実際に眠ったのは何時だったのか‥。

 あの後、俺はなかなか寝付けなかった。寝返りを打っては、その
姿勢が落ち着かず、また元に戻る。何度も繰り返したのは覚えてい
るが、いつのまにか眠りに落ちていた。

 あんなに苦労して眠ろうとしたのが嘘のように、一旦寝入ってし
まうと、今度は一度も目が覚める事が無かった。泣くという行為は、
かなり体力を消耗するらしい。


 カーテンのあたりがぼうっと明るい。朝の光ではない事は確かな
ようだ。目が覚めてくると、風邪のせいとは異なった、頭に残るだ
るさを感じた。だが、その気だるさは、どこか幸せな倦怠感だった。

 そんな気分に浸りながら、ゆっくりと起き上がった。ベッドのき
しみが大きな音にならないよう、気を付けて上体を起こし終える。
それは、ベッドの下の布団の主に気を使ったのだ。


 だが、そこになつめの姿は見当たらなかった。


 それを見た途端、心臓が大きく跳ね上がった。布団は畳んではい
ないものの、乱れなく整えられていて、誰かが眠った痕跡は見付け
られない。

 すぐさまドアの方へ駆け寄ると、今度は音など構いなしに開け放
つ。すると、昨日とは違った良い香りが辺りを包んでいた。その香
りを嗅いでもまだ安心できず、そのままキッチンへと向かう。

 そこにいたのは紛れも無くなつめだった。俺に気が付くと、ちょ
っと驚いたような顔をした。


「‥あ、起きましたか?」


 そう言われて、出て来た俺の言葉は、

「‥よかった‥。」

 という、とんちんかんな返答だった。なつめがこちらを向きなが
ら問い返す。


「‥え?何が‥?」


 手には菜箸。鍋からはもうもうと蒸気を上がっている。こんな光
景は、いつか見た気がする。


「‥いなかったから、‥やっぱり帰ったんじゃないかと思って‥。」


 俺は心底ほっとしていた。まだ心臓がドキドキしている。そのま
ま顔に出ていたんだろう。一瞬なつめはポカンとした表情になった。
だがすぐに、ちょっと照れたような、恥ずかしそうな顔に変わる。


「‥いるって‥、言ったじゃないですか‥。」

「‥。」


 俺も自分の早とちりが恥ずかしくなる。


「‥お腹空いてませんか?昨日、結局あんまり食事取らなかったか
ら‥。‥うどん‥好きだって言ったでしょ?」

「‥あ、‥うん。」


 言われてみると、確かに空腹だ。さっきはそれどころではなかっ
たから分からなかった。この香りを嗅いでいると、今にも腹が鳴っ
てしまいそうだ。


「‥あともうちょっとかかるんですけど‥。」


 そう言って、なつめは元の作業に戻る。きのうの雑炊も美味かっ
たが、改めて作っている所を見ると、その動きに淀みが無い。

 俺は椅子に腰掛けながら、その動きをしみじみと眺めた。

 自分のために、誰かが食事を作ってくれるというのは、こんな感
じだったろうか。
 記憶を手繰っていくと、思い出すのは年代の新しい順じゃない事
に気が付いた。もしそれならば、家政婦が作ってくれた料理を思い
出すはずなのに。

 でもあれは、俺のためであっても、彼女の仕事として俺に奉仕し
てくれていたのだ。だからなのだろうか、家政婦の作る食事は美味
くとも、俺に何の感動も与えなかった。だからこんな風に、調理の
場面を眺める事などなかった。

 思い出したのは、俺がまだうまく箸をつかえなかった頃。やっぱ
りこうやって、調理してくれるのを待っていた。

 ここではない台所

 で。ここではない家で。




 程なくしてうどんは出来上がった。目の前に置かれたどんぶりか
らは、湯気が勢いよく立ち上り、それが更に俺の食欲をそそる。


「‥口にあうと良いんですけど‥。」


 なつめは昨日と同じような事を言った。でも今度は一緒に箸を取
る。最後に落とした生卵も、温められて半熟で、見た目にも美味そ
うだ。


「‥いただきます。」


 熱いうどんを引き上げて、息を吹きかけて口へ運ぶ。それでもや
っぱり熱い。そして飲み込むと、反射的に言葉が出てしまう。


「‥美味い!すごく美味い!」

「‥うん、おいしい!」


 また自分でなつめも言ってる。俺を見ると、嬉しそうに笑う。


「‥瞬さん、本当においしいんですか?」

「‥なつめだって、自分で言ってるじゃん!美味いよ、ホント
に!」


 そう言い合いながらも、俺達はうどんを腹に収めていく。すぐに
おかわりをして、それもあっという間に食べ終わった後には、二人
とも汗が吹き出ていた。


「‥ごちそうさま、美味かった。」


 満腹後の心地良い気だるさが、体全体を包む。しばらくは二人と
も、そのままで食休みがてら、たわいない事を話していた。そうこ
うするうちに汗が引けて、自分の体臭に気が付いた。

 よくよく考えてみると、俺たちが風呂に入ったのは、なつめが家
に来た日で、なつめの発熱に続いて、俺が体調を崩したせいで、そ
の事は忘れていた。
 昨日は寝ている時間の方が多かったし、熱があったせいで、汗も
結構かいていた。それはなつめも同じだろう。いくら冬でも、そろ
そろ限界な感じだ。


 こんな状態で、昨日なつめに(不可抗力だが)抱きついたのかと
思うと‥。


 そんな事を考えて、なつめの方を見ると、なつめもこっちを見返
した。気恥ずかしくなって、目線を外す。なつめはちょっと不思議
な顔をしたが、それについては特に何も言わなかった。


「‥そろそろ片付けますね。」

「‥あ、片付けは俺がやるよ。作ってもらったし‥。」


 そう言うと、なつめはしっかりとこっちを見て、

「‥あたし‥、ただここにいさせてもらうより、何かさせてもらっ
た方が気が楽なんで、出来る事はやらせて下さい。」

と言った。


 なるほど、そんなものかもしれない。これからしばらくは共同で
生活していく。なつめの言葉で、何となく実感が沸いて来る。


「‥わかった。俺もその方が助かるし‥、じゃあ食事はなつめが担
当という事にして良いかな?」

「はい!‥あ、でも、本当に大したものは作れないんですけど‥」

「俺にとっては、昨日今日の料理でも、かなり大したものなんだけ
どな。俺は自分で全く出来ないから‥。‥別に毎日とかじゃなくて
良いから、作ってくれると‥、その‥嬉しいんだけど。」

「はい!頑張ります!」


 役割がで来た事が、本当に嬉しそうだ。


「なら、取り合えず俺は風呂の用意をするよ。あとで買い物に行き
たいんだけど、このままじゃ行けないからな。」

「‥お買い物ですか?」

「昨日買い物に行ってくれたけど、食材とかがほとんどで、自分の
物とか買ってないだろう?今日は俺も一緒に行くから、必用な物を
買おう。特に‥」

「?」

「‥服とか。ほとんど持って来なかっただろ?俺の服は貸すけど、
サイズが合わないもんな。」


 あと下着は貸せないし。でもこれは言うのがはばかられた。


「その他にも、色々見て、必要なものを買い足しとこうと思って。
食器とか‥。」

 ここに越して来てから、親父はすぐにいなくなったために、食器
の類は俺の分しかない。


「‥あの、炊飯器とかってないんでしょうか?」

「‥他の鍋とか、その他の調理器具は、俺が使わないからしまって
あるけど、以前使っていたものがあるはずだ。確か‥」


 そう言って、流しの上にある収納棚の扉を開けてみる。ここも開
けなくなって久しいが、流しの真上の扉を開けると、無造作に土鍋
や両手鍋、炊飯器などが左右に陳列していた。それ以外にも、ザル
やボールなど、俺にとっては無用の長物が突っ込んである。


「‥あった。」


 手を入れて、それらを取り出しなつめに渡す。


「こんなので足りるかな?」

「はい!これだけあれば、色々出来そうです。」


 なつめの満足そうな顔を見て安心したので、俺はそのまま風呂場
へ直行した。浴槽を洗い、戻ってくる頃には、食事の片付けも終え、
棚から出した鍋も洗い終わったようで、今まで閑散としていた、鍋
を並べる棚が埋まっていた。

 なんだか一気に生活感が出て来る。


 その後、慌ただしく交代で風呂に入り、風邪をひいた後という事
もあるので、お互い髪の毛は念入りに乾かした後、俺達は外に出た。



 何だかずいぶんと久しぶりのような気がする。

 天気は曇っていたが、気温は徐々に暖かくなって来ているようだ。
駅前に着くと、土曜せいか、この時間帯でもやけに人が多い。

 なつめは知らない土地がめずらしいようで、大きなデパートや、
小さな雑貨店など、興味を引かれると進行方向以外に顔が行ってし
まっている。

 昨日一人で外に出た時もそうだったんだろうか?これじゃあ、危
ない奴とかに目を付けられるぞ。


「‥なつめ、あんまりキョロキョロしてると‥」


 そう言ってる傍から、自転車で突っ込んで来た奴にぶつかりそう
になった。思わず手を引っ張る。

「‥きゃっ‥!!」  急に引っ張ったせいで、なつめは体勢を崩し、俺の方へ倒れ込む。 なつめの体重を支えるために、勢い抱き合う格好になった。 「‥っご、ごめんなさっ‥」  俺の腕の中で、なつめが真っ赤になって慌てる。それを見た途端、 ふと、「俺たちはどんな関係に見えているのか?」などという事が 頭をよぎってしまった。  確かに昨日、なつめを初めて異性と自覚したが、今を以ってもま だ、彼女をそういった対象に考えるには至っていないはずなのに。  でも、俺達は今の所、赤の他人で、年齢が近くて、その上異性だ。 全く意識しないといえば、それは嘘になるだろう。だから、俺の頬 が熱くなっても仕方がない事だと思う。でもそれを悟られたくなく て、発した俺の言葉はつっけんどになった。 「‥危ないよ‥。」  俺が怒ったと思い、なつめが萎縮する。 「‥ごめんなさい‥。」  そうじゃないのに――――――。  ――――――そうじゃないなら、言わなければ。  唐突にそう思い当たった。自分が段々と人並みに戻っていくよう な感覚。  言わなければ分からない。俺となつめは、いや、俺は他の誰とで あっても、言わなければ分からないような関係しか築いてない。  俺は今まで、言っても叶わないと決め付けていたが、叶う事だってある。  それは昨日なつめに教えてもらった。 「‥お、怒ったんじゃないよ。‥ここら辺、歩道でも構わずチャリ で突っ込んでくる奴がいるから‥、その‥危ないんだ‥!」  あんまり上手くない説明だ。自分ながら、情けない。  でも、なつめにとって、説明の上手下手は関係ないようだった。 俺が怒っていない事を、俺の表情を見て顔色でも確認している。そ の顔はやけに近い。  それもそのはずで、俺たちはまだ抱き合ったままの格好だった。 正確には、俺がなつめの背中に手を回し、なつめは俺の腕を掴んだ ままという感じだ。なつめもまだこの状態にまでは頭が回っていな いんだろう。  ようやく俺が怒ってない事が確認出来たらしい。なつめの表情が 和らいだ。俺もそれを見てほっとする。なつめから手を放すと、や っと彼女も気付いたらしく、慌てて体を放した。 「‥っあっ!っご、ごめんなさい!!」  あまりに勢い良く体を放しすぎて、またバランスを崩す。そして 俺が手を伸ばしてなつめの手を取る。 「‥だから、危ないって‥」  今度の俺の顔は、きっと呆れていたんだろう。彼女の顔がかなり 情けない感じになった。それを見た俺は笑ってしまった。  ここら辺にまだ慣れてないせいで、目が行ってしまうなら、無理 にそれをやめさせるもの可哀想だ。 「‥いいよ。だったらなつめに俺が合わせるから、好きな所を見て 回ろう。まだ時間は大丈夫だから。」  なつめが再び俺の顔色を確認した。 「‥えっ?本当に?‥良いんですか?」 「危ないよりは良いよ。」  なつめの顔がほころぶ。こんな事で喜ばれるなら、いつでもそう してやりたくなる。なつめと俺の歩く順番を交代し、彼女の安全は 俺が見守る事にした。 「‥あたしの住んでる所って、駅とかにこういったお店無いんです。 だからこんなすぐにデパートとか、大きな店があるのがめずらしく って!」  ここははっきり言って、そんなに大きな街じゃない。それでも確 かに、駅付近には、名の通ったデパートがいくつかある。ものすご く快適ではないが、不便すぎるほど不便でもない、郊外のごくごく 普通の街なのだ。  そんな街であっても、なつめにとってはすごい街なのかもしれな い。それは彼女の態度でよく分かる。  俺はちょっと、なつめの暮らしていた所に行ってみたいと感じた。 そこは俺達の年齢には退屈な町なのかもしれないが、俺は案外気に 入るかもしれない。  ――――――その時は、そう思った――――――。  なつめの安全を見守りながら、彼女の足の向く方に付いて行くと、 次に目に止まったのは携帯ショップだった。なるほど、確かに携帯 には興味があったから、当然の事なのかもしれない。 「‥なつめの同級生とかって、携帯持ってる子少ないのか?」  と、何気なく聞いてみると、なつめは少し沈んだ表情になった。 「‥ううん、結構みんな持ってます。」  ‥ああ、やっぱり持ってるよな。 「‥友達‥、一番仲の良い友達は、お年玉で最新機種を買ったの。 でも、すぐに新しいのが出ちゃうし、電話代が学生割引って言って も、結局自分で払うわけだから、あたしには買えないんです。」  友達にはその事をそのまま言えたんだろうか?俺はなつめの家の 事情を、少しではあるものの知っている。でも、同学年、しかも仲 の良い友達には言えない事なんじゃないんだろうか? 「‥ちょっと見ていこうか?」 「‥はい。」  買えなくても興味は消えない。それはそうだよな。  そんなに大きな店舗ではなかったが、店先には各電話会社の色々 な機種が並んでいた。最前に陳列されているのは、現在の最新モデ ルだろう。  確かに中学生が買うには、ゼロが一桁多過ぎる。  俺は、自分が使っている電話会社の携帯の並ぶ場所へなつめを呼 んだ。そして最新機種よりも一つ前のモデルを指差した。 「なつめはこの中のどれが良いと思う?」 「‥え?」 「なつめが使うとしたらで良いから、どれが良いと思う?俺は選ぶ のが苦手だから。」 「‥え、えーと‥。」  急に言われて戸惑ったものの、中から黒と赤の二色でデザインさ れた携帯を指差した。中学生の女子が選ぶものとしては、渋くてカ ッコ良いデザインだ。 「わかった。」  俺はそれを取り、店員を呼んで、購入手続きをした。俺がいきな り携帯を買い出した事に、なつめは驚いている。  5分ほどで手続きが済み、30分後にまたここに戻って来るよう に言われた。電話会社に契約をし、その時点で携帯が使えるように なるのだ。  あまり離れると戻って来るのが面倒になるので、周りの店を見て 回る事にした。ちょうどすぐ傍に、大きなデパートがあり、そこに 入っている店をインフォメーションでチェックすると、学生から2 0歳前後の年齢向けの店舗が多く入っている。  とりあえず1階から見ていくと、こういったデパートによくある フロア構成で、アクセサリーや、シューズ、カバン、その他の小物 などの店がひしめいている。  実際なつめに必用な買い物が出来る所は、ここの2階以上のフロ アだが、それらにざっと目を通しているだけで、あっという間に戻 る時間になった。  名残惜しそうななつめを連れて、携帯ショップへ戻った。先ほど 手続きを済ませてくれた店員に、再び声を掛けると、既に使えるよ うになった携帯が入った紙袋を渡してくれた。それをなつめに渡す。  なつめは俺が荷物を渡したのだと思い、なんの躊躇も無くそれを 受け取った。 「それはなつめの分だから。」  完全に店内から出た所で俺は振り返り、なつめに向かってそう言 った。  あまりにも唐突過ぎて、すぐには俺の言葉が理解できなかったら しい。なつめはポカンとした表情をした。 「‥俺が学校とか行ってる間、連絡を取るためとはいえ、ずっと家 にこもってられないだろ?でも、これを持ってれば、出掛けてても 連絡取れるからさ‥。」  ‥本当は自分の金で買ってやりたいところだが、バイトもしてい ない俺には、親父から貰ってる生活費で買うしかない。  こんな事なら、ちゃんとそういった事をやっておくんだった。ま さか、こんな事が起こるなんて、1週間前の俺には想像もつかなか ったんだから、仕方が無いと言えば仕方が無い。  そんな考えをよそに、なつめはようやく俺が、2台目の携帯を購 入した真意を飲み込めたようだった。 「‥え?で、でも、だって‥」 「1つ前のモデルだから、嫌かもしれないけど‥。」  俺がそう言うと、なつめは首を大げさ過ぎるくらいに振った。 「‥そ、そんな事ないです!だって‥!あ、‥でも‥。」  なつめの語尾が濁った。俺はその理由をさっき聞いている。 「‥もちろん電話代も、俺‥、というか親父が払うよ。これは俺と 同じ電話会社だから、割引きもされてるし、メチャクチャ通信費が かかんなければ、俺の生活費の範囲内だし、問題はないよ。」 「‥‥」  なつめはまだ逡巡しているようだ。目は自分の手の中にある、携 帯の紙袋に注がれている。 「‥なんて、親父とはいえ、人の金で買って大きな事は言えないけ ど、連絡が取れないと困るのは本当だろ?この位は甘えても良いん じゃないか?」 「‥‥でも‥」 「‥っていうか、俺が買いたいと思ったんだから、もしそれで何か 言われたら、俺がバイトでも何でもして親父に返すよ。それなら、 なつめは気にしないで良いだろ?」  なつめが俺を見上げる。彼女がこの事を気にしないはずが無いの は分かっている。でも、俺がなつめにしてもらった事を考えたら、 それでも安すぎるくらいなのに。俺の心が読めない彼女は、複雑な 表情を浮かべていた。  慣れない贈り物は、やっぱり相手を動揺させるだけなんだろう。 「‥、ごめん。余計気を使わせちゃったな‥。」  俺がそう言うと、なつめはもう一度携帯の紙袋に目をやった後、 再び顔を上げる。でもすぐにまた顔を伏せて喋りだした。 「‥あの‥、‥すごく‥、うれしいです。本当は‥、本当は持って る人が‥、うらやましかった‥から‥。」  頬が熱くなるのが分かる。俺は照れるような柄じゃないはずなの に。 「‥携帯‥、ちょっと出して‥。」  俺は恥ずかしさを押し隠し、勤めて普通に話し掛ける。  それを受けたなつめが、携帯の袋を開ける。その手つきは、まる で宝物を取り出すように慎重そのものだ。俺もそれに感化され、渡 された携帯を受け取るのにも、神経を使ってしまった。  たかだか携帯に何をやっているんだろう?  自分の携帯も取り出し、その時ふと思い立って、なつめの携帯は 彼女自身に返す事にした。 「今から番号言うから、ダイヤルしてみて。」  最初の電話はなつめに掛けさせてやりたかった。  なつめも俺の意図が分かったらしい。俺は自分の番号を携帯の画 面を見ながら伝えた。  液晶画面で番号を再度確認してから、通話ボタンを押させると、 当たり前なのだが俺の携帯が振動しだした。  まだ登録していないので、電話番号だけが表示されている。一旦 切るように言って、今度は俺の方から掛け直してみた。  すると、今度も当然なつめの携帯が鳴った。標準設定の電子ベル の音が耳に痛い。けれど彼女にとって、それは初めての自分だけの 電話の音なのだ。 「‥はいっ!」  それは、目の前に掛けた本人がいるのにも関わらず、律儀に電話 を受けた事でも分かった。自分でもすぐにそれに気が付いたのか、 「‥あ!‥」と言って、俺の方を見た。見る間に顔が赤くなる。  それがおかしいような、嬉しいような、何とも言えない気持ちに なって、思わず俺も電話に応答してしまう。 「‥もしもし?」  自分の声が、サラウンドになって聞こえる。なつめは切るに切れ ず、かといって言う事もなく、ただ赤くなるばかりだ。可哀想にな って俺の方から通話を切り上げた。 「‥それが俺の携帯の番号だから。消さないように後で電話帳に登 録しておくといいよ。リダイヤルでも掛かるけど‥。」 「‥はぃ‥。」  恥ずかしさも手伝ってか、再び携帯を仕舞い込みそうななつめに、 携帯の本来の役目を果たさせるべくジーンズか、上着のポケットに 入れておく事を勧めた。  彼女にとっては、不安要素がある保管場所だが、いざ必要な時に 気が付かなければ意味がない。  結局ジーンズに入れる事にしたようだ。入れた携帯が気になって 仕方ないらしく、その部分に手を当てている。  何だかすごく子供っぽくて、俺は思わず口元が緩む。そしてそれ に気が付いたなつめが、非難の目で俺を睨む。 「‥な、何がおかしいんですか!」 「んん、いや、何でもないよ。」 「‥笑ってるじゃないですか!!」 「笑ってない、笑ってない。じゃ、そろそろ買い物に行くぞ。」 「‥〜〜〜!」  そんなやり取りをしていた時、不意に背後から声を掛けられた― ―――――。 (つづく)