き出される。

「でも、他に行く所もないし…」

 体に感じる寒さが更に増した様な気がした。
 音が辺りに染み込んでいく度に気温が下がる。


――戻って来ない。
――戻って来なかった。
――俺の場合は戻らなかった――


「…うちにいれば良い」

 俺の息も白い。


 同じだ…。

 あの時と――


 足元に落ちる物があった。
 ひらひらと空から舞って来る。
…それもまた白かった。

(つづく)