――――電話がつながると、きれいな声の女の人が、すらすらと
何かをしゃべった。すぐにお父さんにつながると思っていたから、
今まで考えていたことが、頭かからぬけてしまった。



 お父さんに急いで言わなくちゃならないことがあったのに。



 家に帰って来たら、テーブルにお母さんの手紙が置いてあったこ
と――――。これまでも何回かそういうことがあって、それはたい
がい出かけいて、帰りが遅くなったりした時のことが書いてあった
んだ。


 でも今日は違った。お母さんは――――














『‥もしもし?どちら様でしょうか?』


 電話の向こうで、受付らしき女性の声が、いぶかしげに響く。今
親父がいる会社はさほど大きくない支店なので、受付などいるかど
うかは分からないが。


『もしもし?』


 さらに疑わしげな声を聞いて、ようやく言わなければならない事
を思い出した。


「すみません、家族の者なんですが、立野伸二は‥。」


 俺がやっとまともに返答したので、電話の向こうも安心したらし
い。


『いつもお世話になっております。立野部長ですね。少々お待ちい
ただけますか。』


 間を置かず保留音に切り替わった。その音を聞きながら、なつめ
の様子をうかがった。

 彼女もこっちを見てる。


 すると、やけにあっさりと保留音が停止した。だが、電話口に出
たのは、先ほどの女性だった。


『申し訳ございません。立野部長は本日出張中でして、明後日まで
の予定となっておりますが。』


「‥あ、そうなんですか。‥‥ええと‥。」


 これは考えていなかった。再びなつめの方を見る。彼女には、ど
いう状態かはよく分からないようで、多少困惑した表情になった。
きっと俺の顔も同じ様なんだろう。

 仕方無く、携帯の番号が変わっている事を伝え、早急に連絡が取
りたいので、新しい番号を教えてもらえるように頼んでみた。

 会社になら、連絡を取れるように番号を知らせてある確率が高い。
電話の女性は少し考えてから、待つように促し、保留に切り替えた。
再び彼女が受話器を取るまで、多少時間がかかった。そして返って
来た返答は意外なものだった。


『大変申し訳ありません。ご家族の方でも、こちらで勝手に番号を
お教えする事は出来かねますので、私どもで部長に連絡を取りまし
て、折り返しかけ直して頂くよう致しますが、それでよろしいでし
ょうか。』


 よろしいもよろしくないも無いとは思うのだが、それ以外に方法
は無いようだ。俺は自分の携帯の番号を言って通話を切った。もし
これが本当に一刻を争う事だったらどうなるんだろう。

 例えば俺が事故にでも遭って、病院で死にかけていたとしたら―
―――


 そもそも親父に来て欲しいのかを考えて、いや、誰かにでも来て
欲しいのかを考えて、馬鹿馬鹿しくなった。その時が来たら、俺は
きっとそのまま死んでしまうんだろう。



 ――――それで良いんだ。




 待っているなつめに電話のやり取りを説明すると、携帯番号が違
っていた時よりはがっかりしているのが見て取れた。
 しかしそこまで困惑した様子は無い。「親父から連絡が来るのを
待つ」という、少なくとも事が前進している安堵感があるからなの
かもしれない。


 いつかかってくるか分からない電話を、ずっと待つわけにもいか
ない。また、いくら薬が効いているからといって、朝の状態が状態
なだけに、このまま起きているのは、彼女の体の負担だろう。なつ
めには部屋で休んでいるように言う事にした。


「‥でも‥」


 まだ赤みの残る顔でこっちを見る。


「いざという時に動けなかったら困るだろ?とりあえず今日すぐに
電話が来ても、こんな時間から何か出来る訳でもないよ。それなら
その時のために早く直しとかないとさ。」


 何だかすごくまともな事を言ってると、自分でもおかしくなる。
だが、普段の俺が、どんな風に他の人間に接しているかを知らない
なつめは、それを聞くとおとなしく部屋に戻ってくれた。きっと、
自分が俺に迷惑をかけていると思っているんだろう。



 なつめが行ってしまうと、徐々に自分のだるさに気が付いた。昨
日の昼には予想もしなかった事が次々に起こっていて、俺自身が付
いて行けていけていない。
 親父に連絡を取るなんて、ついぞ考えもしなかった事を、こんな
簡単にやリおおせてしまうなんて!


 そんな事を考えながら、何気なく携帯を手に取ると、留守電とメ
ールのチェックをしていなかったのに気が付いた。センターに問い
合わせをしてみたが、やはり何も入っていない。


 美紀がなつめの声を、一体誰の声と思ったのかは知らないが、腹
を立てているのは確かなようだ。

 当たり前か。

 いつもなら、美紀が腹を立てている事に憤っているだろうが、今
はそんな事への反応すら普通に思える。


 取り敢えず、なつめが眠ってしまう前に、食事を取らせ、もう一
度薬を飲ませないとならない。自分のだるさはあるが、そういう事
を考えるのに面倒ではない自分が新鮮だった。

 昼間に買ってきた中でも、比較的マシに思える物を暖めて食べさ
せ、後はタオルの代りに、熱を下げるシートを頭に貼らせた。薬を
飲むのを確認すると、なるべく早く寝るように言って部屋を後にし
た。


 自分も食事をと思ったが、食欲が無かったので取らずに寝てしま
う事にした。携帯を持って親父の部屋に行き、敷きっぱなしの布団
の上に横になった。すると、今まで忘れていた物がまだそこに存在
しているのに気が付いた。


 昨日からずっと入れっぱなしの手紙。

 押され潰れたためか、昨日よりも存在感は薄い。だがやはり、こ
れを自分の側においておくのは気持ちの良いものではなかった。

 昨日もゆっくり眠れた気がしなかったし、中途半端な午睡のせい
で体の調子も良くない。
 もし親父からの電話があった場合のことを考えて、今夜はなるべ
くきちんと休んでおいた方が無難だろう。

 あと、なつめに俺の部屋を使わせる事にしたのは良いが、どの位
になるか分からないのならば、俺が使う身の回りの必要な物や、服
を、こちらの部屋へ移しておいた方が良いように思えて来た。


 何度も部屋に取りに行くのでは、なつめも気を使うに違いない。


 それなら、今のうちに行った方が良いと思い、再び彼女のいる部
屋に行く事にした。




 なるべく小さな音でノックをしてみると、中からややあって反応
が返って来た。


「‥‥はい‥‥。」


 消え入りそうな声だ。また調子が悪くなったのだろうか?


「悪い、ちょっと入るけど‥大丈夫?」


 そう返すと、なつめは震えるような声で「どうぞ」と言った。

 ドアを開けると、さすがに今度は横になっていた。さっきよりも
幾分顔が赤くなっているみたいだ。夜は熱が上がるものだったか。


「‥ごめん、起こした?」


 そう言うと、なつめは布団をしっかりと両手でつかみ、外に出て
いる顔だけを横に振った。でもその視線は俺の方を向いてない。

 何故か態度が急にぎこちなくなったような気がした。

 おかしいとは感じながらも、なつめの性格の何処までが分かって
いるかも怪しい俺が、勝手にそう思っているだけのかもしれない。


 とにかく俺は、さっさと用事を済ませる方が良いと感じた。


 まずはジーンズのポケットから手紙の束を取り出すと、元の位置
に戻す。
 昨日からのこの部屋の状況を見てみても、なつめは極力この部屋
の物に触れる事をしていない。彼女が信用に絶対足る人間だとまで
は断言できないが、それを見誤ったとしたら俺が馬鹿なだけなんだ
ろう。

 これはこの場所に置いておくのが一番良い。

 本を元の位置に戻しながら、ふと気が付いたので、なつめに言っ
ておく事にした。彼女はこちらから先に言ってやらないと、そうい
った事をしない気がしたからだ。


「もし眠れなかったら、ここらにある本でも何でも勝手に読んだり、
使ったり良いから。」


 それを聞いたなつめが、やっとこっちを向いたのが分かった。


「‥え‥?あ‥、は、はい。」


 何だか驚いている様に見える。本当にどうしたんだろう?


 とにかく早く退散して寝かせた方が良いのかもしれない。


 今日2度目のクローゼットの扉を開けると、手前を掻き分け、さ
らに奥に放ってあったスポーツバッグを取り出した。
 それに下着や普段着を詰め込み、その一方で、なつめに着られそ
うな服も、選り分けて数着分出しておく。服はこれで良い。

 あと必用な物といっても、携帯の充電器や、MD、雑誌なんかを
少し入れて、これで十分だろう。


「ここにまた服を出しておくから、着替えたくなったら着替えると
良いよ。」


 そう言って重くなったバッグを手に持ち、部屋を出て行こうとし
た。すると、俺の声に反応して、こっちを向いたなつめがいきなり
叫んだ。


「何処か行っちゃうんですか?」


 今度は俺が驚く番だった。


「え?」


 すぐになつめは上体を起こした。
 さっきの態度とは全く逆に、彼女は絶対に視線をそらさなかった。


「‥いや、ここに服があると何度も出たり入ったりで落ち着かない
んじゃないかと思って‥」


 やや気圧されがちに俺が言うと、「‥あ‥」と口を開いたままで、
動作が止まる。

 そしてすぐに、意味が飲みこめたのか、明らかに安堵した様子で
息を付いた。そして見る見る間に顔が赤くなる。


「‥ご、ごめんなさい。私‥」


 なつめはそう言って謝ったが、顔はさっきとうって変わり、非常
にリラックスしているのが見て取れた。俺も、何故かなつめの誤解
を喜んでいる自分を感じていた。


「じゃあ、俺もう部屋に戻るよ。」


 俺の語気に笑いが含まれていたのが分かったのか、なつめはさら
に顔を赤くした。


「ハイ‥。」


 ドアを出る前に、もう一度振りかえった。なつめもこっちを見て
いる。


 何かが言いたかった。いつもなら言えない言葉をかけたくなった。
だが、いざ言おうと思うと俺も恥ずかしくなって来てしまった。


「‥何かあったら遠慮しないで呼んで良いから‥‥。」


 それが精一杯だった。


 廊下へ出て部屋のドアを閉めようとした時、なつめが俺の背中に
向けて言った。それはさっき俺が飲み込んだ言葉だった。


「おやすみなさい‥」

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 だから今度は俺も言う事が出来た。


「おやすみ‥」

(つづく)