――――――胸が重い。そしてその部分がやけに痛い。


 感じる重みは本当の重さじゃないのに、何故こんなに息苦しくな
るんだろう。心臓が波打つと、それに合わせて痛みが走る。


 これは今までの俺がやって来た事の報復なんだろうか。


 自分から人を拒絶して来た人間は、その分だけ受け入れられる事
はない。そういう事なんだろうか。


 ――――――もうあんな思いはしたくなかった。


 あの雪の日に起こった事が、ずっと俺を縛り続けている。


――――――自分は誰にも省みられない存在――――――


 既にあの頃、俺は父から肉親として、血の通った何かを与えられ
る事を諦めていた。でも、母までがそうだったという事を思い知ら
されたあの日。


 だから俺は自分から他人を拒み続けて来たのに――――――。



 でも、あの時、俺には後悔していた事があったのだ。もしも、俺
が気持ちをちゃんとさらけ出し、母親にすがっていたら、結果は違
ったんじゃないか――――――。


 幾度も続いた母の家出。

 多少の腹立たしさしか覚えなかったというのは大嘘だ。俺は母に
猛烈に腹を立てていた。

 俺を置いて行ってしまえる母親が憎かった。その度に俺は、自分
が母親にとって、その位の存在だと突きつけられている気がした。

 だから自分の口からは、「行かないで欲しい」とは、どうしても
言えなかったのだ。

 不器用な両親に育てられた不器用な子供。

 その子供の俺ができる精一杯の強がりと甘え――――――。

 悪いのは母親で、俺じゃない。言わなくても、分かってるはずだ。
だから毎回帰って来るし、俺に謝るんだと。


――――――その結果があれだ――――――


 ‥言っていたら変わっていたかもしれない。

 俺は全てを否定される前に、そう思い込む事に逃げた。そうやっ
て俺はずっと自分を守ってきたのだ。あの時は運が悪かった。だか
ら今だに手紙が来るんだと。それで自己満足していたのだ。


 きっと気持ちを言えば、思い留まってくれた。

 あの時も。

 そう思いたかった。きっと今も。だから言った。


 でも――――――

 今度こそ――――――答えが出てしまった。


 胸の痛みは、あの時既に壊れていた、俺の器官の痛みだろう。や
っと痛むのを許されて痛んでいる。

 あの時痛みを受けとめておけば、今頃こんなに苦しむ事はなかっ
たのか。
 子供の時に済ませておかなければならない病のように、大人にな
ってかかるのと同じで、時期を逃してしまった事柄は、しっぺ返し
が大きいのかもしれない。


 暖められた室内で、俺は確かにあの日の寒さを感じ始めていた。
その証拠に、俺の口は震えている。だから、


「‥わかっ‥た‥。」


 そう言うのが精一杯だった。


 全ては終わってしまった。
 俺を支えていた、長年の思い込みは、あっさりと崩れた。

 もう虚勢を張る力もない。俺は傷付いて、惨めな顔を晒している
――――――。


 求めても得られない人間。それが悲しくて、苦しくて、目の前が
滲み出す。

 さっきまで何気なく眺めていたテーブルの上には、既になつめの
手は無く、置き去りにされたカップだけが、ゆらゆらと揺れて見え
た。


「‥」


 なつめが何かを言った気がした。上手く聞き取れず、ふと顔を上
げる。そのせいで水面の均衡が崩れたらしく、頬を涙が伝うのが分
かった。
 すると、今までぼやけていた視界が、次第にはっきりと見え出し
た。


 子供が必至に泣くのを堪えている表情――――――


 その時のなつめはそんな顔をしていた。

 顔は赤くなり、目は固く閉じられて、今にも破裂してしまいそう
な何かを抑えている。俺の目には、それがコマ送りのように、ゆっ
くりと再生されていた。

 なつめの体は段々と震え出し、堪えきれずにしゃくりあげる。そ
して声をあげて泣き出す――――――。


 泣き声が聞こえた瞬間、俺の感覚は一気に通常に戻った。


 何故そんなふうに見えたのか、また、その間隔の落差に驚いて、
しばらくその様子を眺めているだけしか出来なかった。

 やっと彼女の状態がただ事ではないのを悟った途端、俺は何かか
ら開放されるように、なつめの傍に駈け寄った。


「‥なつめ!?」


 肩をゆする。声を掛ける。幾度か繰り返してみたが、それでも彼
女は泣き続けるだけだった。

 今は深夜で、大きな音は避けたい時間帯だ。その気持ちに反し、
なつめの声はかなり大きい。周りの住人にも聞こえている可能性は
高いだろう。異変を聞きつけて、通報などされたら――――――。

 そんな考えが頭をよぎる。

 早く何とかしなくては。焦れば焦るほど、どうして良いか分から
なくなった。パニック状態とは、こういうものかもしれない。

 次の瞬間、とっさに俺は、その声を抑えようという行動に出てい
た。なつめを自分の方に引き寄せ、頭を両手で抱え込む。なつめの
顔が、俺の服に押し当てられる。


「‥やっ‥!!!」


 急にそんな事をされたため、慌ててなつめが抵抗した。埋まった
顔をはがそうと、両手に力を込めた。でも力では男の俺の方が勝っ
ている。

 傍から見たら、嫌がるなつめを俺が無理矢理抱きしめている格好
に見えるだろう。でもその時の俺には、他にどうして良いか考えつ
かなかったのだ。

 最初こそ、抗おうと力を入れたり、俺の体を叩いたりしていたな
つめだったが、俺がそれ以上何もしないのと、自分の力では敵わな
いと分かったらしい。
 次第に無抵抗になり、両手も俺の服を掴んだままの状態になった。

 それと同時に、再び泣く方に意識が戻ったらしい。さっきほど激
しくはないものの、俺に顔を押し当てる力が強くなった。

 そうされると逆に、俺の腕からは力が抜け、なつめの肩の辺りで
ゆるく抱き抱える格好になった。


 その姿勢のまま、泣きじゃくるなつめの頭を上から見下ろし、俺
はずっと呆然としていた――――――。








 時間が飛んだ。

 なつめが落ち着いたのは、既に日付も変わった頃だった。それで
もまだ、俺の体から離れようとはしなかった。


「‥ぉめ‥んな‥さぃ‥」


 息を吐きながら、まだ鼻声で呟く。


 俺はどう答えて良いのか分からず、返答に困る。

 彼女が泣いている間、落ち着きを取り戻しつつあったものの、そ
れでも何故なつめが泣き出したのかは分からなかった。

 ゆっくりとした動作で、なつめが顔を上げる。
 目も鼻も頬も、全てが涙の塩分で、痛々しいほどに赤く腫れ上っ
ていた。それもそのはずで、顔を当てていた部分は、泣いていた時
間に比例して、かなり濡れてしまっている。

 その部分をなつめが手でなでた。どうやらその事を謝っているら
しい。


「‥別に‥、着替えればいいだけだし‥。」


 そう言うと、服に触っていた手が俺から離れた。それをきっかけ
に、一気に緊張から開放された。他の事に気をとられ、忘れていた
疲労感が、今とばかりに押し寄せて来る。

 具合いが幾分回復したとはいえ、めったにしない親父との会話や、
なつめの母親の事、その後に起こったなつめの急変。そのどれもが
俺には対処し難いものだった。病気で弱っていれば尚更だ。

 傍にあった椅子を手で探り当て、背もたれに体重を任せて座り込
む。
 そうして再びなつめを見た。


 まるで小さな子供のようだ――――――と、思った。


 迷子になって、迎えを待ちきれず、不安で泣きじゃくる子供。で
も、なつめが待っている迎えは俺じゃない。

 思うともなしにそんな事を考えていた。それに気が付いたのか、


「‥ごめんなさい‥。」


と、今度はかなりはっきりした声で言った。


「‥‥」


 やっぱり何も言えない。何で泣いたかを知りたいが、俺にはその
資格が無い。

「帰りたい」という言葉は、俺にとっての最後通牒に等しい言葉だ。
拒絶されても、これ以上嫌われたくない。あさましい自衛が働いて
いるのだ。


 臆病者は言葉も発することが出来ない。

 それは俺の罪なのに、そんな俺の態度を、なつめは自分に腹を立
てていると取ったらしい。

 あっという間に、目に涙が溜まって落ちた。


「‥ご、めんなさい‥。」


 怯える目。震える声。そんな顔をさせたいんじゃないのに。

 涙の粒は大きくて、ぱたぱた音を立てて落ちていく。

 俺は言葉を無くしてしまった。だから言葉の代わりに出たものは、
彼女が流すものと同じ涙しかなかった。彼女ほどの量ではないそれ
は、ゆっくりと頬を伝って落ちる。

 それになつめが気が付き、一瞬表情が固まる。俺が何故泣いてい るのか、彼女に分かるはずが無い。俺自身でさえよく分からないの だ。 「‥瞬さん‥、‥えと‥、あの‥、‥」  自分が泣いているのも忘れて、なつめが俺の状態を何とかしよう としている。  俺は、そんななつめが好きだと思った。  ただ単純にそう思えた事が、更に涙を溢れさせた。 「‥な、泣かないで下さい‥。私‥、」  「泣くな」という言葉には、更に涙を出させる効果があった事を 思い出す。  子供の頃も、こう言われて泣き止めなかった記憶がある。そして、 人が泣いていると、自分も泣きたくなって来るのだ。  ―――――母さんが泣いていた時、俺も悲しかったように。  なつめの目にも再び涙が溢れ、俺に掛ける声も出せなくなった。  俺は俺で、とうとう顔を上げていられないほどになってしまう。 その時の俺は、泣いている自分が恥ずかしくて、声だけは漏らすま いと必死になっていた。そんな事をしても泣いている事実は変えら れないのに―――――。  午前2時を過ぎていた。  俺達はキッチンから移動し、再び俺の部屋にいた。なつめの涙で 濡れた上着は、洗濯機の中に放り込んだ。着替えた服で、俺はベッ ドに横になっていた。なつめも傍の布団に横になっている。  昨日と同じ。ただ1つ違うのは、俺が手を縛られていないことか もしれない。  泣いた事が関係しているのか、なつめも俺も熱がぶり返してしま った。お互いの額には、再び冷却シートが貼られている。目も腫れ てしまったので、2人して顔にタオルも当てている。  誰かが見たら、かなり間抜けな格好で横たわっている2人に見え るはずだ。  あれから、俺がほとんど言葉を発しなくなってしまったので、な つめが気を使って俺に話し掛けている。今の俺達に、長い沈黙は重 すぎるのかもしれない。  その事で俺は申し訳ないと思いながらも、何も言ってやれない。  なので、時々相づちを入れるくらいで、後は黙って聞いているし かなかった。  話の内容は、たわいない事に終始した。季節の話題、食べ物の話 題、そして学校の事など。  俺が何日も学校を休んだ事を、なつめはやはり気にしていた。俺 は休めるならずっと休んでいても良いと言うと、なつめも半分は共 感したらしい。  ただ、今こうしていても、学校の友達に何も言わないで来たのは 気に掛かっているようだった。その気持ちは、俺にはないものだ。  そうやって、ぽつりぽつりと話しているうちに、話す事が無くな って来たらしい。  とうとうさっき、自分が泣き出した理由にまで、話が及んだ。 「‥帰りたいって言った後に泣き出しちゃったのは‥、帰った後、 お母さんが戻って来なかったら、私本当にどうしたら良いかわかん ないのが本当だったから‥です。  ‥瞬さんが言ってた通りで‥、よくは知らないけど、お母さんは 自分の親戚とか、全然親しくしてなかったし、お父さんは私が物心 ついた時にはいなかったし、近所の人だって‥、うちが居酒屋とい うのもあって、あんまり付き合いないんです‥。  ‥だからきっと母もそういう所にあたしを預けなかったと思うん です。」  なつめの一人称が変わった。  「私」とずっと言っていたので、普段もそうなんだと思っていた。 まだ気を使っていたんだ。「あたし」という一人称が、何だか生々 しい。  本当のところ、今まで俺からなつめに対して、「女」としては認 識していなかった。  もちろん扱いは「女の子」なのだけど、‥もっと無機質な区分け だったのだ。  なんだか、変な気持ちだ。 「‥でも‥、瞬さんのお父さんもお母さんの事知らなかったって聞 いて‥。だから‥、やっぱりここにもいちゃいけないと思って‥。  ‥じゃあ、帰るとして‥、これからどうして生活していこうとか、 お金もお母さんにもらったお金と自分のお小遣いを足しても、そん なに長く生活できないしとか‥。  いろんな事考えたら、頭の中がぐちゃぐちゃで、なんかどうにも 出来ないのが目に見えてきちゃって‥。  ‥そうしたら、このまま瞬さんの言葉に甘えて、ずっと居座っち ゃえば良いって考える自分もいて‥。  ‥あたし‥、‥困ってるからって‥、そんなの自分の都合なのに ‥。汚い考えだなって思ったら‥」  理由の分からない「ごめんなさい」はこの事の謝罪だったのだろ うか。でも、そんな事考える必要ないのに――――――。 「‥汚くなんて‥ない‥。」  俺がやっと発した言葉で、なつめの言葉が途絶える。 「だって‥、‥今のこの状況は、なつめのせいじゃないじゃないか ‥。‥どうしようもない時は、頼るしかない‥。そうだろ‥?」  実際、俺が母親に置いていかれた時、俺は何も出来なかった。確 かに年齢が彼女よりも低かったという事もあるが――――――。  ただ、もし同年齢であっても、なつめの置かれている状況にはな らないだろう事は想像がつく。  あんな親父であっても、保護者として存在があるわけで、今では 疎遠ではあるものの、祖父母もいる。だから、先の生活の不安は考 える必要はないのだ。  こんな事は今まで考えた事はなかったが、俺は恵まれているのか もしれないと思った。  例え俺と肉親の間柄が、普通の家族とは異なる、お互いを関与し ない関係であっても、生活に困らない状態は保たれて来たのだ。  親父もその部分は放棄しなかった。俺はただ、当たり前と受け止 めていたが、親父にその気がなければ、俺を育てる事を放棄する事 も出来るのだ。もちろん法的や、周囲の意見も出てくるだろうが、 そんな事はどうにでもなる。  自分の事というのは、比較となるものがあって、初めて認識でき るものだが、今まで俺は、自分が一番最低な状況だという考えに、 ずっと囚われていた。  母親に捨てられた事のない周りの人間は、俺が与えられなかった ものを、当然のように享受している。その認識の無さに腹を立て、 知っている自分を上に見ていた。  俺に比べたら、なつめは自分で何とかしようと考えてる。  いや、彼女を取り巻く環境が、俺よりもずっと厳しくて、彼女は それを考えざるをえないのだ。何も知らないのは俺も同じだ。  自分の矮小さが分かってしまい、恥ずかしくなって来る。 「‥居座ってくれた方が‥、俺は‥嬉しい。」  俺が言葉を挟んでから、なつめはずっと押し黙っていた。そして とうとう、思い切ったようにこう言った。 「‥でもあたし‥、瞬さんに不愉快な思いさせちゃうから‥。」  なつめの一番気に掛かっている事はこれなんだろう。  なつめは俺を恐れている。  正直これには、俺もかなり気が重い。今こうしている事も、本当 は安心出来ない気持ちなのかもしれない。  なつめ自身、どうしようも出来ないから、はっきり俺に、こんな 事を言うんだろう。俺がもっと信用出来るようになれば、その気持 ちは変わるんだろうか?  でも‥ 「‥それでもやっぱり‥、いてくれた方が俺は嬉しい‥。」 「‥」  沈黙。俺は更に続けた。 「‥これからずっと、寝る部屋が別であっても、寝る時は手足を縛 れって言われればそうするし、俺は――――――」 「あ、‥足までは縛ってないじゃないですか‥!」  なつめが突然口を挟む。そして再び沈黙。じゃあ‥、 「‥俺が何で泣いたか、‥聞く?」 「‥え?‥あ‥。‥‥‥‥はい‥」  気にならないわけがない。でもそれは、 「‥俺にも‥よくわからない。」 「――――――!!‥瞬さん、あたしの事からかって―――――― ‥」  なつめが起き上がるのが分かる。俺はとっくに起き上がっていた。 電灯の小玉がついているだけの部屋の中は薄暗い。でも、タオルで 目を隠していたなつめには、ちゃんと俺が見えるかもしれない。俺 にはなつめが見えるから。 「‥でも、たぶん‥、なつめがいなくなると思ったからだと思う。」 「‥」  なつめがいなくなる。そう思っただけで、今の俺には涙を止めら れない。手に雫が落ちる。 「‥なつめが‥、本当に嫌じゃなければ、‥いて‥欲しい‥。」  声が震える。顔が熱い。もう情けない姿を晒さないための悪あが きはやめだ。そんなものは何にもならない。俺の今の気持ちを、な つめにそのまま伝えるだけで良い。 「‥‥は‥ぃ‥。」  なつめの声も震えていた。でも、何となく安心したように俺には 聞こえた――――――。 (つづく)