「‥‥本当に良いんですか?」


 カギを開け、先に俺が玄関を上がっても、なつめは靴を脱がずに
そう聞いてきた。今日会ったばかりの――――しかも問題を抱えて
いる――――人間を、家に招き入れるのが信じられないというとこ
ろだろう。


「‥ここには俺しか住んでないし、部屋はあるんだ。それに親父に
用があるのなら、ここにいる理由にはなるよ。」


 なつめはまだ上がってこようとはしなかった。一旦出て行った事
を躊躇しているのかもしれない。それとも俺が、下心を持って招き
入れていると考えているのだろうか。
 そう考えるとあまり気分の良いものじゃない。


「‥‥別に何にもしないよ。君も見たと思うけど、俺には一応、付
き合ってる奴がいるから‥‥。まあ、『だから何もしない保証があ
るのか?』って言われると困るんだけどね。」

「そんな事じゃないです!」


 俺の言おうとした事がわかり、すぐに打ち消した。ちゃんと納得
のいった上ではないと、上がらせるのは無理らしい。こんな所で粘
られても困るので、何か適当な事を行って上がらせてしまおうと向
き直った。


「‥多少であれ、もう関わったんだ。気にしない事の方が難しいだ
ろ?君が今家に帰って、もし何かあった場合を考えてくれ。‥俺で
なくとも嫌な気持ちになるよ。」

「でもとりあえず、俺がやれる事をした後で帰したんなら、それは
『しょうがない事』として割り切れるんだ。君の事を心配してるな
んて思わなくて良い。俺はそんな厄介な気持ちになるのがゴメンな
だけなんだから。」


 果たしてこんな事で納得がいくかはわからなかった。でも、なつ
めは他に行く当てがないと言っていた。彼女自信不安なはずだ。納
得しなくてはならないと思ってくれるかもしれない。



 彼女は暫く自分の足元を見て考えている様だった。果たして、俺
の読みは当たった。靴を脱ぎ、いったん体の向きを変え、きちんと
揃え直して俺に続いた。
 だからそのまま自分の部屋に案内する事にした。確かに部屋は他
にもある。だが、長い間使っていない部屋へ、他人を泊めるのは気
が引けたからだ。


 部屋はさっき出て行った時のままで、ベットの上が乱れていた。
掛け布団を直しながら、変なものが無いかを確かめる。ゴミ箱が目
に付いた。



 あそこには‥。



 何気ない振りをして手に持ち、少女からは見えない様に後ろ手に
まわしながら喋る。


「今日はここを使ってくれないか。シーツや、カバーなんかも俺か
使っていたままで悪いんだけど‥‥。」

「そんなのは良いんです‥。でも、立野さんはどこで寝るんですか
?」


 少女の顔からは、俺の不審な行動の意味は読み取られていない様
に見えた。内心の安堵を隠しつつ続ける。


「隣の部屋にも布団ぐらいあるから。」


 本当は布団ぐらいしかないのだ。その部屋は、元は親父のものだ
った。帰る主のない部屋に、物があっても仕方がない。

 そんな事を考えていた俺に、申し訳なさそうに彼女が言ったのは、
自分がその部屋を貸してもらうという事だった。


「‥‥この部屋が気に入らないなら仕方ないけど、気を使ってるん
なら、その部屋に行かれるよりこっちの部屋にしてくれた方が助か
るんだけど。」


 そう言うと、それ以上はなつめも何も言わなかった。




 それから最初にしたのは風呂に湯を張る事だった。

 一人暮しになってから、面倒臭さが先に立ち、風呂に入らずシャ
ワーで済ませている。そのため、浴槽にどのくらいで湯が溜まるか
の時間がわからない。何度か水量をチェックしに立ち上がりながら、
その半端な時間を、彼女に質問する事でつぶす事にした。


「‥君はいくつなんだ?」

「14‥中2です。」


 やっぱりそのくらいか。


「さっき聞いた話‥‥。つまり、君の母さんは、借金を返せなくっ
て出て行ったのか?」

「‥‥はっきりそう言ったわけじゃありません。でも多分そうなん
じゃないかと思います。」


 この質問はなつめには辛い話だと分かった。確認だけで良いと思
い、一番知りたかった事に質問を変えてみた。


「‥‥うちの親父と君の母さんって、どんな知り合いなんだろう‥
‥?君は俺の親父を知ってるのか?」


 俺が知っている親父の事なんて、わずかなものだ。名前を知らな
い親類や知人がいたっておかしくない。だからこの質問をしてもど
うなる事では無いのかも知れないが。


「‥知りません。名前を聞いても分からなかったから‥。でも、名
前を知らないだけかもしれない‥‥。うち居酒屋なんで、そういう
お客さん多いから‥。」

「でも‥‥、親父はここ数年帰って来てないはずだし‥。」


 そこまで言った所で気がついた。何も俺の所に帰ってこないから
と言って、この町に帰って来ていないという事は分からないのだ。
ただ、こんな事態の時に頼って来させるのは、普通の客以上だとい
う気もしたが、そんな事も考えられない状況だったという事もあり
える。結局、俺は親父の事など何も知らないという事なのかもしれ
ない。


「あの‥‥。」


 おずおずとなつめが口を開いた。


「実は‥、家がこの近くだっていうのは‥‥ウソなんです。」


 自分の考えに入り込んでいた俺は、いきなり現実に戻された。


「何だって?」


 俺の声の大きさに、彼女は一瞬びくりと体を震わせた。


「‥‥ごめんなさい。」

「ごめん‥‥とかじゃなく、じゃあ‥‥。」

「‥ここからだと乗り換えの所までにも30分はかかります。そこ
から、急行で1時間半ぐらいで‥‥。」

「じゃあ、もう帰る電車なんかないんじゃないのか?」


 なつめは俺の声に申し訳なさそうに目を伏せた。


「‥‥ごめんなさい。でも、始発まで待ってもそんなでもないと思
って‥‥。」


 そんなでもない?この気温の中で?俺を待った3時間でそれはわ
かっているはずだろう‥‥。そう考えた時、ふと思い出した。


「‥‥‥君、俺が家にいるのが分かってたんじゃないか?」


 そうだ、俺が家に入るときに俺が分からなかったとしても、美紀
を見て、部屋を確認していた筈だ。いや‥‥、出来なかったのか?


 ‥そう、だよな。分かってたら、俺たちが出て来るのを待つ理由
が分からない。何馬鹿な事言っているんだろう。
 そう思った時、彼女ははっきりと言い切った。


「‥‥知ってました。」


 無意識に唾を飲み込んでいた。やっぱり―――知ってた。


「‥‥でも母さんが、男の人と女の人が一緒に部屋に入った時は、
‥‥邪魔するなって‥‥。」


 自分がとてつもなく汚い物の様に感じた。俺が美紀とこの部屋で
している事をすべて知っている訳ではないのに。


 ‥いや、―――知らないで欲しいのか―――?


 なつめに自分の姿をさらしているのが酷く恥ずかしい。後ろ手の
ゴミ箱をつかむ手に力を込もる。居たたまれずバスルームに向かっ
た。

 俺を、―――なつめが目で追うのが分かる。バスルームのドアを
閉めると、俺の周りは湯の溜まる音で一杯になった。手にはまだゴ
ミ箱を握っている。酷く滑稽な自分。


 なんで‥


バスタブに落ちる湯を見ながら、暫くはそこから動けなかった。




 ようやく湯が溜まり、なつめに先に風呂に入るように勧めた。さ
っきの俺の行動を気にしている様で、何も言わずに素直に従った。

 気になった事は、彼女の持って来た荷物らしいものが、小型のデ
イバッグくらいしかないという事だ。やはり、母親に言われたもの
の、見ず知らずの所に長く留まるつもりはなかったのかもしれない。


 一通り簡単に、シャワーや給湯器の説明をし、置いてあるものは
使って良い事を言うと、なつめはバスルームへ引っ込んだ。


 その後で俺は慌てて自分の部屋に戻った。

 理由は3つ。
 さっき持ってきてしまっていたゴミ箱を戻すためと、せめて新し
いバスタオルでもなかったかと探すため―――――、それとどうし
ても隠さなければならない物があったからだ。


 部屋に入りゴミ箱を元の位置に戻し、すぐに本棚に近付く。

 下から3段目の棚に並べてある本を端から数冊取り出すと、今ま
で本の高さで隠れていた、白い封筒の束が顔を覗かせた。全部で8
つ、そのうちの3つは封が切られていて、少し黄ばんでいる。残り
の5つはまだ新しく、封も切ってない。

 宛名は俺の名前――――立野瞬 様――――と書いてある。さし
て特徴のある筆跡ではないだろう。

――――きっと俺以外の人間にとっては。

 そして差出人の名はどこにも書いていない。


 それを取り出すと、ジーンズの背中のポケットに押し込みながら、
本を元あった所に戻した。

 バスタオルは何処にあっただろう。引っ越す前の家はここよりも
大きかった。来客用の物もすべてきちんと‥‥‥が用意していた。
この家には必要のない物が、以前の家には沢山あった。以前の家は
‥‥。


 ふと気が付いて頭を振る。全く、今日は何でこんなに‥‥。


 俺が動く度に、ジーンズの中の封筒がガサガサと音を立てる。そ
の音がやけに耳をつき、更に俺の気持ちを苛付かせた――――。




 暫くすると、上気した顔でなつめは風呂から上がって来た。風呂
が熱すぎただろうか?


「あの‥‥、これ有難うございました‥」


 そう言って、さっき出しておいたバスタオルを俺の方に差し出し
た。受け取る時にかすかに指が触れた。やっぱり熱い。


「ごめん、風呂熱かったかな?」


 顔を覗きこむ様にして俺が言うと、なつめは自分の手を頬に当て
て触った。心持動きも緩慢に見える。

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「え‥‥?いえ、丁度良かったですよ。体が温まりました。ちょっ
と気持ち良くて長く入ってたから‥‥。」

「‥‥じゃ、俺も入るけど、疲れてるなら先に休んでて構わないか
ら。」


 それを聞くとなつめはちょっと申し訳なさそうに、
「‥すみません。‥‥じゃあ、お先に休ませてもらいます。」


 そう言って俺の部屋に入って行った。

 俺は自分のジーンズのポケットに手を置きながら、それを見送っ
た。





 風呂から上がって、横になったのは4時近くだった。この部屋は
使われていなかった分のすえた匂い溜め込んでいる。布団も妙に湿
っぽい。暫くは眠れず寝返りばかりを打っていた。


 変な感じだった。


 ここに泊まったのは、何もなつめが初めてなわけじゃない。週末
に美紀が泊まる事なんかよくある事だ。

 今日会ったばかりの―――誰とも知らないやつが同じ家の中にい
る―――――。それなのにこの感じはなんだろう?

 今、俺の部屋で寝ているのは、俺が一番良く知っている‥、俺自
身の様な気がしてる‥‥。


 ‥馬鹿げた話だ。そんな事を考えながら、気がつくと眠っていた
らしい。


 手紙はまだジーンズのポケットの中に入ったままだった――――。
(つづく)