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それになつめが気が付き、一瞬表情が固まる。俺が何故泣いてい
るのか、彼女に分かるはずが無い。俺自身でさえよく分からないの
だ。
「‥瞬さん‥、‥えと‥、あの‥、‥」
自分が泣いているのも忘れて、なつめが俺の状態を何とかしよう
としている。
俺は、そんななつめが好きだと思った。
ただ単純にそう思えた事が、更に涙を溢れさせた。
「‥な、泣かないで下さい‥。私‥、」
「泣くな」という言葉には、更に涙を出させる効果があった事を
思い出す。
子供の頃も、こう言われて泣き止めなかった記憶がある。そして、
人が泣いていると、自分も泣きたくなって来るのだ。
―――――母さんが泣いていた時、俺も悲しかったように。
なつめの目にも再び涙が溢れ、俺に掛ける声も出せなくなった。
俺は俺で、とうとう顔を上げていられないほどになってしまう。
その時の俺は、泣いている自分が恥ずかしくて、声だけは漏らすま
いと必死になっていた。そんな事をしても泣いている事実は変えら
れないのに―――――。
午前2時を過ぎていた。
俺達はキッチンから移動し、再び俺の部屋にいた。なつめの涙で
濡れた上着は、洗濯機の中に放り込んだ。着替えた服で、俺はベッ
ドに横になっていた。なつめも傍の布団に横になっている。
昨日と同じ。ただ1つ違うのは、俺が手を縛られていないことか
もしれない。
泣いた事が関係しているのか、なつめも俺も熱がぶり返してしま
った。お互いの額には、再び冷却シートが貼られている。目も腫れ
てしまったので、2人して顔にタオルも当てている。
誰かが見たら、かなり間抜けな格好で横たわっている2人に見え
るはずだ。
あれから、俺がほとんど言葉を発しなくなってしまったので、な
つめが気を使って俺に話し掛けている。今の俺達に、長い沈黙は重
すぎるのかもしれない。
その事で俺は申し訳ないと思いながらも、何も言ってやれない。
なので、時々相づちを入れるくらいで、後は黙って聞いているし
かなかった。
話の内容は、たわいない事に終始した。季節の話題、食べ物の話
題、そして学校の事など。
俺が何日も学校を休んだ事を、なつめはやはり気にしていた。俺
は休めるならずっと休んでいても良いと言うと、なつめも半分は共
感したらしい。
ただ、今こうしていても、学校の友達に何も言わないで来たのは
気に掛かっているようだった。その気持ちは、俺にはないものだ。
そうやって、ぽつりぽつりと話しているうちに、話す事が無くな
って来たらしい。
とうとうさっき、自分が泣き出した理由にまで、話が及んだ。
「‥帰りたいって言った後に泣き出しちゃったのは‥、帰った後、
お母さんが戻って来なかったら、私本当にどうしたら良いかわかん
ないのが本当だったから‥です。
‥瞬さんが言ってた通りで‥、よくは知らないけど、お母さんは
自分の親戚とか、全然親しくしてなかったし、お父さんは私が物心
ついた時にはいなかったし、近所の人だって‥、うちが居酒屋とい
うのもあって、あんまり付き合いないんです‥。
‥だからきっと母もそういう所にあたしを預けなかったと思うん
です。」
なつめの一人称が変わった。
「私」とずっと言っていたので、普段もそうなんだと思っていた。
まだ気を使っていたんだ。「あたし」という一人称が、何だか生々
しい。
本当のところ、今まで俺からなつめに対して、「女」としては認
識していなかった。
もちろん扱いは「女の子」なのだけど、‥もっと無機質な区分け
だったのだ。
なんだか、変な気持ちだ。
「‥でも‥、瞬さんのお父さんもお母さんの事知らなかったって聞
いて‥。だから‥、やっぱりここにもいちゃいけないと思って‥。
‥じゃあ、帰るとして‥、これからどうして生活していこうとか、
お金もお母さんにもらったお金と自分のお小遣いを足しても、そん
なに長く生活できないしとか‥。
いろんな事考えたら、頭の中がぐちゃぐちゃで、なんかどうにも
出来ないのが目に見えてきちゃって‥。
‥そうしたら、このまま瞬さんの言葉に甘えて、ずっと居座っち
ゃえば良いって考える自分もいて‥。
‥あたし‥、‥困ってるからって‥、そんなの自分の都合なのに
‥。汚い考えだなって思ったら‥」
理由の分からない「ごめんなさい」はこの事の謝罪だったのだろ
うか。でも、そんな事考える必要ないのに――――――。
「‥汚くなんて‥ない‥。」
俺がやっと発した言葉で、なつめの言葉が途絶える。
「だって‥、‥今のこの状況は、なつめのせいじゃないじゃないか
‥。‥どうしようもない時は、頼るしかない‥。そうだろ‥?」
実際、俺が母親に置いていかれた時、俺は何も出来なかった。確
かに年齢が彼女よりも低かったという事もあるが――――――。
ただ、もし同年齢であっても、なつめの置かれている状況にはな
らないだろう事は想像がつく。
あんな親父であっても、保護者として存在があるわけで、今では
疎遠ではあるものの、祖父母もいる。だから、先の生活の不安は考
える必要はないのだ。
こんな事は今まで考えた事はなかったが、俺は恵まれているのか
もしれないと思った。
例え俺と肉親の間柄が、普通の家族とは異なる、お互いを関与し
ない関係であっても、生活に困らない状態は保たれて来たのだ。
親父もその部分は放棄しなかった。俺はただ、当たり前と受け止
めていたが、親父にその気がなければ、俺を育てる事を放棄する事
も出来るのだ。もちろん法的や、周囲の意見も出てくるだろうが、
そんな事はどうにでもなる。
自分の事というのは、比較となるものがあって、初めて認識でき
るものだが、今まで俺は、自分が一番最低な状況だという考えに、
ずっと囚われていた。
母親に捨てられた事のない周りの人間は、俺が与えられなかった
ものを、当然のように享受している。その認識の無さに腹を立て、
知っている自分を上に見ていた。
俺に比べたら、なつめは自分で何とかしようと考えてる。
いや、彼女を取り巻く環境が、俺よりもずっと厳しくて、彼女は
それを考えざるをえないのだ。何も知らないのは俺も同じだ。
自分の矮小さが分かってしまい、恥ずかしくなって来る。
「‥居座ってくれた方が‥、俺は‥嬉しい。」
俺が言葉を挟んでから、なつめはずっと押し黙っていた。そして
とうとう、思い切ったようにこう言った。
「‥でもあたし‥、瞬さんに不愉快な思いさせちゃうから‥。」
なつめの一番気に掛かっている事はこれなんだろう。
なつめは俺を恐れている。
正直これには、俺もかなり気が重い。今こうしている事も、本当
は安心出来ない気持ちなのかもしれない。
なつめ自身、どうしようも出来ないから、はっきり俺に、こんな
事を言うんだろう。俺がもっと信用出来るようになれば、その気持
ちは変わるんだろうか?
でも‥
「‥それでもやっぱり‥、いてくれた方が俺は嬉しい‥。」
「‥」
沈黙。俺は更に続けた。
「‥これからずっと、寝る部屋が別であっても、寝る時は手足を縛
れって言われればそうするし、俺は――――――」
「あ、‥足までは縛ってないじゃないですか‥!」
なつめが突然口を挟む。そして再び沈黙。じゃあ‥、
「‥俺が何で泣いたか、‥聞く?」
「‥え?‥あ‥。‥‥‥‥はい‥」
気にならないわけがない。でもそれは、
「‥俺にも‥よくわからない。」
「――――――!!‥瞬さん、あたしの事からかって――――――
‥」
なつめが起き上がるのが分かる。俺はとっくに起き上がっていた。
電灯の小玉がついているだけの部屋の中は薄暗い。でも、タオルで
目を隠していたなつめには、ちゃんと俺が見えるかもしれない。俺
にはなつめが見えるから。
「‥でも、たぶん‥、なつめがいなくなると思ったからだと思う。」
「‥」
なつめがいなくなる。そう思っただけで、今の俺には涙を止めら
れない。手に雫が落ちる。
「‥なつめが‥、本当に嫌じゃなければ、‥いて‥欲しい‥。」
声が震える。顔が熱い。もう情けない姿を晒さないための悪あが
きはやめだ。そんなものは何にもならない。俺の今の気持ちを、な
つめにそのまま伝えるだけで良い。
「‥‥は‥ぃ‥。」
なつめの声も震えていた。でも、何となく安心したように俺には
聞こえた――――――。
(つづく)