母親が出て行ったのは、俺が7歳になってまもなくの頃だった。
その年は暖冬で、12月になっても雪が降らなかったので、年が明
けて初めて雪が降った日だったと記憶している。


 その日授業が終わると、生徒たちは早々に外へ飛び出した。既に
うっすらと積もりつつある雪を踏みしめながら、通学路を集団下校
の同級生たちと歩いた。

 体に似合わない大きさのランドセルに
雪が積もったと言っては払い、街路樹に積もりたての雪を、競って
落としたりしながらも、急ぎ足で家に向かっていた。


「家に戻って誰に言う?」


 誰からともなくそんな問いが投げかけられ、その答えは大概が母
親だった。


 俺自身も同様で、降ってくる雪を頭に感じながらも、浮き浮きと
足を急がせていたのを覚えてる。


 この事を知ったら、母親はどんな表情をするだろうか?頭を占め
ていたのはこの事だけだった。

 俺の憶えている母親は、顔は既にあいまいな感じになっているが、
いつも困ったような、悲しいような雰囲気を持っている人だったと
思う。

 そう考えると、今のなつめの雰囲気によく似ているのかもしれな
い。

 怒ったりする事はあまり無く、俺が彼女を困らせると、悲しそう
な顔をしながら、ゆっくりと俺に向かって話し掛ける。そして俺が
納得するまで、それに付き合うというような人だった。


 今考えると、合理的な時間の使い方というものに拘束されていな
い感じがあった気がする。


 育ちのせいなのか、生来の性質なのかは分からないが、そういっ
た部分が、父親には煩わしかったらしい。俺に対する教育だけでな
く、母親の行動自体に不満を漏らす父の言葉を、幾度も聞いた事を
記憶している。

 また、母はそう言った父の物言いに対しては、何も言わずに聞い
ているのが常だった。

 だがそれは、「夫の言っていることを全面的に肯定している」と
いったような雰囲気ではなかったように思う。

 ただ母には、「即座に思った事を言ってしまう」ということが出
来ないらしく、それが後になっても引きずってしまい、神経的に参
ってしまうらしいという事も、出て行った後、母の肉親と父親との
話し合いを聞いてわかった。


 父と母の結婚生活というものは、総じてそんな感じで、それ以前
にも、幾度となく里帰りという名目で、実家の方に戻ってしまう事
があった。

 しかし、里帰りというにはあまりにも突然の行動なので、幼稚園
児だった頃などは、園から帰宅しようにも、母親の迎えがいつまで
たっても来ないという事が何度かあった。

 その度に当然父親の方へ連絡が行き、急を聞き父親がやって来る。
あからさまに苦々しい表情を浮かべた父親は、正直苦手以外の何も
のではなかった。

 そして数日経つと、母親はやっと戻ってくる。開口一番に、母親
は俺に謝る。




 その繰り返しだった。




 そんな母親だったので、多少腹立たしくもあったが、俺はそれで
も母親の事は嫌いではなかった。

 置いていかれてしまうのは、辛くないと言えば嘘になる。何で連
れてってくれないのかと聞いた事もあった。すると、母親が本当に
悲しそうな顔をして、また何度も謝るので、二度聞くのが可哀想に
なった。だから、それ以降に聞いたことはなかった。


 行ってしまっても、戻って来ないことがあるなんて、考えてもみ
なかったのだ。




 あの日―――――


 家に戻ってみると、出迎える母親の姿はなく、仕方がないのでこ
んな時のために持たされていた合鍵で家に入った。
 火のない家の中は、全てが寒々としていて、靴を脱ぎ、廊下に足
をつけた時の冷たい感覚は今でもはっきり思い出せる。

 俺は小さかった事もあって、スリッパを履くことが苦手だったが、
その時ばかりは、玄関にきちんと揃えられているそれに手を伸ばし
た。ペタペタという音がやけに響き、キッチンに入っていくと、
テーブルの上にある白い封筒が目に入った。

 母はどこかへ出かける時、必ずといって何かを書き残していった。
近いところであっても、遠いところであってもそれは変わらず、場
所とおおよその帰宅時間が書いてあるのが普通だった。

 それは里帰りも含めてもの事であって、その時に限っては、表記
の日時が多少ずれる事はあったものの、それらの書いていない手紙
を、俺はその時まで見たことがなかった。


「ごめんなさい。」


 たったこれだけの文章が書かれた手紙を見て、俺はものすごい恐
怖感にさいなまれた。

 また、逆に「いつもの事だ」と思う、思い込もうとする気持ちも
起こった。


 ただ、この手紙からは、母親の意思が感じられるような気がして、
とてもそのままにしてはいられなかった。
 ただでさえ、父親は不在がちなのだ。この事を知らせないままだ
と、いつまでこの状態が続くのかが判断出来なかった。

 俺は相当に混乱していた。だが、自分が出来る事は父親に知らせ
る事くらいなのも分かった。俺は電話帳から、今までにも何度かか
けた事のある、父親の会社の番号を見つけ出し、電話をかけた。


 まるで夢の中のように、数字を押す手が、違う番号を押してしま
う。
 その度に受話器を切り、やっとつながったと思ったら、知らない
女性の声が、機械のようにすらすらと何かを喋り出した。
 原因は電話帳の見間違いで、書かれていた父の会社の番号は2つ
あり、上の方は代表番号で、ここにかけると受付にかかってしまう
のだった。
 いつもはその下に書いてある、父の机の電話に直接かかる方にか
けていたので、間違えたと分かった時には、何を言っていいのか、
頭からすっぽり抜けてしまい、何も言えなくなってしまっていた。


 電話の向こうの女性の声が、段々と疑わしい色を発してくる。
 「番号間違い」あるいは、相手が子供という事もあって、「いた
ずら」と判断しても無理なかったかもしれない。俺はどうしようも
なくなって、そのまま受話器を置くしかなかった。

 急いでかけ直したいのだが、さっきの電話の事が気にかかった。

 その懸念は、再び電話をして、父に電話がつながった時に、「間
違い電話の事が父親の所に伝わっているのではないか」というもの
で、その事で叱られるのが怖かった。

 そんな事はあるはずが無いのに。

 だからそのまま10分くらい、俺は何もせずに電話の前で待った。

 その時にはもう、不思議と寒いという感覚が無くなっていたよう
に思う。ただ、吐く息が白いので、そればかりを見ていた気がする。


 母親の実家に直接電話することも出来た。

 同じ電話帳の、違うページに書いてあるのも知っていたからだ。
ただ、それを踏みとどめたのは、父が母親の実家に対して、あまり
良い感情を持ってないと思ったからだ。

 はっきりとは言わないものの、母の里帰りを安易に受け入れてし
まう祖父母の態度が、父にとっては迷惑そのものだったに違いない。


 その後、俺は再び父に電話を入れたが、今度は間違う事も無く父
にかかり、時間を置いたため、母の事もちゃんと説明が出来た。ま
た、さっきの間違い電話の事が、当たり前だが父には伝わっている
風も無く、安心したのを覚えている。


 これできっといつものように母は戻ってくる。そんな楽観も生ま
れて来た。手紙の内容は、きっと急いでいたかなんかで、書き忘れ
たと思う事にした。

 俺はやっと人心地ついて、寒さの感覚も取り戻し、慌てて部屋に
入り、暖房をつけ、みんなの帰宅を待った。




 でも―――――




 母親はその日どころか、その後何年経っても、ついに帰って来る
事はなかった。






 母親が出て行った後、暫くは父親方の祖母が家に来ていたように
思うが、祖母としても、母の行動は非常に腹立たしく、またその原
因は父にあるものと踏んで、父親に再三追求をするような事をした。

 取りあえずとはいえ、父としてもこの状況は喜ばしくなかっただ
ろう。

 数週間経っても、母は一向に戻る気配が見られなかった為、父は
家政婦を雇う事に決め、祖母には故郷に戻ってもらったらしい。そ
の状態は、俺が中学に上がるまで続く事になる。


 俺が中学に上がるとすぐに、今まで住んでいた一軒家を出て、こ
のマンションに移る事になった。それは母親と正式に離婚したから
だった。

 一応俺にも父から話があったが、それは事務的な報告であって、
詳しい説明などは全く無かった。


 離婚の手続きが、母が出て行ってからかなりの年月が経ってから
の事だったのは、大体想像がついた。
 父親の方としては離婚といった体裁の悪い事を、長きにわたって
承諾しかねていたからだろう。または親権問題などで揉めたとかか
もしれない。


 ともかく、俺自身は全て蚊帳の外の出来事なので、興味を持たな
かった。




 この家に転居するに当たって、狭い家に住む事ではあるし、俺自
身も成長した。このまま家政婦を置いておく事に対して、俺自身も
賛成ではなかったので、やめてもらう事になった。

 これで父親との本当に二人だけの生活になる筈だった。
 しかし、父親は物心ついた時からというもの、家にいる事はほと
んど無かったような人間で、会社も都内で、ここからさほど遠くな
い所にあった筈なのに、平日は俺と顔を合わせない帰宅時間が多か
った。
 休日に至っても、一緒に出かけたといった記憶も、数回あるかな
いかだったと思う。これ以降の事も、「推して知る」といった所だ
った。

 引越しからまもなく、父の転勤が決まった。そのタイミングを考
えると、父親の会社はそういった「離婚」といった不体裁を重視す
るところらしい。それとも、母親のコネとかでその会社に入ったと
かだろうか。

 どうでもいいことだが。


 転勤先は今まで勤めていた会社の支店で、近県ではあるが毎日通
うには遠すぎる場所にあった。
 ここには俺しかいないのだから、通勤しなくてはならない理由も
ない。

 そしてあっさりと父親は単身赴任先に赴いて、年に数回連絡があ
るかないかの生活になった。




 母は出て行ってからというもの、俺の前に一度も姿を現さなかっ
たが、数年経ってから思い付いたように、俺宛に手紙をよこすよう
になった。

 頻繁というわけではない。初めに来たのは、出て行ってから1年
が経った後の事で、2回目に来た手紙はそれから3年後だった。

 初めの手紙は非常に短い文章で、謝罪の言葉が書いてあるだけの
手紙だった。


 俺が一番知りたかった事は、その手紙からは何も読み取る事が出
来ない手紙。


 しかし、置いて行かれてから1年が過ぎてしまって来た手紙には、
例え何が書いてあったとしても、ただの言い訳にしか感じなったと
は思うが。


 目の前に現れずに謝るというのは、酷く身勝手な態度だと思う。

 出て行った時点でそうなのかもしれないが、なじる事ぐらいさせ
て欲しかった。その手紙は一旦捨ててしまおうかと思ったが、やは
りやめた記憶がある。


 2度目の手紙はまた同じような内容と、俺が元気なのかを聞いて
来ていた。何故こんなに間があいたかなどは全く書いてはいなかっ
た。


 それからぷっつりと手紙は来なくなり、俺は母親の事について考
えるのを止めてしまった。考えてもどうしようもない事だからだ。


 俺が最後に封を切った手紙が来たのは、今年に入ってからだった。

 あれから10年。2通目の手紙が来てからは5年以上経っている。

 「訃報かもしれない」と、とっさに思った。

 母親の名前が封筒の後ろに入っているのにもかかわらずだ。そう
思ってしまったぐらい、俺の中では死んでしまった名前だったのだ。


 殺してしまったといった方が良いのかも知れない。


 中身は訃報ではなく、やはり以前と同じような事を書いてあった
後に、「会って話がしたい」とあった。




 それを読んだ時、不思議なほどに何も感じなかった。

 実際に俺がそんな文面を見たら、自分が激昂してしまうのではな
いかと、常々思っていたのに。



 冷静とは違う、何とも言えない冷たい感情。



 今更、十年経った今更、何の話があるというんだろうか?


 あの時には言えない事が、今なら言えるという事はあるのかもし
れない。



 ただ、それはこちらに聞く気があればの話だ。



 俺の中には「母親」という言葉も無くなりそうなのに。




 辛うじて「親父」が無くならないのは、金銭面があるからで、そ
れ以外に「肉親」が俺の中には既に無いに等しいし、そう思わない
と俺の気持ちがおかしくなってしまう。

 俺はこの10年間そうやって暮らして来たのだから。


 3枚目の手紙が到着してからは、今までと打って変わり、手紙の
間隔が頻繁になった。

 四枚目はそれから2ヵ月後。

 それ以降はずっとこの間隔で投函されて来る。4枚目からは封を
切るのはやめてしまった。


 そして現在では8枚の封筒が手元にある。そしてこのままであれ
ば、9枚目の手紙が投函される頃なのだ。


 但し、母親の気力が続けばの事だが。


 俺は、これまでに1枚の返信もしていないから。




 これ以降もする気は起こらないと思う。






 起こらないと‥、良いと思っている。






 ふと気が付くと、眠っていた事に気がついた。

 見慣れた部屋の中にいる事に、多少の安堵感を感じる。熱で鈍く
なっている頭が動き出すのには、薄ぼんやりとした午後の日差しが
丁度良い。

 なつめと母親の事を話したからなのか、もうすっかり奥にしまい
こんで、出て来ないようにした記憶が顔を覗かせたらしい。

 夢でその時の情景が、出てきたような気がする。

 そんな事があったのに、寝る前同様、そんなに悪い気分でないの
が持続している。


 部屋は暖かく、俺の目を覚まさせた匂いが、この部屋にも漂って
いるからなんだろうか。幸い鼻はまだちゃんときくらしい。


 食べ物を調理する匂い。


 ここにはなつめと俺しかいないのだから、たぶん彼女が何かを作
っているんだろう。

 美紀はここに来る時に、よく何かを持って来てはいたが、料理を
した事はなかったな、などと考えていると、ドアがそっと開いた。

(つづく)