家に着くと、時刻は既に11時近くになっていた。

 取りあえず荷物を下ろし、一休みする事にする。開けるだけでも
大変な物量だ。手分けしてやっても、かなりの時間がかかるだろう。

 ならば先に休んでしまえば良い。

 もし疲れてしまっても、明日も休みだ。何とかなるだろう。


 体力的には俺の方が勝っているので、飲み物の用意をしようとキ
ッチンに立つ。するとすかさずなつめがやって来た。


「瞬さんは座ってて下さい。あたしやります!」

「‥良いよ、このくらい。疲れただろ?」

「‥で、でも!」


 食事関係の事を任せたためか、こういう事全般をやるものだと決
めてしまっているようだ。「疲れたから手抜き」、などという事は
考えなさそうだな。
 それはそれで、息抜きが出来そうになく、かえって心配だ。


「‥コーヒー飲みたいからさ。この前はインスタントだったけど、
今日はドリップで入れてやるよ。それに、俺から動くなんて貴重な
んだぜー。なつめは座って、座って。」


 俺がテーブルの椅子を指差すと、なつめはしぶしぶといった感じ
で腰掛けた。


「‥じゃあ、カップを温めて‥と、」


 今まで自分だけの為にやっていた行為を、もう一人分追加する。
手馴れた作業のため、勝手に手が動いて、その間の思考が自由にな
ってしまう。だから嫌でもこれからの問題に頭が行った。


 まず、寝る所だ。

 昨日はなんだかんだで、一緒の部屋に寝かせたが、今夜はどうし
よう。

 本当は、俺が元に戻って向こうの部屋に移り、俺の部屋は彼女が
使うというのが一番良い事なんだろうけど‥。

 でも俺は、出来たら今夜も一緒の部屋で寝て欲しいと思っている。


 これは甘えだ――――――。


 それは分かっている。俺はなつめが傍にいると安心するのだ。

 一緒にいるだけで、胸が温かい。こんな気持ちは、今までずっと
どこかに置き忘れて来ていた。それを取り戻してしまった今、それ
が無い状態に戻る事を恐れているのだ。


 湯の沸く蒸気の音で、我に返る。

 火を落として、コーヒーの粉――――――一応ブルーマウンテン。
多少値が張るが気に入っている――――――を入れたドリッパーを、
温めたカップに乗せる。湯を回しながらゆっくり入れ始めると、香
ばしい豆の香りが、キッチン全体に広がって行くのが分かる

 はじめはなつめの分。少し蒸らして、また湯を注ぐ。


 ‥それから、永澤から言われた美紀の事。
 今日中に何とか連絡を取っておいた方が良いんだけど‥。じゃな
いと、結局そのままになってしまうような気がする。

 それで美紀が俺に愛想を尽かしても、それはそれでいいとは思う。
でも、それでは永澤に申し訳ない。


 自分がこんなに義理堅い事を考える時が来るなんて、思ってもみ
なかった。


 湯の入れすぎに気を配りながら、ドリッパーを取り除くと、丁度
良いくらいの分量だ。
 それをなつめの方に差し出す。すると、何故かやや緊張の面持ち
で、それを受け取った。


「先に飲んで良いよ。」

「‥あ、はい!」


 とは言ったものの、何となく俺の分を入れるまでは待っていそう
だ。

 再びキッチンに向き直り、今度は自分の分を入れていく。
 なつめの事も考えて、自分の分はやや適当に、手早く入れ終えて
テーブルに戻った。

 すると案の定、まだ彼女は口をつけていなかった。そう言えば、
最初にコーヒーを出した時、なつめは飲んだだろうか?もしかして
‥。


「‥もしかして‥、コーヒーは苦手とか?」


 恐る恐る聞くと、なつめは慌ててそれを否定した。


「い、いえ!!そうじゃなくて、家ではインスタントしか飲んだ事
無くって‥、だからちょっと気後れしちゃって‥!あと‥、えっと
‥、あの‥、」

「‥?」

「‥お砂糖‥、とか、入れても良いでしょうか?」


 ああ、そうか!!初めに出した時も、自分が何も入れないのが普
通だったから、そういった物を添える事すら思い付かなかった!


「‥あ、ゴメン。そっか、苦いもんな。」


 と言いながら、笑ってしまった。
 すると、なつめが反発の眼でこちらを見る。


「‥また、瞬さんはそうやってすぐに笑う!!」


 普通はこんなに笑わないんだって事を、教えてやりたくなって来
た。ここ数日で、この数年分笑っている気がする。

 なつめが一人で買い物をして来た時に、砂糖も調味料として買っ
て来ておいたらしい。それを入れようとしているなつめを眺めつつ、
俺は先に苦い飲み物を堪能させてもらう事にした。

 口一杯に、温かさと苦味が広がる。

 コーヒーには精神を安定させる作用があるんだっただろうか。俺
はふと、さっきまで考えていた事を、そのままなつめに話してみよ
うかという気になった。


「‥あのさ‥、今日寝る場所の事なんだけど‥。」

「‥あ、はい‥。」


 この質問には、なつめも敏感に反応する。やっぱり無理な話だろ
うか。


「‥その、なつめが嫌じゃなければ、今日も俺の部屋で一緒っての
はダメかな?あっちの部屋は、確かに空気は入れ替えたけど、出来
たら明日、きちんと掃除したりしてから移りたいし‥。」


 とっさに出た言葉としては、上出来な言い訳かもしれない。


「‥いや、もちろんダメなら俺があっちで休むけど‥。」


 汚い言い方だ。

 どうしても嫌ならなつめが向こうで休むと言うだろうが、昨日の
事もあるし、なつめの性格からいうと‥。


「‥‥‥、いえ、分かりました。あの部屋、確かにお掃除した方が
良いとは思ってたんです。‥今日はもう遅いし、そうさせて下さい
‥。」


 別にやましい事を企んでいるわけでもないのに、なつめの言葉に
は、胸の奥がチリチリと痛んだ。

 もちろん俺が本当になつめを襲ったら、彼女は拒むだろう。だが、
それを行使するまでは、容易く俺の申し出を断れない。


 それは、ここにいて良いと言った、俺に恩義を感じでいるから―
―――――。

 ――――――そして、ここにいなければ、彼女の先が見えなくな
ってしまうからだろう。


 俺はそこにつけ込んでいる。――――――だから痛むのだ。対等
な関係を望んでいながら、対等では到底ありえない要求を飲み込ま
せているんだから。




 話題を変えよう。




「‥あっちの部屋って、いや、俺の部屋もだけど、タンスとか、服
を収納する物がないんだよな。‥それも買ってくれば良かったかな
‥。」

「‥え、良いですよ。今日買って来た袋とか大きいですから、分類
して押入れにしまえば大丈夫です。」

「なら、買って来たものも、今日はそのままにしておいて、掃除し
た後に出した方が動かしやすいかもな。」

「‥そうですね。そうします。」


 やはりなつめも疲れているのかもしれない。病み上がりの後、あ
んなに長く外にいたのだけでも疲れるだろう。買い物はさらに疲労
するものじゃないだろうか。

 というか、俺自身がそうだった。




 コーヒーを飲み終えると、早々に部屋に向かう事にした。寝巻き
に着替えるために、先になつめに行かせると、それ用に買った荷物
を携えて、部屋へと入って行く。

 それを見届けると、俺はもう一つの問題の解決に手を付ける事に
した。


 つまり美紀への連絡だ。もう日付が変わっているが、携帯に掛け
るなら、まだ起きている時間だろう。でも――――――

 電話で美紀の声を聞いたら、普段の自分が顔を出しそうで、掛け
る事をためらわせた。
 なつめの事も、説明するには、まだ何となく上手く言えない気が
する。親父に言った事をそのまま話せば良いんだろうか―――――
―?

 そのままを話して、今の美紀が納得するとは、到底思えない。事
実には違いないのに。それに、電話で揉めてしまったら、なつめに
も気を使わせてしまう事になるだろう。

 少し考えて、メールで連絡しておく事にした。もちろん返信とし
て、美紀が電話をしてくるならしょうがない。その時は、そのまま
を話すしかないだろう。


『永澤から話は聞いた。ちょっと家の事で色々あって、休みを取っ
た。月曜に学校で説明する。』


 簡単な文章だけれど、他に書きようがない。送信を押そうとして、
また本文に戻る。文の最後に、『ごめん』の言葉を付け足した。

 美紀に謝るなんて、初めての事かもしれない。


 送信をし終わって、暫く待ったが、何の返信も返って来なかった。
やっぱり相当怒っているのか、ただ気が付いてないだけなのかは分
からないが、一応やる事はやった。そんな頃合に、俺の部屋のドア
が開いた。

 買ったばかりの寝巻きを着たなつめが、こっちへ向かって来る。


「‥着替えました。」


 何となく照れくさそうだ。ゆったりとした暖かそうな生地。デザ
インはあの携帯を選んだなつめらしく、可愛いと言うよりは中性っ
ぽいものだった。
 それが良く似合っていたので、悪いと思いながらも、ちょっとの
間はぶしつけな視線を向けてしまった。


「‥へ、変ですか?」

「いや、良く似合ってるよ。なんか、なつめらしいって言うか‥」


 そう言ってしまうと、なつめはちょっとだけ複雑な顔になった。
変な事を言ってしまったのかもしれない。


「男っぽいですから、あたし‥。」


 ややあって、彼女の口から、そんな言葉がこぼれた。しまった、
コンプレックスの部分を指摘してしまったのか。


 なつめの容姿は、確かに少女少女している方ではない。最初に見
た時には、完全に男に間違えていたくらいなのだから。
 もちろんそれは、髪型や着ている服による印象のせいだったのだ
けれども。

 今日も思ったが、それに反して中身の方は、かなり少女っぽいと
は思う。彼女が興味を示す小物などを見てみても、非常に可愛い物
が多かったからだ。だが、彼女が実際に身に纏うものは、それを覆
い隠すようなものばかりだ。

 このギャップは、外見への引け目から来るものなんだろうか?

 同世代の女子が好むような格好を、普通にしたとしても、きっと
‥。


「‥じゃ、着替えてくる。」


 そう言って部屋に向かう。今度はなつめがキッチンに腰を据えよ
うとしている。それを横目に確認しながら、俺は何とか勇気を搾り
出してみる事にした。


「‥えと、それ、‥その、可愛いと思う‥けど‥。」


 それだけを言うと、そうそうに部屋に逃げ込んでしまった。




 メールで美紀へ追加したメッセージよりも、更に自分らしくない
行動だ。そのせいで耳まで熱い。

 一体、何をやってるんだろう。

 ドラマの中の主人公にでもなったつもりか。言ってしまった後悔
が、後から後から押し寄せて来るのに、何故か満足している自分。
本当に、馬鹿みたいだ。




 混乱しつつも、服を脱ぎ捨てる。上着を全部脱いだ途端、寒さに
肌が反応した。そして数日前、美紀と行為をした、生々しい感覚が
蘇る。

 ここでまた、今夜もなつめと枕を並べる事になるんだ。

 ――――――でもやっぱり変な気は起こってない。自然に自制が
働いているからなんだろうが、なつめには、美紀などから感じられ
る、女の匂いがやっぱり薄い。

 でも本当にそうなんだろうか?ただ単に彼女に嫌われるのが恐ろ
しくて、気持ちを押し殺していないだろうか。

 よくわからない。


 絶対の自信がないなら、一緒の部屋になんて言うんじゃなかった。


 着替えがそんなに時間が掛かるはずもなく、また掛かっていると、
自分の中に湧いた、邪念の肯定になりそうで、慌てて部屋からなつ
めに声を掛けた。

 なつめは小さく返事をして、キッチンの照明やエアコンを落とし
てからこちらにやって来た。それとは逆に、俺は部屋のエアコンを
オンにした。


 2人とも、お互いの布団に潜り込み、それを確認して照明を落と
す。俺はさっきの考えに頭が捉えられたまま、疲れているのに妙に
目が冴えて、眠りに落ちる事が出来なかった。

 眠りの落ちた後の、無防備な呼吸音が響く気配は全く無い。なつ
めも起きているのだ。ますます眠るに眠れなくなってしまった。


「‥なつめ。」


 小さな声で呼びかけてみる。


「‥‥‥‥はい‥。」


 気のせいか、返事が遅い。やっぱり警戒しているようだ。


「‥ごめん、眠る前にコーヒーなんか飲ませるんじゃなかった。眠
れないんだろ?」


「‥‥‥いえ‥。」


 居たたまれない。でも、俺の方からは、もう何とも言えなくなっ
てしまう。それから暫くは、まんじりともせず、時計の音も聞こえ
ないこの部屋で、2人の押し殺した時間が流れた。


 長い時間が経ったように思った。でもそれは感覚時間であって、
実際には10分と経っていなかったかもしれない。
 なつめが動く気配がした。薄目を開けて確認すると、体の位置を
変えたらしく、布団の盛り上がりがちょっと高くなっていた。


「‥‥‥瞬さん‥。」


 なつめの呼び掛けが、さっきよりも小さく聞こえる。どうやらベ
ッドに背を向けたらしい。その意図を図りかねて、俺は返事をする
のが遅くなった。


「‥‥起きてますか?」


 再び問い掛けられた。無視するわけにもいかず、返事をする。


「‥‥うん‥。」


 何だろう?何故俺に話し掛けたのかが、やっぱり分からないので、
そのまま再び沈黙が続いても、俺から言葉は出て来なかった。


「‥‥‥‥あたし、‥瞬さんが‥、」


 え!?

 そこまで聞いて耳を疑った。

 まさか、そんな筈が無い!!‥まだ会ったばかりだし!それに‥、
なつめは俺を警戒してるじゃないか‥‥!


 横になる前に、そんな気は起こらないと思っておきながら、彼女
の突然の発言に激しく動揺してしまっている。


 やっぱり自分の気持ちなんてあてにならない!


 俺のそんな気持ちを知らず、なつめは言葉を続け出した。


「‥‥あたしを‥その‥、あたしに‥何か‥、しようなんて‥‥、
考えてるわけじゃないん‥です。」


 思いっきりの肩透かしの事実に、恥ずかしさと、衝撃を受けた。

 警戒しているのは、はっきりと聞かないまでも、一昨日既に肯定
されていたと同じだ。けれど、本人の口から出るものと、自分自身
で考えているのでは、破壊力が段違いだった。

 俺の胸には、何とも言えないざらざらしたものが広がって行く。
それは即効性の毒を持っていて、俺の体の機能を停止させた。

 俺の返答が無いのを、なつめがどう受け取ったかは分からない。
自分の動揺で精一杯の俺は、なつめが次に続ける言葉に、再び衝撃
を受ける事になった。


「‥‥でも、‥‥でもあたし‥、そういう事‥、以前に‥」


 何かに頭を強く殴られたような気がした。

 なつめが警戒する理由――――――!

 俺は勝手に、知識はあれど実際の経験がない少女の、異性に抱く
恐怖だと思っていた。でも考えてみれば、なつめは俺と美紀の行為
も分かっていたように思える。でもまさか――――――


「‥‥半年くらい前‥、母さんがまだ店をやっている時間‥‥でも、
もう夜中の2時か3時近かったと思います‥。‥あたしはもう‥部
屋で寝てて‥、誰かに‥体を触られてるのに気が付いて‥、‥お、
起きた‥ら‥‥っ、」


 気が付くと、体を起こしていた。なつめもびくりと起き上がるの
が分かった。


 暗い部屋、眠る部屋、そして男の存在――――――!


 今のこの部屋には、なつめの恐怖が全て詰まっている。


 電気が点いていれば怖くない。
 俺と接近しても怖くない。


 でも、要素が揃ってしまえば、彼女にとって、とてつもない恐怖
になる――――――。




 明るさに目が眩む。


 蛍光灯を灯したというのに、その明かりの下で、なつめの恐怖は
まだ顔に張り付いていた。俺が手を伸ばすと、明ら様に体を強張ら
せた。

 それが辛い。だから伸ばした手は、その位置で留まってしまう。  けれど、恐怖の色しか無いなつめの眼に、うっすらと涙が浮んで 来た。それはみるみるうちに溜まって行く。  それを見た途端、固まっていた俺の手は、あっさりと呪縛が解け る。そして、なつめが後ずさっても、二度と止まる事は無く、なつ めを捕らえた。  そして強く抱きしめる。  辛い思いをさせたくないと思っているのに、結局は俺の我儘で、 なつめに酷い事ばかりをしている。  そんな俺が辛いから、そんななつめを見ていたくないから、なつ めを抱きしめている――――――。  意に反して、なつめの抵抗は少なかった。あの大泣きの時のよう に、激しく抵抗されると思ったのに。  もう諦めてしまっているのかもしれない。  胸が苦しい。何でこうなってしまうんだろう――――――。  暫くそのままで過ぎた。  手の力を緩めると、逃げるかもしれない。  そう思ったが、ゆるゆると力を抜いてみた。  そうしても、頬に触れている、なつめの髪の毛が動く気配は無か った。軽く俺の肩に頭を乗せたままの格好で動かない。  俺に自信が持てて、本当に安全だって言ってやれれば良いのに。  でもそれは出来なくなって来ている。俺の気持ちは酷く流動的で、 今は庇護欲よりも、一足飛びに恋愛感情の方が近い気がする。  ――――――なつめは、俺をどう思っているんだろう?  今までは、自分が彼女の事をどう思っているのかばかり考えてき たが、初めてそんな気持ちに行き当たった。 「‥‥‥瞬さん‥」  そんな事を考えていると、なつめがやっと声を出した。  その声で、俺の中の罪悪感が、むくむくと頭をもたげで来る。な つめだってこんな事を、俺に話したくは無かっただろう。俺が言わ せてしまったのだ。 「‥‥‥ご‥、ごめん。‥俺‥、知らなかったとはいえ‥、俺なん かに‥、話したくなかっただろ‥。‥‥本当に、ごめん‥。」  しどろもどろになりながら、俺は謝った。謝ってどうになる訳で は無いけれど、謝るしかなかったから。  すると、肩に乗せていたなつめの頭が、少しだけ重くなった気が した。 「‥‥話せなかったから‥。」 「‥‥え?」 「‥‥今まで‥、母さん以外の人に‥‥、話せなかったから‥ ‥。」  ――――――話せる訳が無い。携帯電話を羨ましがるのとは違う のだ。  なつめが自分の性を押し込める理由も、外見などではなく、必死 の防衛本能なのかもしれない。  静かに、しかし冷酷な怒りが俺の頭を支配した。なつめにそんな 思いをさせた奴に対する報復を思い描いた。  今俺の目の前に、そいつがいたら――――――。 「‥‥話せて、‥少しすっきりした‥。」  なつめの言葉で我に返る。  俺には何でも言えると思って欲しいと思ったのは、昨日の事だ。  それは俺が遠い存在で、最も近い存在だと思ったからだ。だから 最も親しい人には言えない事が、気楽に言える。  でも、本当に大変な事は、俺になんか言っちゃいけないんだ。な のに、それを言える相手が俺しかいないなんて。そんなのはどう考 えても間違っている。  公平ななんてものは、、何処にもありはしないんだ。少なくとも、 俺たちには無い。  なつめを抱く手に再び力が入る。なつめも俺の体に手を回した。 お互いの体温がゆっくりと流れ合って、俺たちは今だけの安息を確 かめ合う。 「‥‥兄弟がいたら、‥こんな感じなのかな‥。」  暫く経って、ぽつりとなつめが呟いた。  今となっては兄妹でない方が嬉しい。でもそれを、なつめが望ま ないのも分かっている。  彼女が欲しいものは、欲望の対象にならない場所なのだ。  だったら俺はそれを叶えてやりたい。 「‥‥そうだな、そうかもしれない。」  俺は再び手の力を緩めると、軽く肩を掴んでなつめの体を引き離 した。 「‥そろそろ休もう。本当に今日は疲れたろう。」  そう言うと、ようやく体の自由が戻ったなつめは、ゆっくりと俺 の方を見る。  俺の顔から、何かを窺っているようでもある。少しの間そうした 後、何だか安心したように、頷いた。  そうやって、お互いまた元のように布団に潜り込み、俺は電灯の スイッチに手を伸ばした。  そこでふと、消さない方が良いか、少し悩んだ。  スイッチに手を掛けたまま、なつめの方を見た。なつめも視線に 気が付いて、こちらに顔を向ける。  俺の逡巡が分かったようだ。 「‥消して、大丈夫ですよ。」  そう言ったその顔には、明らかにさっきまでのなつめとは違い、 怯えた感じは見られなかった。  それには俺自身がちょっと救われる。  だから灯を落とす前に、どうしてもなつめに言いたい言葉があっ た。  この間、自分からは言えなかった言葉だ。 「‥おやすみ‥。」 (つづく)