遠くで電話が鳴っている――――――。



 ぼんやりと目を覚ました。今日何度目かの目覚めになる。カーテ
ンが開け放しになっているが、外は既に日が落ちて久しいらしく、
室内は真っ暗だった。

 薄目を開けた状態でベルの音を聞いていた。自宅電話の方だとい
う事は音で分かったが、それを取りに起き上がるという事まで頭が
働かなかった。

 そのうちに諦めたかのようにベルの音が鳴り止んだ。


 自宅用の電話は留守録というものが無い。

 もっぱら携帯を使っているため、不便を感じた事が無いからだ。
ほとんど出る事も無いし、鳴るだけで不快な時もあるが、解約手続
きを考える事も面倒なので、放置してあった。この家のこういった
ものに関しては、一応親父の持ち物なので、俺がどうこうして良い
のかも分からないが。


 誰からだろう?


 いつものように、訳の分からない勧誘だろうか?

 でも、「何かの理由で親父から」という事も考えられる。いや、
携帯の番号を言ってあるんだし、そっちにかけて来るはず‥、など
と考えているうちに段々頭がすっきりして来た。

 そしてふと、ずっと携帯の充電をしていなかった事に気が付いた。


 もしかしたら電池が切れているのかもしれない。それならそっち
の電話が鳴る可能性も出て来る。体調不良や、色々な事が重なって、
そんな事はすっかり忘れていた。

 昼、なつめが外に出る時、何かあった場合の連絡を取るように言
った時ですら確認はしていない。


 とりあえず携帯を探そうと起き上がってみようとした。すると、
両手に何かが絡み付いている感じで、右手のひじをベッドに当て、
体を起こす体勢を取ろうとすると、左手が引っ張られる。

 何だろうと思いつつも、取り合えず起き上がる事にした。

 左手が体の前に引っ張られているというのは、非常に体を起こし
にくい。それを無視して無理矢理体を引き起こす。


 何も考えずに起き上がったものの、朝のように目が回ったりはし
なかった。寝る前に飲んだ薬が効いたのか、頭の重さもあまり感じ
ない。それを確認した後で、改めて両手の違和感の原因に目を向け
てみた。

 すると、両手が緩くではあるが紐で縛られているのが目に入った。
それを見て、やっと眠る前の事を思い出すに至った。


 ――――――これは俺がなつめに縛ってもらったのだった。


 じゃあ‥、と思って横に目を移動させると、ベッドの下に布団が
敷いてあるらしい事がかろうじて分かった。ここからでは暗さと高
さのせいではっきりしないが、そこに寝ているのはなつめだろう。
微かに寝息が聞こえる。

 よく寝入っているところを起こしたくはないが、逆に起こさなか
った場合、再び俺に対する不信感が沸くかもしれないという事の方
が恐かった。
 手を縛った所で、本当に何かをしようと企んでいる奴の場合、ど
んな事をしても無駄だろう。その点なつめの自己防衛力は少し甘い
気がする。

 というか、自分で招き入れておいてなんだが、そもそもこの家に
入った時点で、甘かったというべきかもしれない。

 でも今まだここに留まっているのは、俺の事を信用しているんだ
と取っておきたい。そしてその信用を裏切りたくはないのだ。


「‥なつめ‥。」


 やや控えめな声で呼びかけてみる。眠りの浅い人間なら、起きる
かもしれない。そしてしばらく待った。


「‥‥」


 無反応。薬を飲んで、ぐっすり寝れているらしい。


「‥なつめ!」


 今度は普通に話すより、やや大きめな声で呼びかけてみた。


「‥‥ん‥」


 耳には届いたが、起きるまでには至らなかったらしい。それまで
は遠慮して、下を見ないようにして呼びかけていたが、今度は下を
覗き込んで呼びかける。しかし、こんなに無防備で大丈夫なのか?


「なつめ!起きろ!」


「‥‥んー‥、‥。」


 まだダメかと思って、再び口を開けた時、頭の部分と思われる布
団の膨らみがやっと動いた。それからこっちを振り向く。

 段々暗さに目が慣れて来たらしく、なつめの輪郭がぼんやりと判
別がついた。こっちに気が付いて、一瞬びくりと体を強張らせたの
までわかった。
 今のはいきなり暗闇で俺を認識した驚きだろうか?

 それとも‥。


「‥し、‥瞬‥さん?」

「‥起こして悪い、ちょっと電気を‥」


 そこまで言ってから、ある事に気が付いた。今俺は寝起きで、普
段朝に目覚めるような体の状態であった場合、絶対なつめに見られ
たら困る箇所がある事だ。
 そこまでは頭が回っていなかった。今までは部屋自体は別々だっ
たので、気にもしてなかったのだ。


「あ、はい‥。」


 察し良くなつめが電気を点灯させる。やっと慣れてきた暗闇のせ
いで、目が眩む。そんな場合ではないのに。

 と、思いながらも出来るだけさりげなく、繋がれた両手で掛け布
団を引っ張った。これで腹部から下は見えないはずだ。

 薄目を開けると、なつめはかなり至近距離に立っていた。別にや
ましい事を考えていた訳では無いのに、何故か後ろめたい気持ちに
なってしまう。これはれっきとした生理現象なのに。


「‥まぶしい‥。」


 そう言ってこちらを振り向いたなつめが、俺の方に視線を合わせ
る。なつめの視線が俺の顔の方から、下の方に向かうのが分かる。
まさかと思い、俺も慌ててそっちに目を向けた。


「‥あ!」


 「心臓が飛び出そうになる」という表現は、ちょっとオーバーだ
が、外に音が出てしまうんではないかと思うほど心臓が鳴った。

 見えない中で引っ張ったので、布団はかなり不完全に俺の上に掛
かっている。でもちゃんと隠れているはずだ。じゃあなつめが驚い
ているのは‥。


「‥ごめんなさい!すぐに外しますから。」


 そう言って、ベッドの傍で膝立ちになると、俺の手を縛っている
紐を解きに掛かった。寝る前の事を忘れていたのは俺も同じだった
ので、驚くのは無理もない。

 俺といえば、なつめに手を取られながら、そっちの方に注意が行
っていたのが分かって、心底ほっとしていた。



 あの後―――――

 俺は廊下に放置される事はなかった。俺としてはその方が有り難
かったのだが、なつめが頑としてそれを許さなかった。

 仕方がないので、最後の気力となつめの手を借りて、再びこの部
屋に戻って来たのだった。

 まあ、あのままだったら、間違いなく病状は悪化していただろう。
が、俺としては、言いたい放題を言ってしまった後でもあるし、彼
女の手を借りるのは、かなりばつが悪かった。

 その勢いも手伝って、俺はベッドに倒れこんだ後に、なつめに手
足を縛って動けないようにして欲しいと頼んだのだった。

 そうでも言わなければ、あんな事があった後ですら、なつめはこ
こで休むことはしないだろう。

 そんな気がした。

 それでは、なつめを泣かせてまであんな事を言った意味が無くな
ってしまう。


 思った通り、なつめはこの申し出を断らなかった。さすがに足ま
での自由を奪う気は起こらなかったようだが、彼女の恐れが本当だ
った証拠を見た気がして、俺は少なからずショックを受けた。

 彼女の心の平穏が得られるならばそれで良いと思ってやった行動
で、傷つくのは俺の勝手だ。

 なつめは俺の具合が良くなり次第ここを出ていくのだ。それまで
に、少しでも過ごしやすくするくらい、何でもない事じゃないか。

 そう自分に言い聞かせて、手を差し出した。なつめはなるべく俺
の手に負担にならないように縛っていく―――――



「‥はい。‥あ、ちょっと跡がついちゃってる‥。」


 俺が眠る前の行動を反芻している間に、どうやら解き終わったら
しい。そう言って、俺の手についた赤く擦られた跡に触る。それに
俺の心臓は再び軽く反応を示す。

 触る事は怖くないんだろうか?  どうもなつめの行動は分からないところがある。  限定の何かが組み合わさると、それはなつめにとって恐怖の対象 になるんだろうか?  聞いてみたい気もするが、また警戒されるのも嫌なので、今はそ れには触れない事にした。 「別に痛くないし、擦れただけだよ。それにこれは俺がやってくれ って言った事だし‥」  そう言葉に出して言うと、すごい倒錯めいた行為をしたみたいだ。 何かおかしい。逆になつめの表情が暗いので、 「まあ、こんな風にして寝たのは初めてなんで、貴重な経験だけど ね‥。」 と、軽く聞こえるように言ってみた。  普段なら考えられない事を言ってるなと感じる。それでもなつめ にとっては、負担が減ったらしい。顔から暗さが引いていくのが分 かる。  それでようやく本題に入ることにした。 「‥さっきむこうの電話が鳴ってたんだよ。だからもしかしたら、 携帯の電池が切れてんじゃないかと思ってさ。」 「え?そうなんですか?私全然聞こえませんでした。ぐっすり寝ち ゃってたみたい‥。」  そう言って、膝立ちだった姿勢から、そのまま布団の上に座る姿 勢に変えた。さっきまで俺の手を拘束していた紐を、両手で弄びな がら、本当に聞こえなかったか思い出しているようだ。 「うん、起こすのすごく大変だった。」  俺は何となくなつめをからかいたくなって、わざと大げさに言っ てみた。すると効果はてきめんだった。 「ええ?そんなに起こしました?私結構、声掛けられるとすぐ起き る方だと思ってたのに‥。」  本気で信じてる。なつめを騙すのは簡単そうだ。  あんな事があった後なのに、何で俺たちはまた普通に話してるん だろう。  もっと険悪な感じになるのが本当だと思う。これはなつめの性格 のお陰なんだろうか?  俺も徐々にそれに引きずられてる。ここ数日で、自分の言動や行 動が驚くほど変わってきている。  そしてそれが嫌じゃない。  今までそんな事を空々しいと思っていたのに。 「‥うそ、本当は3回しか声掛けてないし。しかもそんな大きな声 じゃなかったから、聞こえなかったかもな。」 「‥え‥、あ!」  そう言うとなつめの顔から緊張感が無くなって、こっちを見てち ょっと怒ったような顔になった。  これも初めて見る顔だな。俺の顔はにやけてるんだろう。なつめ が怒ってるんだから。 「‥ごめん。携帯取ってくれる?」  そう言うと、なつめはぷいと勢い良く後ろを向いた。  俺はといえば、それを見た途端にすかさず、今まで気になってい た、下半身の状態を確認した。なんとも滑稽な自分に、少し嫌気が さしたが、今の俺にとっては大問題なのは間違いない。  布団の上から触ってみると、体が完全な状態じゃなかったからな のか、何の反応も起こっていないようだった。安心したと同時に、 なつめがこっちに向き直ったので、再び心臓が跳ね上がった。  そんな俺の葛藤を知らないなつめは、まださっきの顔つきで、無 言で携帯を取って差し出した。俺は内心の動揺を隠しつつ、それを 受け取る。  携帯のサブ画面を覗き込んでみる。案の定何も表示されていなか った。 「‥どうかしたんですか?」 「‥やっぱり、電池が切れてた。親父がこっちに電話をしても、繋 がらないからむこうに掛けたのかもしれない。えと‥、」  時間が見たいと思い、ビデオデッキに目を移すと、既に午後10 時を過ぎていた。電話の主が誰だかは分からないが、掛けるにして ももう少し早く掛けてくれれば良いのに。  向こうの電話では、掛けてきた人間の番号が分からないので、掛 け直す事も出来ない。  やっぱり親父からだろうか?  こんな時間に勧誘などの電話が掛かって来るとは考え辛い。ただ の間違い電話の可能性も無くは無いが‥。  黙って考え込んでしまったために、なつめが所在無さげだ。この ままだと、今日も1日、彼女に無駄に過ごさせてしまった事になる。  今から親父の会社の方に電話を掛けて確認を取ろうか?  番号が分かっているのは会社だけなので、親父の事を知るには、 他に方法は無い。だが、本当に親父からの電話と確信が持てない以 上、この間の繰り返しになる気がする。あのやり取りをもう一度す るのは、かなり気が重いが‥。 「‥親父の会社に電話してみる。」  ベッドを降りて、足に力を入れてみる。朝や昼の感じよりは多少 ましになっているが、足元は相変わらずふわふわとした実感の無さ が付きまとった。 「‥大丈夫ですか?まだ‥寝てた方が‥。」  なつめも立ち上がった。俺の頼りない歩みを見て、補佐しようと して手を出したが、俺はそれをやんわりと拒否した。それによって 昼の事を思い出したのか、なつめの動作が途端にぎこちなくなった。  余計な事をしたのかもしれない。  さっきまでの打ち解けた雰囲気は、あっという間に消え去った。 いや、打ち解けていると勘違いしていただけの状態だったのかもし れない。  部屋を出ると、キッチンのあたりは真っ暗で、廊下の冷たい感触 がおぼつかない足を刺す。こっちのエアコンは切って寝たらしい。  なつめはそういった事も普通に気が付く。電灯を灯し、エアコン を再び入れて、テーブルに出しっぱなしの名刺を拾う。  受話器を取り、久しぶりにダイヤルをまわした。  呼び出し音にビクビクしている自分を感じる。情けない気持ちに なりながら、10回ほどコールしたが、繋がらなかった。  とうとう打つ手がなくなってしまった。受話器を置く手が重い。 「‥出ないや。」  振り返ってなつめにそう言う。なつめの顔には別段落胆の色もな かったが、俺には罪悪感が起こった。今日の朝までは、彼女の帰宅 を阻もうという気持ちが少なからずあって、そのせいで連絡を取る 事を怠っていたからだ。 「‥ごめん。‥明日朝、‥もう一度会社に連絡入れてみるよ‥。親 父の事も分かるか‥わからないけど‥。」  謝る事しか出来ないから、もう謝るのは止めようと思っていたの に。結局この言葉しか俺には出ないようだ。 「‥いえ、今日は瞬さん具合が悪かったんですから、気にしないで 下さい。」 「‥。」  そこで話が詰まった。俺となつめは椅子に座る事もせず、立った まま所在をなくしてしまった。今はどちらもお互いから目をそらし ている。居たたまれない空気が俺達の間にはある。  まだ会って3日目――――――。これが当たり前の距離なのかも しれないのに――――――。  そのまま突っ立っているのは、さすがにまだ俺の体にはキツイよ うだった。  体の覚醒に伴って、神経が風邪症状の認識もし出したらしい。寝 てから大分経っているので、薬の効果も薄れてきてるのだろう。な ので傍の椅子に腰掛ける事にした。  続いてなつめも俺の前に座った。  ここにいてどうなる訳でもないが、俺の部屋に布団がしいてあり、 今のこの2人状態で再び戻るのは、なんとなくなつめの事を思うと、 避けた方が良いような気がする。  再び沈黙が続いた。エアコンの音が規則的に響く。  今度は俺の方から言う番なのかもしれない。 「‥今日は‥、引き止めてごめん‥。」 「‥え‥?」  なつめが俺を見る。俺も今度はなつめの方を見て話した。 「‥俺はもう大丈夫だよ。‥今はまだちょっと、だるいけど‥、明 日にはたぶん良くなると思う‥。だから‥。」 「‥‥。」  ―――――帰って良いから。そう言おうとした。会った時に言っ たように、親父の電話があったら連絡する。そう言おうとしたのだ。 なのに―――――。 「なつめは‥、帰りたいのか?」 「‥え‥?」  だが、口から出ていたのは、別の言葉だった。 「親父に連絡が取れれば、どうすればいいか分かるかもしれない。 ‥けど、なつめの母さんが言った事を考えると、そこにいるのが良 くないから俺の‥、いや、親父の所に来させたんじゃないのか?」 「‥でも‥、私‥」 「‥近くの知り合いでもない、ここによこした理由は?‥君は親父 の名前も知らないって言ったよな。そのくらいの知り合いの所に預 けけてでも、家にいない方が良いって事だと思わないか?」 「‥、それは‥」  俺は一気にまくし立てていた。なつめが戻ると言った時に考えた 事を全て。  なつめに反論できない事が分かってて言っている。まるで詰問か、 なじっているかのようだ。 「俺は、ここにいれば良いって言ったよな。今でも、そう思ってる ‥。少なくとも、何か分かるまで‥、ここにいればいいじゃないか ‥!」 「‥でも、それじゃ‥、迷惑じゃないですか‥!こっちの都合で、 いきなり現れただけでも申し訳ないのに‥。私‥、ここに来たけど、 本当は訪ねようかずっと迷ってたんだから‥!だから‥ずっと外で ‥。」  俺の語調が荒くなってきたせいもあって、なつめ自身の言葉使い にも、「ですます」が抜けて来た。  今までは俺に気を使って言われっぱなしになっていたのが、とう とう我慢出来なくなって来たらしい。  初めて会った日に、あんな長時間外で待っていたのは、確かに母 親に何か言い含められていた事もあったんだろうが、なつめ自身に とっても、見ず知らずの家に踏み込む勇気が出なかったのだ。それ は当たり前だ。今になってやっとあの時の疑問が解けたような気が した。  そんななつめに、今俺が掛ける言葉と言えば、こんな酷い言葉し かないなんて。 「‥でも、結局は俺の家を訪ねるしかなかったんだろ?」  なんて意地の悪い言い方なんだろう。今日の朝、具合が悪いせい で口走ったのとは全く違う。今は言おうとして言ってるのだ。なつ めにそういった事実を再認識させたくて言っている。 「だって‥」  なつめの目が涙で潤んで来ている。これじゃ、昼間の繰り返しじ ゃないか。目にした胸はちりちりと痛むのに、俺は言う事を止めら れない。 「‥だったらそれで良いじゃないか!最初に言った、知ってる人間 がどうかなったら気分が悪いって言うのも確かにある‥。けど‥、 俺は元々本当はそんなに優しい人間じゃない!‥普段は、誰がどう なろうと、知ったことじゃないって思ってるんだ!でも‥」 「‥?」  何を言おうとしてるんだろう。なつめも分からなくて困った顔を している。  言いたいのは1つだけだ。でも、俺にはそういう事を、ちゃんと 言った経験が無い。でも、言わないとならない気がする。言わなけ ればきっと、なつめも俺の前から消えてしまうだろう。  そんな事はもうだくさんだ。 「俺は‥、なつめの事は‥‥心配なんだ‥!俺自身こんなの変だと 思うけど、本当に心配なんだよ!!」 「‥どうして‥?私‥」 「‥わかんないよ、俺にだって‥。」 「だって‥私‥、瞬さんに‥迷惑ばっかり‥」 「‥迷惑なんて、思ってない!」 「‥」  のどの奥が熱い――――――。 「‥俺は‥なつめと一緒に‥」  そう言った時、いきなり電話が鳴り出した――――――。 (つづく)