目が覚めると、既に日が高くなっているのに気が付いた。
 閉めきりで日に焼けたカーテンを通し、朝の光をぼんやりと眺め
る。

 心なしか頭が重く、まだ寝足りない感があった。昨日起こった事
が多すぎてうまく整理ができない。
 その間にも時間は刻々と過ぎていった。今日は平日で、起きた時
刻ですら、普段ならとっくに家を出ている時間だったかもしれない。


 まあいい。どうせ今日は親父に連絡を取らないとならない。学校
へは行けたら行く事した。そう決めるとようやく起き上がった。

 体にまとわり付く忌々しい掛け布団をはぐと、急に寒さが体を包
む。早々に部屋を出て、ダイニングへ向かう。昨日まで忘れていた
エアコンをオンにすると、幾分かましになった風を吐き出しつつ、
部屋を暖め出した。


 そうしてやっと、人心地付く事ができた。


 ダイニングは昨日俺が最後に見たのと何ら変わりなく、なつめが
起き出した様子はない様だ。やはりまだ寝ているんだろう。

 そう思って時間を確かめようとしたが、自分の部屋に行かなけれ
ば、時刻はわからない事に気が付いた。時間だけなら家に据え付け
の電話でも調べられる。だが、親父の会社の電話番号は、自分の携
帯の中だ。それも昨日部屋に放ったままだったのに気が付いた。


 仕方ない、起きてもらうしかないか。




 部屋のドアをノックする。自分の部屋をノックするなんて変な気
分だ。



 暫く待ったが返事が返って来ない。幾度か叩いても一向に返事が
ないので、仕方なくドアを開けてみる事にした。


 この部屋は東向きで、カーテンが閉まっていても、さっき俺がい
た部屋より幾分明るい。掛け布団の隆起で、なつめがそこにいるの
がわかる。あまりそちらに顔を向けない様にしながら、携帯を探す
事にした。

 だが確か、携帯はベッドの上に投げ捨てたはずだ。


眠るときに何処かへ置いてくれたとは思うんだが‥。そう思い、辺
りを見まわしていると、部屋に入った時には気がつかなかった、規
則的な呼吸音が耳に入って来た。

 その音は確かに規則的だった。しかし、それはかなり早く、とて
も苦しそうに聞こえる。俺は急いでなつめの顔を覗き込んだ。


 すると俺の目に飛び込んだのは、薄明かりでも、はっきりと分か
る程に赤くなった頬だった。額にはうっすらと汗も滲んでいる。


―――――原因は明白だ。昨日あの気温の中、長時間俺を待ってい
たせいだ―――――。


 風呂の後に赤い顔をしていたのは、その時既に熱が上がっていた
のかもしれない。

 俺は自分のうかつさを呪った。何も気付いてやれなかった事に愕
然としていた。だが・・?



 どうして‥‥?いつもなら誰がどうなろうと知った事ではないと
思っていたのに―――――?



 でも、それは自分が一番よく分かっていた。分かっていたから混
乱していた。そしてとてつもなく自分が嫌になる。


――――――俺はこんな事をしてもらいたかったのか?


 あの時も、――――――今も?

 だからこいつを放って置けないんだ。自分自身の為だけに―――
――。


 不意になつめが目を開ける。人に気配に気が付いたのかもしれな
い。
 俺の方に顔を向けると、不思議そうな顔になった。


「あ、‥‥。」


 熱のせいでぼうっとしているらしい。暫くして状況を飲み込むと、
起き上がろうとした。だが体を起こそうとして、それを果たせない。
 それを見た俺は、胸の辺りが重くなるのが分かった。


「良いからそのままでいろ。今なんか‥‥、」


 そこまで言って、でもその後、一体どうすれば良いのか分からな
いのに気が付く。

 医者を呼んだほうが良いのかもしれない。けれど、俺自身、病気
の時に医者を呼んだ事がない。

 薬‥‥。それもあったかどうか分からない。そんな逡巡がなつめ
にも見て取れたのか、


「ごめんなさい‥。大‥丈夫ですから‥‥。」と切れ切れに答えた。


 それを聞いて、考えている暇はないと分かった。


 足早に部屋を後にする。とりあえず今出来るのは、タオルを濡ら
してなつめの額にのせる事ぐらいだ。

 こんな状態では、触れただけで切れそうに冷たい水温が有り難い。
急いで部屋に取って返すと、少女の額にタオルをのせてやる。

 冷たさに反応して、なつめが再び目を閉じた。


「少しの間これで我慢しててくれ。」


 そう言うと、自分の着替えを持って部屋を出た。




 外は気温に反して穏やかに晴れていた。昨日の雪も短時間でやん
でしまったんだろう、何処にも痕跡が見当たらない。出勤や通学時
間からずれてしまっていた為、家の周りに人は少なく、閑散とした
道路を歩きながら、考える。

 医者に関しては、保険証などの事が厄介だ。もちろん全額負担も
出来ないわけじゃない。でも、それは最終手段として考えるとして、
ともかく市販の薬を飲ませてみよう。

 そう決めると、馴染みの薬局があるわけでもないので、とにかく
駅の方へ向かった。


 5分ほど歩くと、駅の手前へ続く商店街にさしかかった。最初に
目にとまった薬局へ入る事にし、慌てた態度を努めて隠そうとした。


 入った店は、商店街の端にある薬局ふさわしく、こぢんまりとし
た店舗だった。小人数でのゆったりとした品出しの最中で、店員も
レジにはいない様な状態だ。薬の並べてある棚を探したが、風邪薬
は、レジ横のカウンターの後ろにあり、店員に言わないと取れない
様になっていた。

 この薬局に入った事を半ば後悔しながら、どうせ自分ではどんな
ものが効くのかわからないのだからと諦め、声をかけた。気付いた
店員は、白衣がやけに大きく感じる背の低い老女だった。


「風邪薬が欲しいんだけど‥。」


 それだけを言うと、おそらくその様な事を日に幾度も応対してい
るらしく、「ああ、」と言いながら、レジに向かった。


「熱はあるの?」

「あ、けっこう高いと思うんですが‥。」


 そう言うとカウンターへまわり、薬の置いてある棚に手をやると、
二つの箱を取ってこっちに差し出した。


「鼻水が出る様ならこれが良いわね。咳が酷いなら漢方薬が入って
いるこれなんかが良いと思うわよ。どちらにせよあまり酷い様なら、
お医者に行かないと直りませんけどね。」


 そこで一拍置いて、俺の方を見る。俺は視線を合わせられなかっ
た。


「市販のものじゃ、一時に症状を軽くするだけだから。」


 視線を元に戻すと、彼女は続けた。恐らく誰にでも言う同じ言葉。
そして他の人間には何でも無い事なのかもしれない。


 家を出る前の逡巡が蘇る。



 そんな事は分かっているのに‥‥。



「体力が落ちている様なら栄養剤と一緒に飲んだら良いかもね。」


 こちらの気持ちに構わず店員は続けた。けれど今はそれに救われ
た。


「食後に飲むのよ。」


 代金を支払い、釣りを渡しながらもその口は休まらなかった。そ
れを受け取ると俺は足早に店を出た。




 家に戻る途中にある、コンビニに寄って、レトルトの粥とミネラ
ルウオーターを買った。そこで時計を確認すると、まだ外に出て2
0分と経ってない。

 けれど気は急いていた。なつめの容体が気になったのもある。け
どそれよりも気になったのは‥‥。




 玄関の錠を外し、キッチンに荷物を置き、真っ直ぐ自分の部屋に
向かう。ドアの音を立てない様、そっとノブを回したが、足を入れ
た途端床がきしんだ。

 心臓が踊る。暫くそのままの姿勢でいたが、部屋の中の様子は変
わらなかった。


 ゆっくりベッドに近付く。


 ‥‥いた。


 なつめは出て行った状態のままで荒い息を吐いていた。額にのせ
ていたタオルが枕元に落ちているのを見つけ、買い忘れがある事に
気付いた。

 貼って熱を下げるタイプのシートがある事ぐらいは俺でも知って
いる。
 だが、もう一度外に出ていく気にはならなかった。

 指がなつめに触れない様、慎重にタオルだけを取ると、キッチン
へ取って返した。

 レトルトの粥を加熱容器に移し替え、電子レンジに入れる。その
間に風呂場に行き、洗面器に水を張ってタオルを浸す。氷を入れな
くても十分過ぎるくらい水は冷たかったが、部屋に置いておくと温
かくなるだろう。冷凍室に氷は―――――しまった。


 急いで部屋に戻った。俺の部屋にあるのは小さな温風ヒーターだ
けだが、これでも点けているのといないのでは、格段の差がある。

 特に風邪をひいて熱のある時は、暖めた方が良い筈だ。そんな事
も忘れていたなんて。


 ヒーターは点火すると、すぐに温風を噴出し始めた。サイズに似
合わず大きな音を出す事を、腹立たしく感じながら、なつめの様子
を窺う。


 変化はない。この音に反応出来るような元気もないのかもしれな
いが。そんな事を考えていると、キッチンの方から「ピー」という
音が響いた。



 キッチンに向かいレンジを開けると、中から勢いよく湯気が立つ。
そこで気が付いた。考えてみれば、物を運ぶお盆なり、トレイの様
な物がない。自分一人の時には、特に必要を感じなかったからだ。


 仕方なく、何度も部屋とキッチンを往復する事になる。せめても
の救いは、小さいながらも部屋にテーブルがあった事だった。

 いつもは隅に追いやられているテーブルを、ベッドのそばに移動
させ、最初は粥とスプーンを運び、次にミネラルウオーターとグラ
スを運んだ。

 最後に、何時作ったか分からない、霜の張った製氷機の氷を入れ
た洗面器とタオル。それらを全て運び終え、やっと腰を落ちつけ彼
女を起こす事にした。


「なつめ」


 言ってから「しまった」と思った。

 俺の中では既にそう呼んでいた。それが口を突いて出てしまった。
それだけの事だが、以前にはなかった事だ。

 しかし、今の彼女は俺の動揺を感じるゆとりもないようだ。

 なつめは俺の呼びかけに反応を示さなかった。布団の上から軽く
体を揺すると、やや間がありようやくとがまぶたを開けた。


「‥‥」


 何か言葉をかけようと思った。



  ――――大丈夫か?



 だがやはりそんな言葉は出てこなかった。


「‥薬、買ってきたから‥。取りあえず腹に入れて‥飲めよ。」


 それを言ってしまうと、次の行動が思いつかず彼女の方を見てい
るだけになった。

 なつめも俺の言葉に反応するのに時間がかかっている。
 そのまま少しの間、俺たちはぼんやりとお互いを眺めていた。



 そして先に行動を起こしたのは、病人のなつめの方だった。布団
から起き上がろうと体をずらす。



 ゆっくりとした動き。
 頭にのせていたタオルが布団に落ちる。


「‥あ‥。」


 それを見てやっと、手を貸す事に考えがいった。タオルを取って
テーブルの方へよけ、彼女の背中に手を添えた。


 体温が伝わる。


 熱いな‥。

 汗のせいで着ていた服――――今気づいたが、昨日着ていた服だ
った。寝巻きぐらい、言えば貸してやったのに。いや、気が付かな
かった俺が悪いのか――――が、かなり湿っている。


「‥‥無理ならそのままで良いから‥。寝てたら食いづらいとは思
うけど‥。」


 その場合は俺が食わせるんだろうか?

 想像もつかない光景だ。


「‥ごめんなさい‥。‥大丈夫、そんなにフラフラはしないから‥
‥。」


 言っている声からフラフラしている。どこを見ても大丈夫じゃな
い。ふと思いついて、昨日寝た部屋に戻った。


 洋室の俺の部屋には押入れというものがない。

 部屋の大きさも、普段全く入る事のないこの部屋の方が幾分大き
い。

 その上にこの部屋は和室だから、押入れもちゃんとあり、自分の
部屋に不必要なものはここに放り込んである。

 寝るために取り出した布団の下に、座布団が数枚しまってあった。
昨日ここを空けたときに目に入ったものだ。


 この家にあっても仕方のないものだと思っていたが、今は役に立
つかもしれない――――――。


なつめは辛そうだったが、まださっきの姿勢のまま体を起こしてい
た。その背中とベッドの間に、運んできた座布団を斜めに置いてみ
る。一応背をもたれる事くらいは出来そうだ。


「何もないよりは楽だろ?」


肩を軽く押して、寄りかかるように勧める。


「‥‥ありがとう‥。」


 体をもたせかけて深いため息を吐く。


「食べられる?」


 レンジで温めた粥も、良い頃合に口に出来る温度に下がって来て
いる。俺が粥の入った深皿を持ち上げると、少女は俺の方に手を伸
ばした。


「‥いただきます。‥」


 何だか力が入ってないようだ。皿が重く感じられるのか、動作が
やけに危なげだった。

 ようやくひざの上に皿が到達したので、スプーンを渡してやった。
受け取ったスプーンは粥の中に入り、少しかき回す動作をしてから
口元に運ぶ。つと、その動きが止まった。するとスプーンに向かっ
て、2、3回ほど息を吹きかけ出したのだった。

 風邪で考える余裕はないはずなのに、そういった動作は自然と組
み込まれてしまっているものなのか。もうそれほど熱くなくなって
いるというのに。

 ところがそれを見たとたん、今まで何ともなかった俺の腹が動い
た。


「‥‥クゥゥ〜‥」


 はっきり言って自分が一番驚いた。


「‥‥‥」


 少女のスプーンの動きが止まる。俺の動きも止まっている。俺の
顔を見るなつめ。顔の温度が急激に上がる。

 考えてみると、彼女がやって来た後は、俺自身、何も口にしてい
なかった。美紀と午後8時頃にピザを取って食べたきりだ。裕に1
0数時間は経過している。

 こんな事を考えても、この状況が恥ずかしいのはどうする事も出
来ない。

 俺が何も言えずにいると、なつめはスプーンを口元から深皿に戻
した。そして俺の方に差し出して、「‥食べますか?‥」と言って
俺を覗き込んだ。


 恥ずかしさはさらに増す事になった。


「い、いいよ、俺は。後で‥」


 腹を鳴らしている奴が言っても説得力のない言葉だ。それを悟っ
たのか、付け加えてなつめは言った。


「私‥やっぱりそんなに食欲ないんで‥。半分食べてくれると助か
るんです‥‥」


 少女の顔に、俺を馬鹿にしているような表情はない。こんな時で
もそんな事ばかり考えてしまう自分が嫌になる。

 熱で上気したなつめの顔が、じっと俺の方を見ている。その眼に
俺がどう映るかなんて。

 俺は粥の入った皿を受け取った。これ以上何を言っても、恥ずか
しさは増すばかりなのがわかったからだ。そうならば、何でも良い
から腹に入れて、この場をやり過ごしてしまいたかった。

 そういう気持ちで食べたからなのか、それともレトルトの粥がこ
んな味なのか、とにかくお世辞にもおいしいというものではなかっ
た。味がないのだ。

 俺が食べている間、なつめは静かにそれを見ていた。半分を残し
て彼女に渡す。スプーンをどうしようかと一瞬迷ったが、なつめが
手を出したので、そのまま渡す事にした。


 あんなに少量だった彼女の食事は、俺の倍の時間をかけて終了し
た。


「‥ごめん‥‥。あんまりうまくなかっただろ。」


 そう言わずにはいられなかった。しかし、彼女はゆるゆると首を
振って、かすかに笑った。


「‥‥今の状態じゃ、味わかんないから‥。‥ごちそうさま‥‥。」


 水を渡して薬を飲ませる。喉が渇いているんだろう。薬を飲んだ
後に残っていた水を、一気に飲み干した。

 ペットボトルからさらに注いでやると、うまそうにもう一杯飲む。

 それを見ていた俺の喉も渇いていた。


「もっと飲む?」


 そう聞くと、おずおずといった感じでコップを差し出して来た。

 何だか恥ずかしそうだ。食事なんかよりも、水のほうがよほど今
の彼女には必要なものなのかもしれない。


 なつめが3杯目の水を口に含んでいるのを見ながら、ペットボト
ルから直接水を飲む。すると、その光景が珍しかったのか、なつめ
は自分の水を飲みながら、眼だけでこちらをうかがった。俺もその
まま彼女を見ている。

p04.jpg

 ふいにおかしくなった。彼女も同じ気持ちらしい。二人とも、こ
のまま水を飲んでいるのは危険だと悟ったのか、お互い水源を口か
ら離した。その後も、俺たちは何も言うわけではなかった。それだ
けで良かった。



 そんな時、テレビの上に置いてあった携帯が急に震え出した。不
意の出来事に、すっかりその場の空気が変貌する。


 耳障りな呼び出し音が嫌で、いつでもバイブにしてあったが、そ
んな事をしても無駄な事が身に染みた。着信を知らせる限り、物に
当たれば音が出てしまうのだ。


 何だが酷く腹立たしい気持ちだった。仕方なく電話に出てみると、
耳に入ったのは美紀の声だった―――――。(つづく)