旧式電話のベル音は、俺達を驚かせるには充分過ぎた。数回分の
コールはそれを眺めているだけで、何の反応が出来なかったほどだ。

 この電話の主が、さっきかけてきた可能性は高いだろう。そして、
それが親父である可能性も高い。俺はやっとそこに気が付き、慌て
て受話器を取った。


「―――――はい、立野です!」


 いつもなら勧誘の事も考えて、苗字は言わないようにしているの
だが、今はそんな事すら忘れていた。電話の向こうから聞こえるの
は雑音だけで、まだ何も言葉を発しない。間違い電話だけでなく、
いたずら電話という事も考えられる。などと思いながら返答を待っ
たが、沈黙がやけに長く感じられた


「もしもし!」


 すると、電話の奥でやっと応答があった。


『―――――瞬か?』


 親父の声―――――だ。

 俺は思わずなつめの方に目を泳がせた。なつめもこっちを見てい
たため、まともに目があった。俺の表情から、誰からの電話か分か
ったらしい。なつめの顔にも緊張の色が走った。


『―――――もしもし?瞬、聞こえているのか?』


 とうとうなつめの処遇が決定するのかもしれない。俺は表現し難
い感情が湧きあがってくるのを感じた。


「‥あ、ああ、聞こえてるよ‥。」


 なつめが傍へやって来る。それを見ながら、なんとか電話に声を
返す。
 ここに来た時のような距離を取るのは忘れているようで、俺に触
れるか触れないかの位置まで来た。それだけ気になるんだろう。

 俺は傍になつめが来た事によって、観念したような、安心したよ
うな気持ちになった。目線を電話に戻し、親父の声に向き合う事に
専念した。


『‥どうしたんだ?会社に電話したそうだが。何かあったのか?』


 あんたが勝手に携帯を変えてるせいなんだけどな。


 その言葉も今は話の邪魔だ。俺は一つ息を吐くと、ここまでの経
緯を話し始める事にした――――――。


「‥実は、3日前に―――――。」


 俺のあまり上手くない説明を、親父は言葉を挟まずに聞いていた。

 なつめが母親の手紙を持ってやって来た事。
 母親の状況の説明。
 今もなつめがここにいる事。

 救いなのは、分からないことが多過ぎて、説明も複雑にはならな
いところだろう。


『‥高岡―――――?』


 話し終わると、親父の口からは、なつめの苗字が繰り返された。
語調からすると、思い出せずに声に出しているように感じられた。


『‥高岡明子―――――?他には何か書いてなかったのか?』

「他には何も書いてないんだよ。なつめ自身も親父の事を知らない
かもしれないって‥。母親が居酒屋をやっているから、そこの客と
して、親父が―――――」


 そう言ったと同時に、今の今まで、なつめがどこから来たのか、
つまりどこに住んでいたのかを聞くのを忘れていた事に気が付いた。

 居酒屋の客になるにしても、親父が行く場所でなければならない
はずじゃないのか?当然気が付いて良い事なのに。


「―――――ちょっと待って、」


 そう言って、電話口に手を当て、今更ながらの質問をなつめにし
た。


「なつめが住んでた所ってどこ?」


 不意の質問に、虚を突かれたらしい。なつめの目が大きく見開か
れた。しかし俺の問い掛けによって、彼女自身もそれを言ってなか
ったのに気が付いたようだ。手を口元に持って行き、慌てて答える。


「‥ごめんなさい!あの‥、埼玉県‥。」


 聞いた住所は、俺にとっては見知らぬ地名だった。俺はなつめが
初めに話した、一時間半というここからの距離だけで、親父が今い
る土地だとばかり思い込んでいたのだ。

 親父の住所も確かに一時間半くらいの圏内だが、静岡なのだ。方
向で言えば全然違う。果たして接点はあるんだろうか?

 再び電話口に声を掛け、なつめの言った住所をそのまま繰り返し
てみた。


 暫くの間、電話の向こうは沈黙していた。彼女の母親は、すぐに
思い出せないような間柄の人間に、娘を預けたんだろうか?


 あるいは――――――

 親父としては公にに知られてはまずい間柄が、なつめの母親との
間にあるとか?

 でも、離婚している親父にそんな制約はあるんだろうか?

 例えなつめが俺の腹違いの妹だとしても、会社や祖父母に知られ
さえしなければ良いだけじゃないんだろうか。まあ、俺に信用がな
くて、誰かに話してしまうのを防ぐため、隠したいというのかもし
れないが。

 でも本当にそうならば、逆に願ったりだ。隠したりせずはっきり
言ってくれた方が、なつめに変な警戒心を持たれない分、俺として
は有り難いのに―――――。


 俺がそんな邪推をしている間に、親父からはもっと単純な答が返
って来た。


『―――――やっぱり俺にはその名前に心当たりがない。』

「‥無いって‥。でも、本当に―――――」

『‥失念してる可能性は無いとは言えないが、それにしても、こん
な事を頼んでくる人物で、そんな名前の女性は思い付かない。』

「‥じゃあ‥。」


 俺はなつめの顔を見た。断片ではあるが、俺と親父のやり取りを
聞いて、顔を曇らせている。

 まさかこんな事になるとは――――――。
 母親の状況は分からないにしても、知り合いである事が否定され
るとは思ってもみなかった。


 もちろん、親父が「本当の事を言っている」のだとすれば、の話
だが。


『‥そうだな‥もう少し様子を見た方が良いし、俺の方でもちょっ
と調べてみるが―――――』


 親父はそこで一旦言葉を切った。が、すぐに決定的な言葉を継ぎ
足した。


『‥その母親からの連絡がこのまま無いようなら、警察に相談した
方が良いな‥。』


 警察が出て来たという事で、本当に親父に心当たりが無いという
裏付けになる。
 親父の体裁への執着は、相当なものなのを知っているからだ。そ
れは自分のみならず、俺にまで及ぶ事がままある事でもわかる。

 例えば俺の成績や通う学校についての体裁だ。

 普段は全くといって俺の生活に干渉しない癖に、通う学校のラン
クなどには、うるさいくらいに口を出して来たりする。今の高校に
しても、まだ中学に入って間もない頃から、ここ以下の学校である
ならば、「学費を出すに値しないと」まで言い切った。

 俺の成績までもが奴の体面のためだと思うと、正直その学校に入
る事などは冗談じゃないと思ったが、そんな事も出来ないと見なさ
れる方が俺的には許されない事のように思えた。

 だからただそれだけのために、俺は中学時代の成績を上げ、もう
一つ上のランクの学校に行ける成績を取った。でも入ったのは今の
高校で、当然父親は、行けるならランク上の学校に行けと何度も口
を出して来たが、俺は約束は約束だと突っぱねた。


 俺に重要だったのは、ただ単に親父の思惑通りにはならない事だ
ったのだ。我ながら子供っぽい反抗だと思う。


 俺の学校の事で親父の顔に傷が付くと言うならば、今回の事は尚
更だろう。もし自分に後ろ暗い事があるなら、こんな事は絶対に言
わないはずだ。逆に、自分の体裁を傷付けそうな事柄には、病的な
ほど気を使うので、そんな事になる前にさっさと警察に連絡しろと
言っているんだろう。


『‥また連絡を入れる。今仕事が忙しくて、時間が取れ次第になる
が、それまではその娘さんは預かるより仕方が無いだろう。‥で?』

「?」

『その娘はいくつなんだ?』

「14だって‥。それが?」

『‥家に一緒にいると言ったな?14の娘さんを、お前と一緒にい
させるのはどうかな‥。』


 親父の不用意な言葉に一気に頭に血が上った。


「‥!どういう事だよそれ!‥俺が何か‥するとでも‥!」


 いきなり出した怒声に、驚いたなつめの体がびくりと震える。俺
にも伝わるくらいの距離になつめはいたのだった。
 慌てて横を見ると、また涙目になっている。それを見た途端、自
分の幼稚さが恨めしくなった。ただでさえ不安になってる所へ、俺
がこんなでは、なつめが可哀想だ。

 一つ深呼吸をして、、親父は普通の大人の意見を言っているだけ
なんだと、自分に言い聞かせた。俺はなつめのためなら、自分をも
簡単に曲げられる。


『‥そうじゃない、ただ‥』

「‥‥わかってる。‥確かに、他人で歳が近い男女が一緒にいるの
は、問題があるかもしれない。‥でも、取り合えず、何かわかるま
での間はこのままにしておいて欲しいんだ。‥彼女も俺も、急激
に起こった事で、体調を崩してるんだよ‥。」

『‥‥』

「‥俺もついさっきまで寝込んでたくらいで、彼女も風邪で熱が酷
かったのが、やっと治りかけた所なんだ‥!」


 俺の説明に、親父の方も判断を出しかねているようだ。少し間を
空けて、再び話し出した。


『‥‥わかった。』


 こんな風に俺の意見が通るのは珍しい。今あまり細かいことを言
っても、しょうがないと思ったのかもしれない。ともかくあまり揉
める事なく承諾してしてもらえたので安心した。これ以上言い争い
をなつめに聞かせたくない。


『‥どちらにしろ、今日は遅すぎて何も出来ないし、明日は土曜だ。
目安として、週明け後も何も連絡が無いようなら、警察に相談する
事にするか。‥最悪その娘の母親が、事件に巻き込まれていた場合、
あんまり時間が経ってからでは遅いからな。』

「‥事件?」


 事件と言う言葉は、どこか作り物めいた世界の言葉のようで、あ
まり実感が湧かない。でも、そういった事も考えておかなければな
らないのかもしれない。


『‥まあ、そんな事は無いとは思うが、普通誰かに子供を頼むにし
ろ、連絡を入れてくるだろう。それも無いし、こちらにも心当たり
が無いとなると、かなり切迫した状況だったのかもしれないから
な。』

「‥わかった。月曜になった時点で連絡が無ければ、そうする。」

『‥じゃあ、くれぐれも慎重に行動するようにな。何か分かったら
連絡する。そっちもそうしてくれ。』


 親父はそう念を押すと、早速電話を切ろうとしたので、慌てて親
父の携帯の番号が変わってる事を指摘し、それを聞いた。これで取
り合えず用件は果たした。

 受話器を置いた後、思い出したように軽いめまいが起こった。親
父と話すことで、かなりの体力を消耗したんだろう。


 それにしても――――――。


 俺は首を巡らせてなつめを見た。なつめも俺を見ている。まさか
こんな事になるなんて――――――。


 なつめの顔を見ながら、本当の事をそのまま伝えるべきなのかの
逡巡が起こっていた。聞いたらなつめはどうするって言うだろう。

 やっぱり――――――家に戻るって言うだろうな――――――。


「‥瞬さん‥、」


 俺が何も言わないので、不安になったんだろう。これじゃ、嘘を
ついても無駄だ。それに断片とはいえ、俺達の会話の雰囲気から、
すんなりと母親の事を聞き出せたとは思ってないだろう。


 でもまずは――――――


「‥座って話そう。‥それと、なんか飲むか‥。」


 そう言ってテーブルの方に向かう。暖かいものでもと思ったのだ
が、うちではインスタントコーヒーくらいしか、飲み物の選択肢が
無い。
 二人の体にコーヒーは刺激が強いかもしれない。せめてミルクで
もあれば、胃にも優しいのかもしれないが。

 俺が逡巡しているのを見て取ったのか、なつめが立ち上がった。


「‥じゃあ、私やります。あの‥、瞬さんはコーヒーが良いです
か?」

「‥え、でも他のものって‥」

「‥買い物に行った時に買ってきたんですけど、これ‥」


 そう言ってなつめが見せたのは、ココアの箱だった。自分ではな
かなか手を出さないものが、家にあるというのは不思議な気持ちだ。
でも今の体調にはその方が良いような気がする。


「‥じゃあ、俺もそれをもらおうかな。」


 そう言うと、なつめはわずかに顔をほころばせた。
 ずっと緊張が続いていたのはなつめも同じだったんだろう。俺も
何となく笑い返した。
 それは電話の前の緊迫した状態から、脱した事の安堵の笑みだっ
たのかもしれない。

 それから俺は、なつめが湯を沸かす用意をするのを、ぼうっと眺
めていた。振り返ったなつめが心配そうに見る。


「‥本当は牛乳で入れるんだけど、買うの忘れちゃったんです。」


 ふいになつめがそう呟いた。


「‥そうなんだ。」


 俺のあいづちを聞いた後、なつめは黙々とココアを入れる事に専
念した。聞いていない事をなつめの方から話すのはめずらしい事だ。
不安を紛らわせたかったのかもしれない、そう思った。

 キッチンに甘い香りが充満し出した。なつめの立ち働く姿を見て
いると、段々自分が落ち着いていくのが分かる。しばらくすると、
俺となつめの前に香りの元が運ばれ、なつめが俺の正面に腰を下ろ
した。


 出来れば一口飲んでから話したい。でもそれは無理な相談らしい。
カップからは、湯気が勢いよく立ち上っている。俺は諦めて話す事
にした。


「‥分かったと思うけど、親父からだったよ。」


 なつめの顔に緊張が走った。俺はさっきの電話の内容を、なつめ
にそのまま伝えた。


 母親の事を親父が心当たりが無いと言ったと話すと、やはりかな
りショックを受けたようだ。警察に連絡した方が良いと言った所で
は、不安が顔に張り付いたようになってしまった。そしてゆっくり
と俯いた。


 どうしたら良いのか分からない――――――。


 俺もそうだが、彼女はもっと切実だろう。
 せっかく入れたココアも、今は彼女の視界には無い。なつめの視
線は今、自分の足元を彷徨っているのだろうか。それさえも目に入
っていないのかもしれない。

 俺はカップに手を伸ばす。もうかなり冷めていた。それでも、甘
さと暖かさが口一杯に広がっていく。


「‥うまい。」


 その言葉に反応して、なつめが顔を上げた。目に感情が見当たら
ない。


「‥飲みなよ。ちょっとは落ち着くと思う。」


 なつめはカップに目を移す。そしてもう一度俺の方を見、それか
らカップを引き寄せた。両手でしばらくカップを包むと、わずかな
暖かさも逃すまいと、必至になっているように見えた。


 不安で寒さが分からなくなるのと、不安を寒さで感じるのは、ど
っちがマシなんだろう。

 なつめはしばらくそうしていたが、ようやく決心を決めたかのよ
うに口に運んだ。そしてまたすぐに口を離し、拗ねている感じの口
調で呟いた。


「‥冷めちゃった。‥それに、やっぱり牛乳で入れた方がおいしか
った‥。」


 最後の方は、涙声にも聞こえるトーンだった。


「‥そうかな?‥うまいよ。」

「‥‥」


 なつめは返事をしなかった。それ以上はカップにも口をつけない
で、再び下を向いてしまう。ただ両手だけは、まだココアの温度を
貪るように、カップを包んだままだった。


「‥普通ならこんな時に、慰める言葉とか、励ます言葉を掛けるん
だろうな‥。」

「‥‥」


 なつめの顔が再び上がった。
 目だけがこっちを見る。何を言おうとしてるんだろうかという、
訝しむ目。
 今は一杯一杯の状態で、なつめの態度も俺に対する遠慮が薄い。
それに多少ひるみながら、逆にそういう態度に気を許されていると
感じたりもしている。

 だから俺は構わず続ける事にした。


「‥‥電話の前に話してた続きを話したいんだけど‥。」

「‥」


 なつめの目の色が少し変わった。話途中で電話が掛かって来たの
で、なつめも俺が何を言おうとしていたのか、気になっていたのか
もしれない。


「‥親父の言う通り、もしこのまま君の母さんから連絡がなかった
ら、警察に相談した方が良いっていうのは俺も賛成だ。それまでは
君を預かる事に異存はないらしいし、親父はそれ以降の事はまだ何
も言わなかったけど、俺としてはその後、君の母さんが戻ってくる
まで、ここにいれば良いと思ってる。っていうか‥」

「‥?」

「‥俺はなつめと一緒にいたい。」

「‥‥!‥え?」


 困惑した顔。それはそうだろう。3日以前は、お互いの存在すら
も知らない、赤の他人だったのだ。今は頼りの「親同士が知り合い」
という事も信じ難い状況になって来ているのに。

 普通に考えると、かなりおかしな事を考えている人間に思えるだ
ろう。少なくとも、なつめの不信感が更に肥大する発言な事は間違
いない。


「‥電話の前にも言ったけど、俺は今まで他の人間がどうなろうと
知った事じゃないと思って暮らして来た。
 電話でのやり取りでも分かるように、親父ともあんな調子だし、
なつめもここに来た時見たと思うけど、美紀――――――、一応付
き合ってる彼女に対しても、はっきり言えば俺の対応はかなり酷い
と思う。
 あの二人がもし何か事故にあって、どうかにかなっても、俺は悲
しまないとさえ思うんだ‥。
 たぶんそれくらい冷たい人間なんだと思う。
 でも、何故か俺は‥、君の事は気に掛かるっていうか‥、放って
おけないって言うか‥。
 ‥最初は‥、君も俺同様、母親に置いていかれたから‥、そのせ
いで君が気に掛かるんだと思ってたんだけど‥。」

「‥‥」


 なつめはまだ困惑した顔をしてはいた。が、別段嫌悪の表情は無
いようだ。
 良かった。ここで彼女ににそんな顔をされたら、いくらなんでも
話を続けていられないだろう。
 願わくば、最後までちゃんと話したい。俺はこんな事を人に言う
のは初めてなんだから。

 ある意味、なつめが俺の彼女にしたい相手で、交際を申し込む方
が、よっぽど理屈として説明しやすいのに。


「‥確かに、俺と君との共通項はあると思う。
 俺はなつめを見てると、昔母親に置いていかれた時の情景をすご
く思い出すし‥。
 ‥俺の時も‥、やっぱりこんな季節で、俺の方はとうとう帰って
来てくれなかったけどさ‥。
 だから君に、辛い思いをさせるのは、昔の俺が辛いんだと思った
りもしたし‥、実際それもあるのかもしれない。」

「‥‥‥」


「‥でも、それだけじゃないんだよな‥。
 何でか‥、本当に何でか分からないんだけど、俺はなつめと一緒
にいると、すごく安心するみたいなんだ‥。
 肉親と一緒にいるのがこんな感じなのかもしれないけど‥、あい
にく本当に血が繋がった親父にはそんな感情、全く感じないんで、
それもどうだか怪しいんだけどさ‥。」

「‥‥」


 なつめは一言も言わない。ただ俺の言う事を聞いてくれてる。


「迷惑じゃないっていうのは、こういう事だよ。‥俺が一緒にいた
いんだ‥。
 こんな事はなつめにとっては迷惑な話だと思う。
 ‥すごく自分勝手な話だからな‥。
 こんな事を言う、俺の事を信用も出来ないだろうし‥。でも‥。」

「‥‥」


「‥ここにいるのが、本当に嫌じゃなければ、ここにいて欲しい。
 遠慮とか、俺に迷惑だからなんて事は、聞いた通り全然思ってな
いからさ‥。
 ただ、それでもやっぱり帰りたいって思うなら‥」


 そこで言葉が詰まった。これ以上は俺が強制出来る事じゃないの
は、分かっているつもりなのに。自分からはそうすれば良いとは言
えないのだ。
 自分がこんなにも執着心の強い人間だなんて思わなかった。俺の
言いたい事はほぼ言った。だから――――――


「‥なつめは‥どうしたい?」


 あとはなつめの言葉を待つ事にした。もうそれしか出来ないから。

 急に自分へ放られた質問に、なつめは少し驚いたようだった。話
していた時に注がれていた目線が、初めて俺から離れる。ずっとそ
のままだったカップを包む手の方へと流れていく。


「‥‥」


 それからしばらく間があった。

 沈黙が続くと、何を考えているのかが気になって来る。やっぱり
俺の事を疑わしいとか、気持ちが悪いとか思っているんだろうか。

 そんな考えに囚われだすと、段々顔を上げているのが辛くなって
来た。いつしか俺の目線も、なつめの手を見ていた。


「‥‥私‥、」


 なつめの手に力が入るのが分かった。自分の心臓が大きく波を打
ち始めるのが分かる。


「‥‥家に‥戻りたいです‥。」


 胸に何か重い物が詰め込まれた。そんな気がした。

(つづく)