キッチンでは、なつめが洗い物のために水道を開いている。

 そのせいで俺の足音は聞こえないらしい。出来ればこのまま見つ
からず、あの部屋に到達出来る事を願った。
 だが、あと少しでキッチンから死角になる所へ到達しようとした
時、何かを足に引っ掛けてしまい音を立ててしまった。なつめが驚
いてこちらを振り向く。


 その顔は昨日の夜のなつめの顔だった。


 俺を恐れている顔。


 俺がこんなにそばに来ているのに、声を掛ける事をしなかったせ
いだ。なつめの落ち度じゃない。でも――――――


 俺はなつめのその態度に酷く傷ついていた。




 なつめが俺の部屋で恐れていた事は、俺に襲われるんじゃないか
という事だろう。


 何故そう思うのかはわからない。


 初めてあったあの日、俺が外に出てくるまで、家を訪れるのを遠
慮していたとなつめが言った時、あの部屋で俺と美紀とがしていた
行為を、彼女は知っているんじゃないかと感じた。だからもしかす
ると、そこに入れた人間は誰であれ、そのままスライドしてそうい
った対象にすると思っているのかもしれない。

 あまりに極端な考えだが、行為自体を知識として頭では知ってい
ても、実際の経験がないからなのかもしれない。


 そう考えると、あんな時間にあの部屋に行ったのは、警戒心を深
める行為だったし、今日に至っては、とうとう根負けまでさせて、
同じ部屋で休む事を強要してしまった。

 俺自身には全くそんなつもりはなくとも、なつめが俺を警戒して
いる以上、病気にかこつけていると取られたかもしれない。雰囲気
からして、完全に疑ってはいないものの、判断がつけられないので、
自分でそういった状態に陥らないように、気を付けている感じだろ
うか。


 なつめはまだこっちを見たままだ。


 何も言わない。

 俺の出方を待っているんだろうか?


 俺に何かを言って欲しいのかもしれない。洗面所に行きたかった
とか、トイレとか、きっとそんな言葉を期待している。


 でも俺は何も言えない。


 とうとうなつめの方を見るのもやめた。


 なつめの怯えた目をもう見ていたくない。




 このままあの部屋で待っていれば、なつめはやって来る気だった
んだろうか?


 それともずっと‥。



 どっちにしろ、そんなふうに思われているのが分かってしまって
は、俺はなつめと一緒にいる事は出来ない。なつめ自身もそれでは
気が休まらないだろうし、何よりも俺が辛いのだ。


 俺にとってのなつめは何だ。


 再びそんな疑問が頭に浮かぶ。


 今のなつめは昔の俺で、何かを与える存在なのか?

 それとも、俺の母親の代わりに、俺に与えてくれる存在を期待し
ている?

 唯一俺を理解してくれて、俺もなつめを唯一理解できる存在にな
りたいとか―――――?


 くだらなすぎる。


「‥俺、やっぱりむこうの部屋で休むよ‥。」

 それだけ言って、足に力を入れた。ふらつくのを見せたくない。

 足に何かが当たる感触があった。さっき音を立てたものの正体は、
買って来た物が入っているポリ袋のようだった。つまづいた拍子に、
中身が少し出てしまっている。
 うどんの乾麺、その他にも食材がほとんどだ。



 ――――――ここに留まる気は無くしてないんだ。


 その事実が、今は最後の救いのように思えた。


 それを拾おうとして、しゃがんだ途端、高低さのため、バランス
を崩した。

 なつめの足音が近づく。

 膝が床に当たり、無抵抗で打ちつけた衝撃が走る。遅れて手が床
に到達し、何とか体を支えた。


「大丈夫ですか!」


 なつめの手が、俺の腕に触れた瞬間、俺は無意識に叫んでいた。


「‥触るなっ!」


 凍りつく時間というのはこんななんだろうな、と他人事のように
思った。


 なつめの手が感電したように震え、すぐに腕から離れた。

 散らばった物を、拾うのは諦めた。とにかく早く、ここを立ち去
る事に専念したかった。そのまま立ち上がって、手を捕まる事の出
来るものに沿わせながら、部屋を目指した。


 その間、俺は一度もなつめの方を見なかった。


 見れなかった。


 ようやく忌々しい部屋に到達し、ドアを空けた。

 すると、廊下や俺の部屋の空気と明らかに違う、冷たい空気が流
れ込んで来た。ここを出た時は、閉めっぱなしのカーテンで、薄暗
かったはずの部屋が、今は自然光が入って来ていて、部屋全体がぼ
んやりと明るい。

 それもそのはずで、窓が半分ほど開け放しになっているのだ。そ
の中でも日が強く当たっている個所に、掛け布団と敷布団移動させ
てある。

 部屋の空気を入れ替えて、布団を室内で干していたという所だろ
う。


 ――――――やっぱりこっちで休むつもりだったんだ。


 その光景を見て、足から力が抜けた。
 ずるずるとその場に座り込む。熱で火照った頬に、涼しい風があ
たった。空気はよく循環したらしく、昨日感じた黴臭さは、だいぶ
和らいでいた。


 何だか泣きたい気持ちだった。


 さっきまで熱かった頬も、今ではすっかり温度を奪われてしまっ
ている。俺は無くした体温を求めるように、膝に頭を押し付けた。




「‥なつめ。」


 後ろになつめが来ているのは分かっていた。


 俺に声を掛けたいが、さっきの俺の態度のせいで掛けられなまま
でいる。でもそんな事をしていたら、きっと風邪がぶり返す。


 俺はますます風邪が悪化するだろうが、それはもう良い。


 もうどうでも良くなった。


「‥は、はい。」

「‥どうすれば、安心する?」

「え‥?」


 不意の質問にきっと驚いてる。俺は構わず続ける。


「‥俺‥、俺の手足を縛って、動けなくなったら安心するのか?‥
だったらそれでも良い。そんなのでなつめが安心して休めるなら、
構わないよ。でも‥俺は‥。」


「っ―――――」


「‥君に‥何かしようとか、そんなつもり‥ないよ。おとといも言
ったけど、そう思われてるのは‥‥」


 ―――――辛い。でもこの言葉を言うのはためらわれた。これじ
ゃあまるで、告白じゃないか。頬の皮膚が一気に沸く。


 そのまま黙ってしまった。なつめも何も言わない。

 微かな呼吸音。

 俺はそれを聞いてるだけだった。


 やがて、なつめから漏れ出した声は、抑えようとしても出てしま
ったものだった。
 それに気が付いて顔を上げ、後ろを振り返ると、なつめは立った
ままで、顔に両手を押し付けていた。

 手の甲を伝う涙―――――。


 それを見た途端、すっかり被害者気分だったのが一転した。
 今なつめを泣かしてるのは、誰でもない俺だろう。


 昨日までならきっとすぐに謝っていた、でも今は‥。




 やっぱり俺は何も言えない。


 どうせ謝る事しか出来ない。


 でももう謝るのも疲れた。




 俺の具合が悪いのでここに留まると、彼女が言ってくれた時、あ
んなにも安堵した反動か、今はなつめを留めた事を後悔し始めてい
る。


 なつめも苦しい。


 俺も苦しい。


 だからもう終わりにしてしまいたくなっているのだ。なんて自分
本位なんだろう。




「‥な、さ‥、ぃ‥。」




 ‥イライラする。

 俺が悪いのに、泣きながらでも謝らざるえない彼女に。

 同時に、真逆にある感情も起こる。
 さっき言った事を全て撤回して、彼女を慰めたいといった衝動だ。



 もう考えるのはやめてしまえ。



 ドアノブに手を掛け、無理矢理体を起こし、ドアを閉めた。
 風が冷たいからだ。そのままドアに背をもたせ、またしゃがみこ
む。


「‥謝るなよ‥。」


 今なつめに言えるのはこんな言葉しかない。


 嫌われる事はこんなにも簡単なのに、好かれるという事は何て難
しいんだろう。俺は何故なつめには好かれたいと思うんだろう。

 元から理由なんて無いのかもしれない。恋愛対象というものでも
無い気がする。はっきりとは区別がつかないが、他の誰とも違う感
情だ。


 ここ数年来で、一番親しいと言える、美紀に対する感情ですら、
妙に冷めているというのに。こんな気持ちを、美紀に向ける事が出
来るなら、美紀は喜んでくれるかもしれない。
 美紀はいつもそれを俺に欲しいている。それを知っていながら、
俺からは一度も与えた事がない。彼女には与えたいと思えないからだ。
 にも関わらず、ずるずると付き合いを続けているのは、美紀にで
すら、去られる事を恐れているからなんじゃないのか?


 俺は今までずっと、美紀に振り回されていると感じていた。でも
それはとんだ勘違いだ。

 美紀の気持ちを利用して、振り回しているのは俺の方じゃないか。


 本当に、俺は‥。




「‥なつめ‥」


 いつのまにかなつめも床にしゃがんでいた。顔を下に向けている
ので、よく分からないが、まだ少ししゃくり上げている感じがある。

 俺なんかと関わらなきゃ、泣く事も無かったのに。


 可哀想な事をしてしまった。


「‥俺はもう動けないから、放っといて休んでくれ。‥今日は全然
休んで無いだろ‥?」



 そう言っても、まだなつめは顔を上げようとしなかった。

 動こうともしない。


 俺はもうそろそろ限界かもしれない。食事と薬の作用と、無理に
動いたので体力が切れかけてるのが分かる。気力ももう保ちそうも
ない。


「‥あと‥、さっき‥言い忘れてた‥。」


 なつめの頭が心持ち上がった。


「‥飯、作ってくれて‥、‥‥ありがとう。‥うれしかった。」



 ――――――これだけは言っておきたかった。



 しばらく間があった。


 なつめはもう俺に何を言う気もないのかもしれない。
 俺はもう頭を上げているのも辛くなり、さっき部屋を開けた時の
ような姿勢に戻った。

 目を閉じると、暗い所へ落ちていきそうだ。遠くからエアコンの 排気音だけが聞こえる。 「‥瞬、‥さん‥」  泣いたせいで、声が変わってしまっている。喉も詰まって、喋り 辛そうだ。それでも俺に話し掛けている。  一呼吸ついて、また話し出す。 「‥うどん‥、‥好き‥ですか?」  目の奥が痛い。こんな事が嬉しいなんて、なつめには分からない んだろう。分からない方が良い。 「‥好きだよ‥。」 (つづく)