『‥あ!瞬?どーしたの?寝坊?』



 せめて他の人間からならば良かった。他の誰からかかってくると
いうのかは分からないが。
 足が勝手に部屋の外に向いた。ドアを閉める前になつめを見ると、
彼女もこっちを見ていた。


「横になってて良いから。」


 それだけを言って部屋を後にした。
 キッチンまで来てから再び携帯に耳を当てると、美紀の語気が荒
くなっていた。


『‥ちょっと、誰かいるの?』


 なつめとのやり取りの時、向こうに会話が筒抜けだったからだろ
う。

 別に聞かれても構わなかった。


「‥俺、今日用事あるんで学校休むから。誰かに聞かれたらそう言
ってくれよ。」


 美紀の質問は無視してそう答えた。もちろん彼女がそれで納得す
るとも思えなかったが、それだけ言って通話を切ってしまった。
 今度は電源もオフにして、キッチンのテーブルの上に置いた。こ
れでもう音を立てる事は出来ないだろう。


 部屋に戻ると、なつめはさっきの状態で、こっちをぼんやりと見
ていた。ただ、手にしていたコップは、テーブルの上に戻されてい
る。


「もう良いのか?」


 それに反応してゆっくりと頷いた。彼女の背中から座布団を取り
除いてやろうとして、手をかける。


「‥‥学校、行けなく‥。」


 ぼそぼそとなつめが言った。美紀の電話が気になったようだった。


「‥別にかまわないよ。」

「‥‥」


 俺が気を使って言っていると思っているんだろうか。だとしたら、
彼女自身は学校へ通う事が好きなのだろう。俺とは違って。


 座布団を全て取り除き終わると、なつめが体を横たえようとした。


「あ、ちょっと待った‥。」


 急にお預けを食らった犬のように、なつめは体をびくりとさせた。


「‥‥?」

「‥服‥、汗かいてるだろ?そのままだと体に悪いと思うからさ‥。」


 そう言ってお情け程度についている、部屋のクローゼットを開け
た。
 あんまり見せられたものじゃないが、この際そんな事は言ってい
られない。中から比較的新しく、洗濯も済んでいるものを探した。

 といっても、寝巻き代わりに着ている上下そろいのトレーナー位
しか無いが。


「こんなのでいいかな‥・・」


 トレーナーをなつめに渡す。彼女はそれを手にとると、俺の方を
見た。


「‥ありがとう‥。」


 そういって弱々しく笑った。



 礼なんか良いのに‥。
 

 そんな事を思いながら、俺は取りあえず、食い終わった皿を片付
け出した。
 水は飲みたい時のために、そのまま部屋に置く事にする。ペット
ボトルやコップを残し、テーブルをベッドからずらして、足元に邪
魔にならないようにしてやった。こんなものだろう。


「じゃあ、俺は自分の食べる物でも買いに外に行ってくるから。」


 そう言ってドアを閉める。外出は、もちろん本当に必要だったが、
それよりも覗く気がない事を強調したかった。それからすぐに俺は
家を後にした。




 外には一時間近く出ていた。どの位で戻ったものか、タイミング
が分からなかったので、まずは自分の食事をファーストフードで済
ませた。
 それから朝買いそびれたものと、夜買い足しに行かなくて良いよ
うに、あれこれと買い込む。自分以外の人間の物を、こんなにちゃ
んと買い込んだのは初めてかもしれない。


 日が射して温度が幾分上がっては来ていたが、寒さが緩むほどで
はなかった。この気温の中を、大荷物を抱えて帰るのは、少し辛い
作業だったかもしれない。




 家に戻り、やっと息の白さから開放された。取りあえず荷物を冷
蔵庫やキッチンに片付け、重さで強張った腕を休める。
 家の中は出て行った時のままで、相変わらずヒーターの音しか聞
こえて来ない。
 買って来た、熱を下げるシート持って、なつめが寝ている部屋に
向かう事にした。


 慎重にドアを開けると、ベッドの隆起が目に入る。薬が効いてい
るのか、さすがに朝よりは楽に息をしているようだ。

 音を立てないように近寄ってみると、はだけた布団から、俺が用
意した服に着替えたのが見て取れる。頭には自分でのせたらしいタ
オルが、ややずれた状態で額に張り付いていた。ベッドに近付いて
みたが、なつめが気付く様子はない。

 どうしようか。

 タオルは取るとしても、シートを張るためには起こさなくてはな
らない。せっかく眠っているものを、起こすのには忍びない。


 しかたがないので、腰を落ち着け、待ってみる事にした。どうせ
今日やらなくてはならない事は――――


 キッチンに置きっぱなしの携帯の事を思い出す。あれで親父と連
絡を取る約束だった。


 電源を入れるのさえ、正直言って面倒臭い。また美紀から電話が
かかって来るかもしれないし、留守電やメールが入っているかもし
れない。そんな事を考えただけで気が重くなってくる。


 昨日は考える余裕も無く、親父に電話をかけたが、こんな風に改
まって、電話をかけるとなると話は別だ。


 電話にあいつが出たら、俺はどんな態度に出れば良いんだろう?
なつめの事にしたって、本人がこの状態では説明がしづらいだろう
し。



 でも、それだけなんだろうか?



 何となくなつめの方を見た。


 眠っている。


 何とも答えが出せずに、そのままぼんやりと彼女を眺めていた。

 そのうちに、室内の温度でまぶたが重くなって来る。それに抵抗
する気も起こらず、そのまま目を閉じた。そうすると、ポケットに
入れたままのものに、神経が行ってしまった。

 暫くは、存在を主張しつづけているの手紙の束を感じ、居心地が
悪かったが、そんな事を考えているうちに意識は遠くなった―――
―――。






 気が付いた時には、周りは真っ暗になっていた。

 ビデオデッキの時刻がぼうっと目に入る。

 16:45

 まだ5時にもなっていないというのに、こんなにも暗くなる。も
う少し低い階なら、それでも外からの光が入ってくるかもしれない
が。


 まだ寝ぼけた頭で様子をうかがっていると、キッチンの方で水音
が聞こえた。

 ふと、ベッドの方を見ると、掛け布団の隆起が低くなっている。
なつめが起きているらしい。
 眠ってから自然に体を横たえてしまった後遺症か、上体を起こす
と節々が痛い。不完全な睡眠は余計に体を疲労させたようだ。



 体をほぐしながら部屋を出て行くと、バスルームからなつめがキ
ッチンの方にやって来るところだった。手には頭にのせていたタオ
ルを持っている。俺に気が付いてちょっと驚いたようだ。


「‥‥あの、起こしちゃいましたか?」


 悪いと思ったのか、おずおずと尋ねてきた。しかし、しゃべり方
でずいぶん楽になってきているのが分かった。


「いや、そんな事より具合、だいぶマシになった?」

「あ、ハイ。‥すみませんもう大丈夫です。」


 まあそれはないと思うけれど、薬が効いたのは確かな様だ。


「‥そうか、よかった。」


 起き抜けの頭は回転が鈍くなっているようで、こんな言葉が勝手
に出て、自分自身を驚かす。やっぱり彼女といると調子が狂う感じ
だ。

 その後、互いに何と言ったら良いかが分からなくなったらしく、
ぼうっと突っ立っていた。そんな状態がだるくなってきたので、俺
の方から椅子に腰掛けた。するとなつめも同じ様に椅子に座った。

 彼女が座った方に目を落とすと、テーブルに携帯がのっていた。
なつめがそれを気にしているのが分かると、約束を守らなかったば
つの悪さを感じた。


「‥あの‥、電話を‥。」


 そう言って、なつめの方から切り出して来た。やはりもう逃げる
事は出来ない様だ。


「‥ごめん‥。‥まだ親父に連絡を取ってないんだ。今から―――
―」
そう言って携帯を手に取ると、少女は慌ててそれを制した。


「あ、あの、違うんです。ええと、連絡は取って欲しいです。でも、
その前に家に電話したいんです。」


 そこまで言うと、彼女の顔は少し曇った。


「‥無駄かもしれないけど‥。」


 俺は自分が昨日言った言葉を思い出す。



 ‥‥待っても帰ってこないかもしれない。

 ‥‥待たないほうが‥良い。



 残酷な言葉だ。


 それでも――――


 俺は黙って携帯を差し出した。なつめはそれをゆっくりと受け取
る。
 まるで誰かに大事なものをもらった時の様に。
 受け取ってからも彼女は少しの間思案している風だった。だが、
つとこちらに顔を向ける。

 ――――ああ、ここにいたらかけづらいのかもしれないな。

 さすがに他人と一緒にいる事に慣れて来たのか、俺ですらこんな
事を思い付く。立ちあがろうと足に神経を向けた。すると、それに
呼応する様に、再び少女の口が開いた。


「あ、あの‥。私‥。使い方‥。わかんないんです‥。」


 今は中学生でも携帯を持っている奴は結構いると思う。けれど、
なつめがそれを持っていないのは、何だかとても彼女らしい気がし
た。


 思わず口元が緩むのを押さえながら携帯を受け取ると、電源を入
れ、なつめに見える様に通話のやり方を見せた。

 やり方とは言っても、受話器を電話からあげる動作が、通話ボタ
ンを押す事に変わって、切る時もボタンになったぐらいの違いしか
ない。
 それでも少女の目には、興味の光がはっきりと見て取れた。


 再び携帯を受け取ると、おぼつかない手付きでダイヤルし、押し
終わると慌ててスピーカー部分に耳を当てる。


 そう急ぐ事はないのに。
 顔も何だか緊張している。それを見ていた俺の方も緊張して来た。



もし母親が電話口に出たら――――。



 馬鹿な事を考えているなと思った。戻って来ていない事の方が、
俺にとっても、彼女自身にとっても、大きな問題だと言うのに。

 だがこういった気持ちを、いちいち打ち消しているのにも疲れて
来た。

 俺は、彼女がここにいてくれる事を望んでいるのだ。認めたくは
ないが、なつめの状況に関与することで、自分にも何か答が見つか
ると期待している。
 そんなはた迷惑な事をこの少女が知ったら、俺の所からすぐに出
て行ってしまうに違いない。

 だが――――。


 そのままの状態が1、2分続いたが、やはり電話口には誰も出な
かったらしい。諦めた様に携帯を耳から外すと、俺の方に返してよ
こした。

 そのまますぐに親父のアドレスから電話をかけた。もしここにな
つめがいなかったら、きっとかけていなかっただろう。彼女との約
束を果たすという使命感の方が大きいらしく、あまり緊張しないの
で助かる。これなら普通にしゃべれるかもしれない。

 そんな事を考えながら、3回ほどコールする音の後、唐突に電話
が繋がった。


『‥はい。』


 まずは安堵感が先だった。
 電話に出たのは若い男で、親父の声とは明らかに違っている。も
っとも、ここしばらく親父の声なんかは聞いていないのだから、同
年齢の男の声だったらわからないかもしれないが。

 一応番号を確認してみようとしたが、番号を空で暗記しているは
ずもなく、携帯のメモリーからかけてるのだから、そうそう間違え
ようがない。携帯を変えたと考えるのが妥当な所だろう。俺には何
の連絡も無しで。

 どういう状況でそうなったかは分からないが、考えてみれば、親
父の携帯に連絡を入れた事が、何回あったかも思い出せない。そん
な奴に電話番号が変ったことなど、連絡をする必要も無いという事
なのかもしれない。



 現在の番号の主に、短い謝罪を述べて通話を切り、やり取りで大
体察しは付いていると思ったが、一応なつめに説明をする事にした。


「電話番号が変ってて繋がらないみたいなんだ。やっぱり会社に連
絡するしかない様なんだけど。」

 「‥そうですか‥。」


 そう言うとなつめは俺の次の行動を見守った。携帯に表示されて
いる時間は午後5時を少し過ぎたところだ。普通に考えれば、親父
もまだ会社にいる時間だろう。急かされるような感じがあって、俺
は続けて親父の会社に電話をかける事にした。

 だが、親父の会社の電話番号までは、さすがにメモリーしていな
い。確か一人で暮らし出す時、念のため、親父から会社の名刺を受
け取った気がする。

「ちょっと待って。」

 そう言ってテーブルから立ち上がると、自宅電話の方に向かう。

 どこにやったかまでは記憶していなかったが、大概そういった物
は、自宅電話の台の下の引き出しに入れっぱなしになっているはず
だ。
 そう見当をつけて開けてみると、無造作に、かなりの紙片や封筒
が、折り重なって放り込まれていた。この家の賃貸の契約書や、そ
の他重要な書類も混じっている。

 そんな無用心丸出しで放ってある、書類を順に取り出していくと、
やはりその名刺も紙片に紛れて入っていた。


 その名刺だけを持って、テーブルに戻った。なつめも俺が何を捜
していたのか分かったようだ。

 幾分黄ばんだ名刺に書いてある、電話番号を見ながら、携帯に番
号を入れる。地方という事もあって、やや間があってから、スピー
カーからコール音が聞こえた。

          p05.jpg

 すると―――――



 あの時の記憶が、頭の奥から、あっという間に表面へ現れた――
―――。(つづく)