次の日、アラーム代わりにセットしておいた、携帯の音を着信と
間違えて目を覚ました。


 昨日うたた寝した後よりもさらに頭が重い。

 
 この部屋にある暖房器具はエアコンのみで、ダイニングのものよ
りもさらに使ってない期間が長かったせいもあり、点けるのに躊躇
があったため、未使用だったからかもしれない。
 こんな事なら使っておけば良かったと思いながら、体を起こそう
とした。


 その途端、目の前が回転した。


 ふらついて再び布団にひざを突く。突然の事に、何があったのか
頭がついて来ない。ようやく目眩を認識すると、今度は頭の熱さに
気が付いた。額に手を当てると、昨日のなつめほどではないにしろ、
結構な熱さだ。完璧に風邪をひいたようだった。
 

 これでは、学校どころじゃないだろう。まあ、なつめの様子によ
って、今日もどうしようかと考えていたんだから、気にはしないが。




 おぼつかない足元に気をつけながらダイニングへ行く。すると風
呂場の方で水音が聞こえた。
 なつめはもう起きていたらしい。ユニットバスなので、洗面所で
も使っているんだろう。
 
 立っているのが正直だるい。
 
 椅子に無造作に腰掛けると、自然に頭を抱える格好になった。こ
めかみに指を当てると気持ちが良い。熱のせいか頭痛になりそうな
鈍い痛みが起こっているのだ。


「大丈夫ですか?」


 不意に頭の上の方から声が聞こえた。
 俺が気付かないうちに、なつめは既に俺のそばまで来ていたらし
い。


「‥ああ、おはよう。」


何となく間が抜けた返事をした。何故なら、


「‥もしかして私の風邪、うつったんじゃないですか?」


――――こう、なつめが言うのがわかっていたからだ。


「‥違うよ、俺昨日うたた寝したから、その時冷えたみたいなんだ。
だから‥」


 そういった途端、冷たいものが額に触れた。
 
 手だ。

 水を使った後で、冷たくて気持ちが良い。


 普段ならば、「他人に触られるのなんて冗談じゃない」と思って
いるのに。そんな人間とは思えない感想が、普通に頭に浮かんでい
るのに気が付いた。なつめはこういった事を、いつも難無くやれて
しまう人間なんだろうか?

 そんな人間と付き合うのはご免だ。但し、それは普段の俺ならば
だが。


「‥熱いです。すごく‥。」


 そう言って、なつめは手を離した。俺は名残惜しいような、ほっ
としたような、複雑な気持ちだった。でも今は体調が悪いので、そ
の感情さえも、あんまり長くは続いてくれないようだ。


「今水触ったばっかりだからだよ‥。そんなでもないっ‥て」


 なつめに触れられていた間、自分の体を椅子の背に預ける事も忘
れていたので、やっと自分の重さを椅子に任せながら、自分でも額
に手を当ててみる。

 だが正直、自分の手も熱く腫れぼったいような感じで、熱が高い
んだか、違うのか定かではなかった。


「‥説得力無いか‥。」


 手を下ろして、一呼吸入れる。その間になつめが目の前の椅子に
腰掛けた。



「‥正直ちょっと辛いから、今日も学校は休むよ。」


 そう言うと、なつめはまた、すまなそうな目をしてこっちを見た。
でも今度は何も言わなかった。俺の言葉を待っている。


「‥で、こんな調子だから、今日は俺が君の事を気にかけてあげら
れない‥と言うか、俺は唯でさえ、人に気を配ったりとかが、抜け
てるから、更にそうなるっていう感じかな‥。」

 これは本当の事だ。だがなつめの目は、それに対して、否定的な
色を示した。それでちょっと救われる。


「だから‥」


 最低限必要な物を考えてみる。金と家の鍵。あとは携帯の番号か
‥。家の鍵は自分の分しかない。予備‥というか、もう一つは親父
が持っている。それ以外にこの家の鍵はない。

 鍵も携帯も財布も全部寝てた部屋だ。財布の中にどのくらい残っ
てた覚えてない。
 こんな事なら、昨日下ろしておけば良かったと思いつつ、話の途
中でいきなり立ち上がって部屋に戻った。

 必要な物を取って来る。

 そして再び戻った時、なつめが目でこっちを追っているのを感じ、
気を使う余裕が本当になくなって来たのを自覚した。というか、本
来俺はいつもこんな感じだと思うが。

 再び腰掛けて、財布の中身を確認すると、何とか2万はあるよう
だ。
 それをテーブルの上に置く。更に鍵を横に置いて、最後は携帯。
番号をメモする物も必要か。

 そう思って今度は自分の部屋に行く。

 思考が働いてないから、二度手間三度手間になってしまう。体の
だるさも手伝って、段々と俺の態度もぞんざいになって来た。

 手に紙とペンを持って、やっとテーブルに戻った後、なつめは居
心地が悪そうに小さくなっているように見えた。
 まだ具合も回復しきってないだろうに。何となく酷い事をしてい
る気分にもなりそうだ。さっさと話すことを話してしまった方が良
い。


「‥一応これ‥渡しとくんで、必要なものは自分で買って来てもら
える?」


テーブルに置いた2万を指差すと、なつめがびっくりした目でこち
らを見返す。


「‥食い物とか‥、そのほか色んな必要な物、しばらくいる事にな
るとして、服とかも必要なら取りあえずその金額で買って来てくれ
て良い。今日はこれしかないけど、具合が良くなれば、金は銀行か
ら下ろしてまた渡すから‥。」

「‥え、でも‥、そこまでお世話になるわけにいきません。それで
なくても、ここに来てから、ずっとお世話になりっぱなしなんだか
ら‥。私‥」

「でも、親父がいた場合でも、こうなったことは変わりがないと思
うけど‥。」


 言ってから、「しまった」と思った。これはなつめが一番言われ
たくないことに違いない。
 自分をここに寄越したのが、例え母親の考えであるにしろ、暫く
預ける気だったのは否定しようがない事なんだから。

 俺の人間としてのボロが一気に出ている感じだ。それに伴って、
疼くような頭の連続的な痛みが始まり出した。
 なつめを伺うにも、目にあまり力を入れないようにそっと動かす。

 これではまるで、しかられる前の子供が、母親の機嫌を伺うよう
だ。そんな母親は俺にはいないのに。


 なつめは俺が言った事を気にしているのかいないのか、顔は相変
わらず困ったような、申し訳ないような表情でこちらを見ていた。


「‥ごめん。‥嫌な言い方して‥。」

「‥いいえ、母はそのつもりで行けって言ったと思うんで‥。」

「‥でも、私‥。初めから、ここにご厄介になるつもりはなかった
んです。だから荷物もあまり持って来なかったし‥。学校もありま
すから、だいぶ具合も良くなったし、今日にでも家に戻るつもりで
‥。」



 俺はなつめが「戻る」という事に猛然と反発したい衝動に駆られ
た。



 母親が帰ってくるという確証もなく、帰ってどうなるのか?
 母親はここに居ろと言ったって事は、家にいるとなつめにまずい
事が起こるからじゃないのか?



 などなどの正当性のある理由はいくらでもあるが、そんな事はな
つめも分かっている筈だ。それでもやはり他人の世話になるよりは、
家に戻った方が良いという事なのかもしれない。

 でも俺は、彼女がここに留まる為の手立てを考えてしまう。

 体の具合の悪さも手伝って、どんどん自分の傲慢さが膨れ上がる。


 俺は思い込みで、彼女が自分と同じと決め付けて、何かを与え、
与えられる関係を築きたいと思っているらしい。そして今はこの気
持ちを止める事が出来ない。



 長い間何も言わず、頭に手を当てていたため、俺の具合がますま
す悪化したと思ったのかもしれない。俺の考えなど知りようがない、
なつめが伺うように声を掛けた。


「‥でも、迷惑でなければ、昨日ご厄介になったまま出て行くのも
心苦しいので、今日は私が瞬さんに出来ることをしたいんですけど
‥。」


 なつめは俺の様子を見て、家に帰る事を自分から思い留まってく
れたようだ。俺がまた何かを言い、なつめに愛想をつかされる猶予
が出来たらしい。

 俺はやっと顔を上げて、なつめを見た。やっぱりまだ困ったよう
な顔だった。


「‥正直そうしてもらえると有難いみたいだ‥。でも、本当に俺の
事は良いんだ。君自身の事さえやってもらえれば。ただでさえ慣れ
ない所で何かをするのは大変だしさ‥。」


 金と鍵を彼女の方にスライドさせた。


「鍵も、渡しとく。俺は外に出れないだろうし。あと‥」


 携帯を見ながら番号を書き写す。こんなものを渡したのは初めて
なんじゃないだろうか?美紀は携帯を持っているから、画面を見せ、
打ち込んでた気がする。親父は‥?俺の方から掛けたんだろうか?
覚えてない。

 なつめにメモした番号を渡し、
「外に出て、何かわからない事があったらかけて。」
これで用件は全て言った。


「俺、また部屋で横になるから‥。」


 そう言って立ち上がると、やらなければならない事を済ました為
の安堵感からか、体の重さが2割増くらいになっているのを感じた。

 テーブルから手を離すとバランスを崩しそうなので、ぎりぎりま
で体を支えさせて進む。何ともおぼつかない足取りを、見るに見か
ねたのか、なつめが声を掛けて来た。


「あの‥、瞬さんと私が使っている部屋、やっぱり交換した方が良
いんじゃないでしょうか?」

「‥なんで?」

「今は具合が悪いですし、使い慣れた部屋の方が良いと思うんです。
それにやっぱり必要な物があった場合、取りに来なきゃならないの
は、今は大変だと思うんです。」


 確かに一理ある。さっき必要な物を持って来るのに、右往左往し
てしまったのを見たから言っているんだろう。でも‥。


「‥俺が今使ってる部屋、長い間つかってなかったせいで、人に勧
められる部屋じゃないんだ‥」


 またやってしまった。そんな事を言ったら、なつめが気に病むに
違いない。案の定、なつめの顔は曇ってしまった。


「‥だったらなおさらです。私は良いですから、瞬さんがこっちで
寝てください。」


 正直あのカビ臭い部屋に戻って、休むのは御免だが、かといって、
なつめをあの部屋に押し込む気にはなれない。やっと体調が快方に
向かっているというのに、もとの木阿弥じゃないか。



「‥君にあの部屋を使わせるくらいなら、悪化しても俺があそこに
いた方が良い。」



 まるで駄々っ子のような、言い方しか出来ない。さっきは片手で
自分の体重を支えていたが、立ち話になったので、両手で支えるこ
とにしなければならなくなった。

 その状態で、少し考えていたなつめだったが、俺の様子を見て、
とうとう根負けをしたようだ。


「‥わかりました。私が休む時も、瞬さんの部屋をお借りします。
だから、今はベッドを使って休んでください。‥私が使ったままで
悪いですけど‥。」


 そう言ったなつめの顔は、困った顔だったが、口元に笑みが少し
あった。強情も張ってみるものかもしれない。体力のない今だから
こそ、効き目があったのかもしれないが。


「じゃあそうさせてもらうよ‥。ちょっともう立ってるのもやばい
感じが‥」


 そう言い終らないうちに、手の力が抜けた。あからさまに上体が
崩れる。なつめがびっくりして手を伸ばし、俺の腕を自分の方に持
ち上げる。
 そうやって支えてもらい、何とか足にも力を入れ、踏みとどまる。
あのままだったら、テーブルに突っ伏していたかもしれない。本格
的に動ける状態じゃなくなって来たという事か。

 普段から家と学校の往復だけで、部活もせずにダラダラと暮らし
ているから、体がなまりまくって、何に対しての免疫も無いんだろ
う。他の人間の持つウィルスに、てきめんにやられてしまう。

 自分だけなら、この家で直るまで引き篭もっていれば良いが、こ
ういう事になると、何となく情けない。
 特に風邪が治りかけの少女に、腕などを支えられていると尚更だ。


「‥ごめん。」

「いいえ、部屋までこのままで行けば‥。」


 俺の体重は多分重い方ではないとは思うが、支えている少女にと
っては重く感じるだろう。現に、あまり自分の足に力が入ってない
ので、なつめの負担が大きく、ややなつめの方に寄りかかる感じに
傾いている。

 その上、今の状態では全くそんな気は起こらないが、支えてくれ
ている腕が、歩きやすいように俺の腕にまわされてから、彼女の胸
がずっとひじにに当たっているのを感じる。なつめはそれをどう思
っているのだろうか。



 部屋に着くと、早くなつめの負担を無くしたかったので、自分か
らベッドの上に倒れこんだ。

 これだけの運動でも精一杯な感じだ。

 部屋はずっとつけてあったエアコンのお陰で、かなり暖かい状態
が保たれていた。
 その上倒れこんだベッドには、自分の匂いとなつめの残り香があ
って、何とも不思議な感じだ。運動の後するように、一つ深呼吸を
つくと、更に深くそれが感じられる。



「‥大丈夫ですか?」


 顔をベッドに埋めたまま、動かない俺を見て心配になったのか、
なつめが声を掛けて来た。

 確かに具合いは最悪だ。だけど不思議に気分は悪くない。

 今なら、さっきまで感じていた、自分の不甲斐なささえ、あまり
気にならない。

 顔だけなつめの方に向けてみる。やっぱりまた困った顔だ。

 何故か俺はちょっと笑い出したい気分になった。

 ここに来る以前の生活でも、彼女はいつもこんななんだろうか?
そうではないだろう。ただ、ここ数日俺にも起こった予想のつかな
い出来事のせいで、その表情が貼り付いてしまっている。

 頼ってきた家には、息子が一人で住んでいて、父親には連絡が取
れず、自分は風邪で寝込み、次の日にはその息子が寝込んでしまう。
これじゃあ、不安にならない方がおかしい。


「‥?」


 なつめの表情が、困った顔から不思議そうな顔に変わった。どう
やら自然と笑っていたようだ。


「‥ごめん。横になっていれば、そんなに辛くないみたいだ。‥だ
からそんなに困った顔しないでいいよ。それより、本当に君の方は
横になってなくて平気なのか?」


 なつめはまだ不思議そうな顔をしているが、俺の言葉に少なくと
もほっとした様子だった。


「‥はい、まだ全快とは行ってないですけど、今の瞬さんも比べれ
ば、全然大丈夫ですから‥。あ、そうだ!」


 そう言うと、昨日ベッドの傍に置いた、小さなテーブルの方に視
線を向けた。そこから何かを手に持って俺の方に見せる。


「瞬さん、これ貼った方が良いですよ。私昨日すごく楽になりまし
たから。」


 そう言って見せたのは、昨日俺がなつめに買って来た、冷却シー
トだった。
 言い終わるか終わらないかで、なつめはシートが入っている袋の
ジッパーを開けて、中身を取り出した。俺は何とか体を上に向け、
手を出してシートを受け取ろうとした。


「あ、私が貼ります。瞬さんは髪の毛を上げて下さい。」


 あっさりと、俺の行動は否定された。シートの冷却部分を露出さ
せているなつめの顔が、何となく子供っぽく嬉しそうだ。もしかし
たら‥。


「‥なつめ。熱が出た時って、普段はどうやって冷やしてるの?」

「‥え?な、何でですか?」


 ‥分かりやすいなあ。俺もかなり饒舌になって来ている。熱のせ
いで、ちょっと違う人格になってるみたいだ。


「‥だって、貼りたいんだろ?普段は使わないもんなの?」

「‥あ、あの‥。うちはお母さんがこういう物って、買って来ない
んです。タオルで冷やせば良いからって‥。でも普通はこういうの
ですよね?友達もこうやって冷ましてるって言ってたし‥。」


 顔が真っ赤だ。あんまり言われたくない事なのかもしれない。で
も、今の俺は気にせずに話してしまう。


「‥そうなんだ。でも、俺も今まで使った事無いよ。‥っていうか、
普通はどうなのかって、俺よく分からないからさ‥。たぶん、熱が
出て冷やした事も無いんじゃないかな‥?」


 それを聞いて、なつめはこっちに向き直った。手の動作を再会し、
冷却シートを俺の額の傍まで持って来た表情が、さっきに比べると
格段に引き締まっている。俺も言われた通りに、前髪を上げて待つ。
気持ち良いが、人工的な冷たさが額に広がった。


「‥ありがとう。」


 普通に言葉が出た。そして目を閉じる。いつもこんな風に、何も
考えないで言葉が出せれば良いのに。



「‥瞬さん。聞いて良いですか?」


 ややあって、なつめは口を開いた。目を開けると、なつめは神妙
な顔をしている。


「‥いいよ。」


 今なら何を聞かれても、答えられるような気がした。


「‥何?」



「‥‥」


 なつめは躊躇していたが、やっぱり聞きたい気持ちの方が勝った
らしい。



「‥瞬さんのお母さんも‥、帰って‥来なかったんですか?」




 それを聞いた俺の目は、自然と部屋の隅にある細長い本棚に吸い
込まれた。


 下から3段目、そこで目が止まる。その奥には白い封筒の束があ
る。


 もうすぐ更に1通の封筒が増えるのだろうか?それとも、もう諦
めてよこさないかもしれない。俺は一度も返事を書かなかったから。

 読んだ3通分の手紙の内容は、ほとんどが謝罪だった。でも帰っ
ては来なかった。その理由は読んでいない分に書いてあるんだろう
か―――――?



「‥そうだよ。」



 ほとんど分かっているとは思うが、聞いてしまえば、なつめの表
情はまた暗くなるだろう。でも俺は言ってしまいたい。


「‥出て行ったのは、10年前‥。」


 あれは雪がその年に、初めて降った日‥‥。



「それから一度も戻って来なかった―――――」

(つづく)